2006年5月〜12月 ぶろぐ 脳内写生(過去ログ) 脳の中に白いスクリーンを広げ、そのスクリーンにオリジナルな官能的ファンタジーを投影する方法 はじめまして 2006-05-27 23:12:07 このブログは「飾り窓の天使」(福岡市中央区)の公式サイトと連携しています。 関心のある方は事前にこのホームページをご覧ください。 このブログの目的は、性愛に関する知的でまじめな思索を目的とする「性愛懐疑派」の主張を紹介するとともに、脳の中に豊かな官能的ファンタジ−を蓄積することで創造力や活力を導き出す方法を分かりやすく解説します。 愛と恋を懐疑する 2006-05-29 23:35:26 私は・・・絶滅直前の・・・「性愛懐疑派」です。たぶん現存する最後の個体であると自覚しています。 「性愛懐疑派」とは著者の造語で、「性と愛について深く思考する人たち」のことであり、「懐疑」とは疑うことではなく、心の奥でいつも自問自答するという意味です。 私の先輩は、誤解されることを前提で言えば「サド」「ニーチェ」「バタイユ」らであり、他に数人の先輩が存在します。 これらの先輩はいずれも「誤解されるように行動し、足跡を辿ろうとする者を混乱させるべくあえて道標を意図的に違う方向に配置したり、読者を惑わして誤解されることを名誉と考える」例外者たちです。 この例外者の立場から性愛を懐疑してみましょう。 一般的に愛と恋は各自が自修(自分で修得)するしかないテーマであり、たぶん皆さんは恋愛小説やドラマもしくは雑誌や友人の体験談などを通じて性と愛の知識をいつの間にか身につけてきたはずです。 しかし残念ながら性の問題は、口にするだけで笑われたり軽蔑される状況にあり、愛については「愛は人類を救う」「愛がすべて、愛がなければ生きていけない」「愛があれば戦争はなくなる」等、愛を否定すること自体許されない状況にあります。 でもそうした状況だからこそ、あえて性と愛について深く考えなければならないのではないか? 「性愛懐疑派」から見ると「愛」は互いに求め合うときだけ存在する限定的な関係であり、愛は利己的なエゴのかたまりであり、エゴが反発しあえば仲が悪くなり、エゴが引きつけ合えば愛になる状況にすぎません。 愛はもともとエゴイスティックで破壊的なものであり、「私を愛してくれるからあなたが好き」という条件付きの「よこしまな関係」、あるいは「はかない仮りの関係」なのです。 また人類を救済するための博愛(神やマザー・テレサなどのあまねく寛容な愛)もごく限られた場所と時代にしか存在しません。 なにしろイエス・キリストが誕生して2000年経過しても地球は愛に満たされていませんから。 むしろ真の人間愛とは「フェアで対等な関係」「互いに心を開いた思いやりのある関係」「他者を犠牲にしたり他者の犠牲にならない関係」「相手をあやつったり嫉妬したり強要したりしない健全な相互作用のこと」(ロビン・ノーウッド)であり、かなり知的な営みなのです。 見返りのある愛は愛ではありません、本当の愛は無償の献身・自己犠牲・心からの奉仕なのですが現代の愛は「純粋ではなく混ざり物の複合体であり、いくつかの矛盾する情念が混ざり合った集合体」(蜂の寓話より)と言われています。 実はこうした関係は「愛」ではなく、「恋」と呼ぶべき打算(駆け引き)がある関係であり、さらに進むと相手を傷つける過程、熱病のような症状、心の錯乱へと変化していきます。 たとえば献身の見返りとして愛を求めるのも打算です。 しかも恋は「相手を傷つけるもの」であり、「彼」や「彼女」を理想化して自分を欺くための口実として利用されることもあります。 ちなみにオトコとオンナの恋は「愛」というよりもエロス(官能的快楽)であり、これも自己満足にすぎません。 むしろ恋は、選ばれた人たち、破滅覚悟の人たち、自己陶酔できる人たち、愛することが許されない人たちにしか味わえないある種の中毒であり、恋は常に一時の幻影(ファンタジー)、いつか必ずさめてしまうものだから、また恋を求めてさまようことになるのです。 (著者を「恋を求めてさまよう人なんだ」と思わないでください。推理小説の作者はどんなに犯罪に詳しくても犯罪者ではないように、また官能小説の作者が不倫ばかりしている訳ではないように、性愛懐疑派も恋愛中毒とは限らないのです) 質問にお答えします? 2006-05-30 00:21:34 「脳内で妄想をうまく凝縮できない・・・何かしらの表現者になりたいのですが」という書き込みがありました。詳しいことは講座の「初級」「中級」「上級」の各コースで取り上げますが、簡単に説明すると、 道徳を懐疑すること 禁欲を懐疑すること 自制心を懐疑すること 善良であることを懐疑すること 有用であることを懐疑すること あらゆる商品化された性欲を懐疑すること 商品化された芸術を懐疑すること そして、単一の人格では窮屈と思うなら、 社会的人格を遊び着を着替えるように着脱すること オリジナルな性欲・妄想・ファンタジーを強化すること 真のアイデンティティ、真の自分らしさ、真の個性に目覚めること そして、完全な自己陶冶(脳の中の凶暴な人格をコントロールする方法)を身に付けること 難しすぎたかな・・・そこで、あえて警告します。危険ですから自己流でトライしないこと! コントロール不能の多重人格になる恐れあり!! 書き込み拝見しました。 2006-05-31 00:58:53 大衆であることに疑問を抱くことは重要なことです。 しかし、だからといって哲学を深く勉強しても得るものがありません。 なぜなら「真理なるもの」に到達しても、すぐまた新たな問題に直面するからです。 そもそも永遠の真理や不変不滅の真理はどこにも存在しないのであり、いかなる生存にも意義などないし、真理を求めること自体不毛なことなのです。無論、宗教や経典の中に真理などありません。 エントロピーの法則を引用するまでもなく、この世に確実なものは何ひとつなく、すべては変化し消滅します。いま確実にあるのは、鮮明に自己を自覚している私の脳・鮮明に自己を自覚しているあなたの脳です。 心など脳のウワズミにすぎません・・・ 実は最近、ある女性から「死ぬまでオンナでいることが可能でしょうか?」という質問を受けましたので性愛懐疑派の見解を述べてみます。 もしかしたらこの女性は「自分はもうオンナとして終わりだ」と思い込んでいるのかもしれません。 しかし女性であれ男性であれ、人は自分の意思と関わりなく他者から性愛の対象として見られることもあり、自分の意思と無関係に一方的に恋慕されることはいくらでもあります。 そんなときは拒絶するしかないと思っていませんか? 「オンナであること」の定義はなんでしょうか。 若さですか?外見上の魅力ですか?母性愛のような優しさですか?それとも女性としての身体的性的特徴ですか?戸籍が「女」だから?妊娠出産の機能があるから? ちがいます。男には女性を外見で品定めする習性があるけれど、女性が女性あること、女性が成熟したオトナの「オンナ」であることは、女性自身が自ら選択し自己決定すべきものです。年齢や外見ではないのです。 男が求める「オンナらしさ」に迎合したり従属する必要はありません。 また「オンナ」である前に、一人一人が異なる才能と個性を持ち独立した人格として尊重されるべきであり、既婚未婚に関わりなく独立した一個の人格として自分らしく生きていくこと(心の自立・自己実現)が重要なのです。 「お金」や、夫・子供という他者に左右される「幸せ」ではなく、自己の内面の充実をめざしてください。 自分の人生を自分らしく使い切ること! そしてありのままの自分を肯定し受け入れ、その自分を丸ごと受け入れてくれるパートナーにめぐりう努力を惜しまないことです。 また女性も官能的快楽のために全身の器官を総動員することを、ためらうことなく継続すべきです。 なぜなら官能領域の自己拡張は、際限のない豊かな創造力をもたらし、無分別な性欲の暴走を食い止める安全装置となり、豊かな情念をもたらすからです。いつも恋をしていること、ときめきと胸キュンを切望すること!恋する女性はいつも美しい。 女性の方もぜひ「飾り窓の天使」の「脳内写生」の講座の受講をおすすめいたします。 きっと「脳内写生」は恋愛美容法に結びつくことがお判りいただけるでしょう。 脳内写生=ヴァーチャルセックス? 2006-06-01 23:51:35 著者の主張を「ハヤとちり」して、脳内写生とはバーチャルセックスのことか・・・と誤解している読者がいると思います。 著者は、「商品化された性欲が氾濫している状況ではバーチャルセックスのように生身の女性より映像や妄想のほうが射精しやすい」という主張を肯定しているのではありません。 確かに大衆のエロティシズムの世界ではインターネットの動画を利用した「のぞきサイト」や「生チャット」「アダルトビデオ」など、生身の女性に触れない快楽が横行し、男性が「ケダモノ君から降りようとしている状 況」(「スカートの下の劇場」上野千鶴子)が見られます。 また献身や自己犠牲を嫌い、男女のドロドロした関係を回避する「セックスレス・カップル」の増加も見受けられますが、著者の主張は逆に、大衆が満足している他者に企画され商品化された官能的快楽をはるかに凌ぐ強烈な官能的快楽によって、自己の内奥(魂)を浄化し、至高性に到達することをめざしています。 しかし「性欲という危険物は抑制しがたく、高い代償を伴う」 (「自己への配慮」フーコー)と言われるように、過度の荒淫・多情は品性を落とし、信用を失い、軽蔑されてしまいます。 つまり世間は、あなたのストレートな性欲が完全に満たされることを断じて許さないのです。 もともと、人間は一瞬の射精の予期せぬ結果で誕生したはずなのに、日常的に性欲を他人に気づかれぬようごまかし、性行為を隠し人目につかぬように行ってきました。 それは外部や自己に対して性欲がむきだしになることを恐れ、世間から慎み深い道徳的な善人だとみなされたいからです。なぜ快楽を恐れるのでしょうか。 それは世間体と体面だけでなく、荒々しい快楽がときに理性を失わせ、平安を乱すからです。 だからこそ、エロティシズムは常に道徳・宗教・教育から攻撃されてきたのであり、この結果大衆は、文化・道徳・宗教・常識・学校・会社・家庭という見えない檻の中に各自の性欲を閉じ込めて、その中で臆病に慎ましく人生を送ってきたのです。 でもそれは、真に自分らしい人生ではなく、世間から押しつけられた人生・着ぐるみのような社会的人格にすぎません。 「人間であることは、演技者であることだ。内奥において人間ではないのに、ひとりの人間として振る舞うことだ。人類の一員であると自称することだ」(ゴンブロヴィッチ・要旨)「人生とは自分をごまかして生き続けることだ」(「仮の宿」・曽野綾子)違いますか? でもこれは、群れの中で生きる弱者の生き方なのです。それは、自己を懐疑したり、自分自身になりきる意志のない人の生き方なのです。 たった一度の人生なのに、お金があってもやりたいこともせず、「偽りの生き方をして自他共にごまかしている」(夏目漱石) そんな人生にどんな価値があるのでしょうか? これでは単に「まともな人間」の成れの果て・・・」になるのではありませんか。 多くの人が、「自分らしく生きたい」「本当にやりたいことは仕事より優先させる」といいながら、実際にやっていることは趣味であったり、家族サービスでしかないのです。 どうして、一度だけのかけがえのない自分の人生を、一時の気晴らしや家族という他者のために浪費するのでしょうか。 あなたも私も、先祖と両親の性欲によって生まれました。性欲ある父母から生まれた人間が、自己のオリジナルな性欲を求めることがどうしていけないのでしょうか。 どうして性欲ある父母から生まれたことを誇りに思わないのでしょうか。 大衆社会ではあからさまに性欲のことを論じると軽蔑されたり、嘲笑されます。 そして著者のように格調を維持しながらなおも性愛を論じ懐疑しようとすると、「ハードルが高すぎる」とさっさと身を引いてしまう・・・ でもこのハードルの高さを低く改めるつもりはありません。 これは大衆が例外者の世界に紛れ込まないためのバリアなのですから。 なお、このバリアを超えたい、社会的人格を着脱したいと願う方は脳内写生研究所の「初級」講座の受講をお勧めいたします。 女性であること、とは? 2006-06-01 00:34:36 前回「オンナであることの定義はなんでしょうか」と書きましたが、今回は「女性」という存在を改めて懐疑してみます。何度も繰り返しますが「懐疑」とは深く考えるという意味です。 その前に「おさらい」をしておきます。 脳内写生は、まず商品化されていない自分だけのオリジナルな官能的快楽や妄想・ファンタジーを脳のなかのスクリーンに鮮明に投射し、その世界に酩酊し陶酔することであり、次にそのエネルギーを利用して創造力や活力を引き出し、最後に至高性という新たな異界に到達しようとする試みです。 このため脳内写生をめざす男性にとって、女性という存在はかなり重要な要素になるのですが、この女性のことを男性はほとんど判っていないし、女性もまた女性であることをほとんど理解していないという問題があります。 このため性愛や結婚・女性の自立について本格的に議論する前に、まず「女性の歴史と女性学について」ざっと整理する必要があるのです。 なぜなら、女性は自分が女性であることの意味をあまり知らないからです。 これって、大事件だと思うのですが・・・。 たとえば「女扁の漢字」を書き出して見てください。 奴隷 妄想(みだりに思う) 奸計(よこしまなはかりごと) 安価 如才 好色 妙齢 妨害 妥協 妓芸 妊婦 婦人 嫌悪 嫉妬 妾妻 委ねる 始める 姉 嫁入り 姦しい 姥桜 娘(よい少女) 娯楽 婚姻 媚びる 娶(めと)る 媒介(なかだち) 嫡子 手弱女(たおやめ) 嬲(なぶ)る お嬢さん 妖艶 媚(こ)びる 嬌声 石女(うまずめ)・・・ どうですか?「女扁の漢字」にはろくな漢字がありません。 それに男性の靴は「紳士靴」と呼ばれ、女性の靴は「婦人靴」と呼ばれています。 男女平等という観点からいえば「紳士靴」の対義語は「淑女靴」になるはずです。 またmotherから「m」を取ればother=他人となり、ウーマンとは子宮がある人という意味です。 これは、女性が世界規模で有史以来、抑圧され差別されてきたという証拠の一部です。 民主主義の発祥の国イギリスでさえ、女性に選挙権が認められたのは77年前(1929年)のことであり、世界中に女性にかぶり物(スカーフや帽子・ベール)を強要する文化が未だに根強く残っています。 さらに近代オリンピックの創始者クーベルタンですら「私はスポーツする女性の姿は見たくない」と公言していました。 なぜ女性は結婚したとき、名字を変えなければならないのでしょうか? また長い間、既婚女性は自己の意思に反して妊娠させられ、子育てに専念し、そのことを美徳と思い込まされてきました。それだけではありません。 13世紀から17世紀にかけて魔女狩りで処刑された900万人の女性のことを忘れないでください。この死者の数は過去のすべての戦争で死亡した兵士の数よりはるかに多いのです。従順でないだけで魔女と決めつけられ、ほんの少し変わり者であっただけで火刑に処せられた多くの女性たち・・・ひどいと思いませんか? そして十字軍に出征した貴族たちの妻に装着された不潔な貞操帯。男にとって女性は「植民地」であり、浮気をした妻は夫のリンチを受け姦通罪で処刑されました。 世界史・日本史に残る多くの政略結婚を思い出してください。女性は友好のための貢ぎ物であり、戦争を回避するための抑止力でした。 また多くの国で、男性から離婚ができても女性から離婚の申し立てができない時代ありました。 ところがその時代の男は公然と買春行為をくり返していたのです。 船や戦車に女性を乗せないとか、相撲の土俵に女性は上がれないとか、女人禁制の寺院があるとか、どうして男達は女性を避けたり蔑視するのでしょうか? 私的な世界において女性は愛や恋の対象であるはずなのに、公的な世界では女性を忌避したり、反対にファーストレディの習慣のように女性を著しく弱いものとして扱いたがる。 男達の、この二面性を女性は不自然と思わないのかな? さらにアフリカの一部に今日でもなお「クリトセクミー」(女性が快楽を感じないように陰核を切除する風習)が現存しますし、性的に無知な女性を欲しがる「処女崇拝」(イヴ・ヴィーナス・聖母マリアなど)もあります。 これは男が秘かに抱く「女性の性器を借りた『ひとりよがり』のオナニーをしたい」(上野千鶴子)という願望の現れと見るべきでしょう。いずれにせよ女性を取り巻く状況が、ひどすぎると思いませんか? 人格の着脱について 2006-06-02 22:15:29 著者は「娼婦が客の前でドレスを脱ぐように」(バタイユ)人格を着替えたり、遊び着に着替えるように自由に人格を着脱することをあえて訓練すべきであると述べてきました。 大衆社会から見るとこうした主張は二重人格もしくは多重人格を意味します。 読者は24の人格を持っていたビリー・ミリガンという実在の人物をご存知でしょうか? 関心がある方は http://www.qualia-manifesto.com/billy.html 「創造性と感情のシステムにおける他者との関係」(茂木健一郎著)をご覧ください。 この文章の中で茂木氏は「脳のメカニズムに関する多くの知見がそうであるように、例外的な事例、異常と思われるような事例が、創造性と感情の関係について多くことを教えてくれる・・・ビリーミリガンは、その好例である。いわゆる多重人格障害(解離性同一性障害)で天才的な絵を描くビリーミリガン。多重人格については、その存在自体を疑う人も多い・・・多重人格というのは、犯人が罪を逃れるために作った嘘なのではないか、あるいは精神科の医者が作り上げたフィクションなのではないか、と考える人もいる。私も実は、解離性同一性障害の存在自体を疑っていた時期があった。しかし、ある確実に存在する症例の意味について考える過程で、ビリーミリガンのような人物が実在してもおかしくないと考えるようになった」と述べています。 著者はビリー・ミリガンのような多重人格になれと言っているのではありません。 ビリー・ミリガンの多重人格はコントロール不可能な解離性同一性障害であり、精神障害として治療の対象になります。 一方著者が主張する人格の着脱は自己の意思で白昼堂々と社会的人格を乖離させ、オリジナルなファンタジーと遊び戯れることで創造力や活力を強化させるものであり、コントロール可能な人格乖離なのです。 もちろん、これには専門家からの異論が提起されるでしょう。コントロール可能な人格乖離などありえない、コントロール可能な人格乖離は真の人格乖離ではないと・・・ しかし、官能的快楽の圧倒的な破壊力や爆発力を活用することで「例外者」としての人格を獲得できるのであり、精神障害や犯罪者になることなく快楽を活用できる(「快楽の活用」フーコー著)のです。 ただ、そのためにはどうしても訓練が不可欠です。 自由を懐疑する 2006-06-03 23:48:39 大衆はいとも簡単に「自由」という言葉を口にします。 たとえば「自由に行動する」「自由に考える」「自由きままに生きる」「表現の自由」「自由○○党」などです。 では「自由」について懐疑してみましょう。読者は本当に自分が自由であると信じていますか? いいえ、実は大衆は自由ではありません。 大衆のまわりには法律やさまざまな規則・各種エチケット・常識や慣習・道徳・宗教的戒律・上下関係などが目に見えない網の目のように張りめぐらされています。 本来、自由とはなんら制約もない随意の言動のことなのに、人間は国籍・人種・自然・風土・環境・性別すら選べないのであり、「なにをしなくても良い自由」ですら批判の対象になってしまいます。 また大衆は他人の目を常に意識したり、監視カメラという他者の視線に囲まれて生活しています。 しかも大衆には「良心」とか「自制心」という自己規制の回路が組み込まれています。 つまり「自由」というのは「ないものをあるように見せかけた、だまし絵のようなもの」と言わざるを得ません。 大衆は、道徳や常識に飼馴らされ、「しがらみ」に囲まれて生き、自由を懐疑することもなく、単純に自由だと思い込んでます。しかしそれは真の自由ではありません。 それは選べない生存条件に束縛された、強いられた人生であり、規範という目に見えない檻に入れられ、やがて死ぬことを宣告された強制労働の囚人に似た人生なのです。 大衆は宗教・道徳・常識に従っていれば安心し、規範がなければ不安になり、自ら依存できるものを必死で探します。だから大衆は不動産を所有すれば不動産に逆所有され、ペットを飼えばペットに飼われてしまいます。なぜなら、大衆は本質的に自由な支配者ではなく、従属を好むからです。 そして、自由でもないのに自由と思い込み、自由を標榜すれば自由が簡単に手に入り、平和を唱えれば平和が実現すると信じています。 至高性の世界には従属すべき常識も道徳も神も仏も宗教も霊も教会も寺院も教祖もありません。 53の沈黙した読者 2006-06-04 23:43:22 実はこのブログは難解すぎて、読んでくださる方がほとんどいないだろうと思っていました。 ところが毎回少しづつ読者が増えて、気が付いたら50名を超えていました。 しかし、著者はこの人数について喜ぶべきなのか、反省すべきなのか困惑しています。 このブログは「判る人に判ればいい、判らない人には判らなくていい、大衆にではなく選ばれたごく少数の例外者へのメッセージに徹する」というスタンスを貫いて来ました。 それにもかかわらず50名を超える読者がいるとは・・・著者が設定した知的ハードルが低すぎたのでしょうか?それとも私が想定した以上にハイレベルな人たちがいたのでしょうか? もしそうであるなら例外者をめざす同胞(はらから)に対して、著者はより新鮮で異質なメッセージを発信し続けなければならないと思っています。 そしていつか至高性の入口であり、アジールである「飾り窓の天使」店で、読者の皆さんと相まみえる日を楽しみにしています。あなたがあなたであるための異質な部分を、どうか大切にしてください。 例外者は皆、孤独です。誰にも理解されず、誤解され、そしりを受けます。 しかし、例外者にとって理解されないこと・誤解されることがこの上ない名誉となります。 それはあなたが大衆の一員ではない、なによりに証拠なのですから・・・ 次回からこのブログは、さらにバージョンアップするつもりです。 官能領域の自己拡張 2006-06-05 19:31:05 「オタク」と呼ばれる人たちがいます。著者から見ると彼らも他者によって企画され、商品化された物欲や性欲・官能にふりまわされた人たちにすぎません。 現代は、他者によって企画され商品化されたエロティシズムが氾濫しすぎていて、自己の固有の純粋な性欲が衰退・退化してしまっています。 実は、これほど快楽をめぐる情報があふれていても、大衆がけっして立ち入ることのできない私秘的が領域があるのです。 読者には、はかつて世間体や羞恥心から逃してしまった、はかない恋や性愛のほろ苦い想い出があるのではありませんか? また、自己の品性を落とすまいと考えたり、自己の醜悪さに自ら直面することを恐れて踏み込めなかった官能的快楽の世界があったのではありませんか? たとえば、通勤の途中や街の中で見かけた、ほんの一瞬のスカートのひらめきや、通りすがりの見知らぬ女性が見せた、なにげないエロティックな仕草や光景に一瞬強く魅せられたことがありませんでしたか? また過去の性交の一場面だけが鮮明に脳裏に残っていて、それが時々白昼夢となって脳裏に出現することはありませんか? 実は、こうした誰もが経験したことのある断片な出来事こそ、他者が企画したものではない、あなた固有の性欲を知る貴重な手がかりとなるのです。 大衆はこうした経験があっても、それ以上自己のファンタジーを追究することはありません。 大衆は欲情したとたんに、商品化された性欲で満たそうと単純に暴走しまうからです。 しかし、自己の性欲の実相を見極めようとする者は、抑圧されて満たされなかった性欲やエロティックな白昼夢や過去の忘れられない光景をすべて脳裏に思い浮かべ繰り返しこれを鑑賞する必要があります。 できれば白昼夢を絵コンテ(スケッチ)にしたり、ほんの少しでも性欲をそそる写真や映像・文章を見つけたら極力切り抜き、あなた独自の官能のデータベースを作るべきです。 あなたは本当は何をしたいのか。何をされたいのか。何をされたくないのか。 ヴァギナにとらわれた単純な性交から自己を解放したうえで、正常とか異常とか低俗とか卑猥とか羞恥心などの一切のとらわれを捨てて、ひたすら内的ファンタジーの翼をひろげ、自己のオリジナルな性欲や官能的快楽の世界を自在にとびまわってみてください。 あさましいとか、グロテスクだという意識が働くときは、あなたはまだ社会的人格にとらわれています。 人格は社会があなたに付与した仮面でしかありません。 ひとりになれる静かな場所で、これまでの人格や理性・自我を捨ててください。 「貴婦人がゆきずりの男の前でドレスを脱ぐように、人格を脱ぎ捨てよ」(バタイユ」 人格は単一・普遍のものではありません。 人は状況次第で鬼にも仏にもなれるのです。社会から付与された、たったひとつの硬直した人格しかない窮屈さ、己れの人格から一歩も外にでられない小心さを、惨めと感じたことがありませんか? 脳の中で別の性別や人格を、遊び着のように脱いだり着たりする自分を想像してみてください。 自己の官能のデータベースを作り、あなたがどういう状況で欲情するのか、何に強く魅せられるのか、そして固有の性欲が自覚できたら、こんどはその固有性・異質性を強化する方向へあえて意識を集中してください。 大衆が考えてはならぬことを考え、従来の自己の理性や性欲の限度を超え、自分で自分の快楽・官能のあり方を決定してください。あなたの行く先には道がありません。 しかし自己の「n個の性欲」に集中していれば、暗闇の中に狐火のようなほのかなあかりが見えて来ます。 例外者は、あえてそこをめざせ。 (くれぐれもこのブログを読んで性犯罪者にならないでください。知的レベルが高い読者ですから脳の中から逸脱しないと思いますが、念のため・・・) 性の解放 2006-06-07 00:55:37 例外者は、「性の解放」を求めることはありません。また宗教・道徳を否定しても、これを破壊することもありません。 なぜならエロティシズムは、けがれること、抑圧されること、差別されること、誤解されることによって高められるのであって、タブーや道徳・常識をあえて破ること、超越することに「貴重な価値があり」(ニーチェ・要旨)、これによって至高性に到達するからです。 人目を忍ぶ仲でなければ、激しい恋は生まれないし、教師は断じて猥褻なことをしてはならないというタブーがあるからこそ盗撮や援助交際をしたくなるのです。 「タブーを破ることなくして快楽はない」 (「純然たる幸福」バタイユ・要旨)間違いなく快楽は禁止や抑圧がささえています。そしてこの禁止の侵犯によって官能領域は拡大します。 禁じられたものは、禁じられることによってかえって怪しい魅力を持ち始めるからです。 深い快楽と至高性を認識するためには、あえて大胆にタブーを破ることと、大衆が嫌悪する「呪われた領域」(バタイユ)への超出、罪ある冒とくが不可欠なのです。 バタイユも「この仕組みが判らぬ限り、エロティシズムも宗教も理解できない」と断言しています。 ちなみにエロティシズムの領域で、最大のタブーはインセスト(近親性交)でしょう。 本来、「インセスト・タブーは女性を公平に分配し、労働力とするためのルール」(「書物の解体学」吉本隆明・要旨)でした。 また、「外部との婚姻が人質として戦略的に有利であった」(「象徴交換と死」ボードリヤール・要旨)こと、さらに女性が子供を生むことから一種の「資産」であったためにこのタブーは発生しました。 ところが、インセスト・タブーによって、近親者のエロティックな価値は逆に高まってしまうのです。 そして、やがて禁断の果実だからこそ食べる価値がある、「最も聖なる掟を侵犯すことで、超自然的な危険な力を獲得する」(「人間と聖なるもの」カイヨワ・要旨)と考える支配者が現れ、同時に聖なる血筋を守ろうとする王者が出現します。 わが国にも「ロイヤル・インセスト」の史実があるように、タブーを侵犯する高揚感こそ王者の特権でした。 「インセスト・タブーが厳しく問われたのは、それだけ獲得するエネルギーが大きい」(渋谷申博・要旨)と信じられたからでしょう。 しかし、改めて懐疑してみると確実な避妊が可能なこんにち、劣性遺伝の心配もないのですから、もはやインセストを禁じる明確な理由がありません。 「この世に侵犯してはならないタブーなどない。打算があるだけだ 」(「貴人論」宮原浩二郎・要旨)その通りなのです。しかし、ここで安易に行動して変質者の汚名を着せられることは、もっとも愚かしいことです。 また、侵犯は「ばれないようにやればいい」と言うものでもありません。 著者は、熟慮の上で重い罰や死を覚悟してあえて禁止を侵犯する者には、いかなる法も道徳も意味がないと言っているのです。 この意味において、インセストは無論のこと「なにごともためされるべきであり、殺人も人食も許される」(「資本主義の文化的矛盾」 ダニエル・ベル)の主張は正しいのです。 (このブログは限られた小数の例外者のためのメッセージであり、高度な読解力がある知的な脳内写生を探求する者へのテキストであり、一般的な読者を対象にしておりません。このブログに関心のない方や嫌悪感を抱かれる方は閲読しないでください。なお著者には憲法上の「表現の自由」が保障されています) 外部から操られ、商品化された性欲 2006-06-08 00:44:45 なぜ男性は、買春・レイプ・痴漢・セクハラ・盗撮と「悪いこと」ばかりするのでしょうか。 それは男性の性欲が外部から操られており、常に外部に向けて性欲を発散しようとするからです。 たとえば一般的に男性は女性を支配・コントロールしたり、女性を「商品」やヴァギナそのものにおとしめることで優越感や征服欲を獲得したがります。 しかしこのことは裏返せば、男性の性欲はつねに「商品化された性欲」に依存し、ヴァギナに従属していることを意味します。 つまりあなたの性欲はあなた自身のものではなく、ましてあなたのオリジナルな欲望ではなかったのです。 例外者は、外部からのエロティツクな刺激と内的ファンタジーを明確に認識でき、外的刺激を巧みに内奥に取り入れてこれを独自にアレンジし、自己の固有の性欲に従属させ自己の官能を強化したり拡張したりします。このため例外者は、大衆の側から見ると時として強烈な奇癖を有しているように見えることがあります。 もうひとつ男性の性欲に関して避けて通れない問題があります。 それは男性はヴァギナにとらわれている、射精にとらわれているという事実です。 通常、男性にとって性交の目的は射精であり、射精によってしかオーガズムが得らず、射精によって性欲が満たされると思い込んでいます。 そして飽きもせずヴァギナを見たい・触りたい・覗きたいと切望し、どこかにピンク色の花弁があるのではないか、どこかに名器があるのではないか、という幻想にとらわれて男性はヴァギナを求めさまよい続けます。 このような男性の執着はやはり「商品化されて性欲→外的刺激→興奮→勃起→性交→射精→オーガズム」という一連の抜きがたい固定観念(DNA?)に由来します。 しかし脳内写生というファンタジーを身に付ければ、射精とオーガズムは一体ではなく分離可能な現象であり、射精だけがエクスタシーではないことに気付くはずです。 もしかしたら女性たちは、このファンタジーからエクスタシーを得ていたのかもしれません・・・ 考えてみれば色も形も感触も大差ない「鈍いヴァギナ」をめざして「鈍いペニス」が勃起し、数分で射精するという性交を男たちは数万年も繰り返してきたのです。 この単純さ、つまらなさにどうして男性は気が付かなかったのでしょうか? 女性たちはとっくに男性の性欲の単純さを見抜き、ときには退屈でうっとおしく感じているのです。 そればかりかこの単純さを逆手にとって、性交をエサに平然とオヤジを利用することを十代の少女までがおぼえてしまいました。この単純さから抜け出ぬかぎり男性は女性に振り廻され、裏切られつづけるでしょう。 最適な快楽器官とは 2006-06-09 13:56:01 もはや性交には、パートナーをつなぎとめる力はありません。 仮にどんなに激しい性交をしても、お互いの心の溝は埋まりません。 性交にはパートナーとの「きずな」となることはほとんどなく、ほかの利害と結びついたときだけ「きずな」となりうる時代です。 またオーガズムは単なる「なれ」とタイミングの結果であり、生理反応にすぎません。 多くの男性は、性交とオーガズムによって女性の心まで手にいれたと錯覚しますが、そのとき女性は好きでもない男性にオーガズムを覚える自分の肉体にあきれ果てているのかもしれないし、ただ演技しているだけかもしれないのです。 性交しただけで「深い関係」になった、パートナーを征服したと思い込んでいませんか? たとえ夫が妻に対して所有権を示すペニスという杭をヴァギナに打ち込んでも、それは気休めでしかありません。 気休めどころか、(何度も引用しますが)それはヴァギナを借りた「ひとりよがりのオナニー」 でしかないのです。(「発情装置」上野千鶴子・要旨) 実に矛盾したことなのですが、男性は性交中ずっとオーガズムを我慢し続けています。 快楽を求めて性交しているはずなのに、それを感じてはならないと自分に言い聞かせています。 その姿は滑稽ではありませんか・・・ それにくらべ女性のオーガズムは貪欲で際限がありません。女性の快楽に比べたら、男性の快楽はあまりにも貧弱すぎます。 「どうして男性には、身も心も溶けてなくなるような官能的性交がないのか」(「YES YES YES」比留間久夫・要旨)という状況なのです。 結局、男性が性交によって女性を満足させ支配するという戦略はもはや通用しないのであり、すでに女性からの「満足させてもらえない」という異議の申し立や、性交の主導権を手に入れたいという女性の意志表明すら見受けられます。 たとえば「もはや女性にとって、ペニスは最適な快楽器官ではなく、女性のオーガズムにとってペニスは不可欠なものですらないのだ」(ベイカー&モリスの研究・要旨)と言う主張もあります。 たとえば著者は昼間、若い女性が一人でアダルトショップに入り、電動式の性具を堂々と購入する場面に偶然遭遇したことがあります。 こうした現実を見るとき、至高性をめざす例外者も、もはやヴァギナだけが最適な快楽器官ではないと認識する必要あると思います。 商品名化された性欲の氾濫や「外的刺激→興奮→勃起→性交→射精」という男性の性欲の単純さに気づき、脳内写生という新たな官能領域を獲得することで射精とオーガズムを分離できれば、男性は鈍いヴァギナに従属せずにすむのであり、際限もない官能的快楽を手に入れることができます。 ただし、著者は何度も繰り返しますが「生身の女性より映像や空想のほうがオーガズムに達しやすい」といっているのではありません。 大衆のエロティシズムの世界では「テレクラ」「アダルトビデオ」「ヘアヌード写真集」など、生身の女性に触れない快楽の横行や、男性が「ケダモノ君から降りようとしている」状 況(「スカートの下の劇場」上野千鶴子)にあり、さらに献身や自己犠牲を嫌い、男女のドロドロした関係を回避する「セックスレス」の増加が見られますが、著者は逆にパートナーに依存したオーガズムを凌ぐような強烈なエクスタシーによって、魂を浄化することをめざしています。 n個の人格・n個の性・n個の性欲 2006-06-10 23:57:42 強烈なエクスタシーによって魂の浄化をめざす至高の例外者は、脳内に以下のような多様なファンタジーを有しています。 ?社会的人格を着脱したあとの、コントロール可能なn個の人格 ?ジェンダーとしての男性性・女性性・男女いずれでもない無性性・両性具有性・人間以外の存在(動物・ 植物・妖怪)等のn個の性 ?商品化されていないオリジナルなn個の性欲 「n個」の「n」とは説明するまでもなく「1以外の任意の数値」のことであり、その数値は各自異なります。したがって計算上「nの3乗」のファンタジーが可能となり、これが例外者が体験する脳内写生の数値モデルとなります。 「nの3乗」と言う豊かなファンタジー・枯れないファンタジー・尽きない妄想・あふれ出る妄想、これが例外者の創造力や活力の源泉なのです。 そのうえで、自己の内奥の官能領域をくまなく渉猟し、自らの性欲の多様さと底無しのファンタジーの深淵をつぶさに見届け、いかなるタブーをものともせず、ためらうことなく「けがれること」が重要なのです。 いかなるときもブレーキを踏むのではなく、迷うことなくアクセルを踏み続けること、たとえそれが分厚いコンクリートの壁であっても・・・しかしこれは、生半可な能力や勇気でできることでありません。 固有で異質な純度の高い性欲と、内奥の自在なファンタジーが結合すると、とてつもないエネルギーが突如として噴出してきて、おおかたの者はコントロール不能に陥ってしまいます。 だからこそ性欲は恐れられ、快楽は戒められてきたのです。 しかし実は、このとてつもないエネルギーの噴出こそ真の「聖なるもの」であり、神仏や宗教を超越した至高性に到達する唯一のルートなのです。 だが同時に、大衆にとってこうした行為は「呪われたもの」以外のなにものでもありません。 ここで求められる能力は、高純度の性欲と内奥の抑圧されていないファンタジーが一気に混ざらないように両者を区別し、状況に応じて混合率をコントロールする冷静な抑制力です。 そのためには、陶酔し酩酊しつつも良く目を見開き、高純度で多様な性欲と自在に飛びまわる暴走ファンタジーが不用意に結びつかぬようにつねに警戒する訓練が必要となります。 そして少しづつコントロールすることが可能になったら、大衆の目が届かない「アジール」で目の眩むような強烈なエクスタシーを味わえばいいのです。 ハーレム・アジール・亡命 2006-06-11 22:18:45 至高性を求める例外者にはかならずしもパートナーは必要ありません。 白昼堂々と人格を脱ぎ捨て、ぬけぬけと固有の快楽に浸り、妄想を激しくシェイクしながら大衆が許されないタブーを侵犯することは、現実の性交より深いエクスタシーがあります。 頭の中で考えることに罪はありません。人格や理性・自我を捨て、誰も知らない自分だけの王国・ハーレム・アジールにときどき亡命してみてください。 亡命は逃避ではありません。ただ大衆とのトラブルを回避するための一時的な避難なのです。 例外者の嗜好がどんなに変わったものでも、それは例外者の人格や精神の異常性を裏付けるものではありません。例外者は病気ではないし、倒錯者ですらないのです。 例外者は明確な意識を持ち、自己の意志で人格を脱着し、たぐいまれなる陶酔を有する、選ばれた至高の「まれびと」なのです。 「ペニスやヴァギナにとらわれないことは、全身に官能性が偏在する」(「ポケットフェティッシュ」松浦理英子・要旨) ことであり、快楽のために全身の器官を総動員することを意味します。 そして官能領域の自己拡張は、際限のない豊かな創造力をもたらし、むしろ無分別な性欲の暴走を食い止める安全装置となります。 くれぐれも早呑込みしないでください。 著者は、一般大衆に向かって無秩序なエロティシズムの狂宴にふけろと主張しているのではありません。 「欲望と執着は断つことができない。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きることが地獄」(「大河の一滴」五木寛之・要旨)なのであり、その大衆の地獄こそ例外者の唯一のすみかだと言っているのです。 そして、固有の高純度の性欲と、広大な官能領域と、そこを自在に飛び回る豊かなファンタジーを獲得できぬ者が、変質者や犯罪者になるのです。 大衆の中には性豪とか色事師、ナンパ師という性交した相手の数と、一夜の性交回数やテクニックを自慢する男女がいます。 彼らにとって、ナンパや性交、強姦は「手柄」(「レイプ・男からの発言」ティモシー ベイケネ・要旨)であって、性交は相手をおとしめる手段にすぎません。 この手合いは一見いかにもエロティシズムの達人や、アウトロー的例外者のように見えますが、彼らこそ外部の刺激や商品化された性欲、ペニスとヴァギナに従属したあわれな漁色家なのです。 性交回数と人数を自慢する人物は、ただの早漏にすぎません。 ここまでおいで!! 2006-06-14 00:34:12 昨日このブログを継続して読んでくれているある若い女性から「内容がむずかしい・・・」という話を聞きました。 また他の読者から「難解すぎる」とか、「もう少し判りやすく」とか、「引用されている知識の分野が広すぎて付いていけない」など様々な要望が寄せられています。 特に「n個の人格・n個の性・n個の性欲」に関して「ホントそうなるの?」という質問がありました。 脳の中でファンタジーの翼を思う存分広げ、自ら拡張した広大な官能領域を自在に飛び回り、リアルな官能的快楽(白昼夢)を獲得することが脳内写生のテーマなのですが、社会的人格を身にまとっているときに「ホントにそんなことができる?」と聞かれると「ホント!」と真面目に答えても説得力がありません。 現実よりリアルな体験なのに、それを語ろうとすると空虚になってしまう・・・妄想は一種の夢だから? ちょっと待ってください。 現実のほうが実は実態がなくて、実態のない世界のほうに真理があるということだってあるのです。 それを一言で表現したのが「色即是空 空即是色」なのですから。 「オタク」と呼ばれるわが国から生まれた文化もすでに誕生してから15〜20年ほどになると思います。 したがって、「オタク」世代のなかには30代・40代の方もいるし、あるいはそれ以上の世代の方も含まれているのではありませんか? そしてその中には、アニメやフィギュアという商品化された嗜好・与えられた嗜好をただ追い求めるのではなく、もっとオリジナルな嗜好対象を自ら求める知的な「オタク」世代が確実に存在すると著者は確信しています。 それだからこそ、あえてこのブログのハードルを下げたくないのであり、あくまでも著者は孤高の例外者としてただ一人常に異質なメッセージを発信し続けるのです。 あいにくですが著者に言えることは、ただ一言「ここまでおいで」としか言えません・・・ もう少し判りやすく解説してほしい方は、「飾り窓の天使」店までお問い合わせください。 いま、セミナーを企画中です。 なお、このブログは主に男性の読者を対象としていますが、実は女性の読者が半数もいて「性愛懐疑派」としてもっと女性のことを論じて欲しいという要望が増えています。たしかに脳内写生のテーマに偏りすぎていた傾向がありましたので、次回から4〜5回に分けて男性が読んでも興味がわくようなフェミニズムを論じることにします。 先日福岡のあるテレビ局が「飾り窓の天使」の取材に来ました。そのときの様子は近日中に「飾り窓の天使」のホームページにUPいたします。 また店長の JUN JUN のコメントも紹介します。 男女差別と男女平等を懐疑する 2006-06-15 01:06:08 真の人間愛とは、フェアで対等な関係から生まれます。 しかし性愛懐疑派の立場は、「男女は対等になるべきではない」と強く主張します。意外ですか? ではその理由を説明いたしましょう。 雇用機会均等法ができても、現実的にはいまだに男女に賃金の格差があります。 また女性のための雇用機会均等とは、しょせん男性中心の経済社会に女性が招き入れられ、安価な労働力を提供させられているにすぎませんし、多くの場合女性が男の代用品として働かされ使い捨てにされているに過ぎません。女性の皆さん、男女平等の風潮に何か矛盾を感じことはありませんか? 実は「飾り窓の天使」という変わったお店を始めたのも「女性を雇用したい」と考えたからではなく、「ひとりでも多くの女性を自立させたい」と心から願っているからです。 女性は断じて「男の代用品」として働かされるべきではありません。 たしかに男女差別は撤廃すべきなのですが、男女はけっして均等ではないし均等になれません。 なぜなら男にしかできないことはほとんどありませんが、女にしかできないことが厳然とあるからです。 たとえば妊娠・出産・授乳・官能的快楽の深さを思い出してください。 これはどんなことをしても男が代わることができない特質です。 これだけの特質を女性は持ちながら、どうして男と同じように働き、男並みかそれ以下の賃金しか受け取れないのですか?それではあまりにも惨めではありませんか・・・ つまり男女平等は理想なのですが、男女の差異こそ尊重されるべきであり、相互に補完すべき役割があることをお互いに認めることが必要なのです。また誰もが平等では、才能ある人にとって不満となります。 やる気のある人は評価してあげなければなりませんし、努力する人は応援してあげなければなりません。そして実績がある人、能力のある人は男女の区別なく正当な報酬を受け取るべきなのです。 これこそ、フェアで対等な関係なのではありませんか? ここまでは大衆社会における男女平等について理想を述べてきました。 ここからは、性愛懐疑派の見解を述べます。 まず女性は、男並みの肉体労働をすることで男並みの給料を獲得しようとするのではなく、より女性らしさが発揮できる領域で自己実現(自分が自分らしくあることを上品に知的に追求する努力)を目指すべきなのです。そのためにはまず、自分の人生は自分で切り開くと決断することです。 そしてなにごとも自分で考え決断し、全責任を持つこと。 女性には自分の居場所がどこにも用意されていません。たとえ「自分探し」をしても、その答えはどこにもありません。恋人や夫・子供・家等にかまけるのではなく、自分だけをを大切にする生き方を貫いてください。 自分の問題から逃避せず問題を直視すること、頼れるものなどなにもない、自分を信じるしかないと「あきらめる」こと、常に自分の可能性を試してみること、女性としてではなく、「自分にしかできない何か」をめざすこと、孤独をおそれるな、自分の人生を充実させることができるのは自分だけだと気付くこと。 そして自分の頼りなさ、無力さに気付くこと 一人であることに耐えるしかない、孤独は一生付きまとうし、誰もが他者に理解されない孤独な存在であると自覚すること・・・ ここまで一気に書くと「そんな生き方はごめんだ」という女性のつぶやきが聞こえてきます。でももう少し言わせてください。 経済的自活と自立は違います。自立とは心の「ありかた」であり、自分を客観的に見つめることであり、経済的自立・精神的自立・血縁からの自立を意味します。 いま、頼りない男性が増加しています。むしろ今こそ女性が本当に自立するチャンスなのではありませんか? そうすれば男性よりしなやかに、たくましく生きることができ、男性と対等にならずに済むのです・・・ あなたの一度だけの自分の人生を、自分らしく使い切ってみませんか? 幸せになりたい・・・ 2006-06-16 00:28:09 しかし、女性は皆さん心底から自立したいと思っていません。残念ですが、ただ自立のまねごとをしているだけです。女性のホンネは「とにかく依存したい・・・従属したい・・・保護してほしい・・・幸せな結婚をしたい・・・」のではありませんか? そして「誰でもいいから結婚したい」「だれかいい人いないかな?」といつも周囲を見回しています。 そして多くの女性たちはその願望が満たされないから、仕方なく働き続けているのです。 でも「幸せになりたい」という願望を一度懐疑して見るべきです。 「女性は自分が女性であることの意味をあまり知らない」と以前指摘しましたが、ここでこの意味をもう少し深く考えてみましょう。「女は女として生まれるのではなく女として育てられる」。 これは有名なボーボワールの言葉ですが、女性は少女のころから「可愛いこと」「優しいこと」「従順であること」「幸せな結婚をすること」を両親や周囲の人たちから繰り返し吹き込まれて育ちます。 女性の皆さん、身に覚えがありませんか? その結果女性は「いつか運命の出会いがあり素敵な王子様が私をさらってくれる」と空想するようになります。 これこそ「シンデレラコンプレックス」というあなたの両親が行った刷り込み(洗脳)の結果なのです。 でも、いつ現れるかわからない「素敵な男性」との結婚待ちのために、若さを持て余して習い事などで時間をつぶしていることは空しくありませんか・・・ そんなとき「運命の赤い糸」が結ばれ、運命的な出会いをして、めでたくゴールイン!! でもそれは本当に運命なのですか?結婚がゴールインなのですか?スタートラインじゃないのかな? あるいは「結婚はしたい、でも理想の相手がいない、自分を生かす仕事をしたい、でも仕事がない、どうにかしなくちゃ・・・」そんなとき女性は突然結婚を決意します。 結婚はOL生活の最高の逃げ道なんですね。 でもちょっと待ってください。いま女性の人生の選択肢が大きく広がっています。 たとえば「結婚する、しない」「子供を産む、産まない」「結婚後働く、働かない」「姑と同居する、しない」「不倫する、しない」「離婚する、しない」・・・などなど。 つまり現代は女性としての生き方に迷うくらい多様な生き方ができる時代なのです。 それなのに思いつきで結婚して後悔しませんか? 「でも結婚だけはしたい」と女性は言います。 ではお尋ねします、夫を見つけること、子供を産むこと・・・それがあなたの人生の目的ですか? 人生は80年以上もあるのですよ。子育てなんて20年もかからないのですから。 しかも一夫一婦制という婚姻制度は、明らかに崩壊し破綻しています。 あなたの周囲を見回してごらんなさい。 不倫・夫婦別姓・家庭内別居・離婚率の高さ・セックスレス夫婦・子供を作らないなど・・・それでもまだ結婚したいのかな?まだ・・・気付かないの? この機会にもう一度「幸せな結婚をすること」の意味を深く考えてみるべきです。 もう一度言います、「幸せな結婚」は少女のころに刷り込まれたある種の暗示です。 「幸せな結婚」は幻想であり、幸せの大部分はお金が支えています。 お金がなくなると、幸せも消えてしまします。 愛は空腹を満たさないからです。 しかも「娘」たちは「父母の支配」から「夫の支配」へと移行するとき、愛という名のもとに自主的に自己放棄して「花嫁」となるのです。 「彼に付いていく・・・」ことの意味は自己放棄と夫に対する全面依存です。 結婚とは、自分の全ての野心や才能を捨てて一人の男に賭けることであり、専業主婦とは3食昼寝付きの永久就職かもしれませんが「○○さんの奥さん」「○○さんのお母さん」「○○家のお嫁さん」と呼ばれて40年も経つと、ようやく「これは私の人生ではない」と気付き愕然とするのです。 はたして一度だけの貴重な人生を、まるごと委ねてもいいようなパートナーに出逢えるものなのでしょうか? 女性の人生は「娘」「恋人」「妻」「母親」「姑」「祖母」という役割を与えられ、常に他者との関係のなかで人生を過ごします。 このため自分の心の内奥をみつめて本来の自分に気付く機会がほとんどありません。 そうそう、TVドラマ「101回目のプロポーズ」のなかでヒロインは「私を幸せにしてください、私をお嫁さんにしてください」と絶叫する場面がありました。 案外これが女性のホンネなのかもしれませんね。 でも努力もせず才能もないのに「幸せにしてほしい」なんてムシが良すぎるし、女性が願う「玉の輿」は、男から見たら「ただ乗り」でしかありません。 むしろこんな風に絶叫してしまったら、結婚後はひたすら「彼に嫌われたらおしまい」「彼に嫌われたくない」という惨めな立場になってしまうのではありませんか? これでは平等ではないし、いくら「彼」に合わせて暮らしても自分らしく生きなければ、結局「幸せ」にはなれません。 逆に男から見れば、努力なしで棚ボタ式に出会い自分をリードしてくれる男性を待ち続ける女性がいたとしたら、「どうして俺がこんな消極的な女を養って、しかもリードしなくちゃならないのか」といつか嫌気がさすでしょう。 むしろ今の時代は「彼」から「幸せにします」と言われたら、女性は男性に対して「失礼なヤツ」「おおきなお世話」と言うべきなのです。 なぜなら自分の幸せは自分でつかむしかないし、「幸せ」の正体はほとんど「金銭」なのですから。 もし「あなたをお金の力で幸せにします」と言われたらどうでしょう。 お金で買える幸せは、お金が尽きたら消えてしまうのではありませんか? 実は、一生お金に困らない男を見つけて結婚し、好きなことをして暮らすことは自立とは正反対の生き方なのです。 誤解される名誉 2006-06-17 00:57:30 唐突ですがこのブログの入口を変更して、少し判りにくくすると同時に、レベルの低い大衆的読者の閲読をお断りしました。 黙々と愛読してくださる静かな読者を、興味本位の人や誤解したがる人たちから守りたかったのです。 著者は誤解されたとき、誤解を名誉と解釈します。 反対に「あなたを理解しましたよ」と言われたら著者は落胆します。 著者をうわべだけで理解したと思い込み、その誤解に気付かないような人に「理解」されてもはなはだ迷惑なのです。理解されるということは、理解したと自称する人と同じレベルにいるということなのですから。 さて静かで知的な懐疑に戻ることにします。 女性にとって「憧れの結婚」を男たちはどのように考えているか判りますか? ご存知とは思いますが、男たちは昔から結婚して10年も経つと「結婚は人生の墓場である」と考えてきました。 また男性にとって「愛すること=支配すること」と思い込んでいますが、現代女性にとって「愛すること=支配されること」とは限りません。 こうしたギャップが案外見落とされているのではありませんか? また結婚とは、一言で表現すれば「他人の子供を産み、価値観が異なる他人と一緒に暮らすこと」です。 これではトラブルが起きないほうが不思議というものです。 いま、ある女性が結婚の条件として彼から「結婚したら働くな、家にいて家事に専念してくれ」と言われ戸惑っています。 これは嫉妬深い男が、妻の生活力を奪うことで思い通りに妻を支配しようとする陰湿な戦略と思うべきです。 ところがこうした男性に限って「私を放さないで、私をなぐさめて、私に奉仕献身させて・・・」というタイプの女性が伴侶になってしまうのです。 女性は両親からの刷り込みにより、いつしか「ズーッと夫に扶養されていたい・・・おとなしく夫に扶養されるほうが楽」と思い込んでいます。 そして家事という際限のない仕事に没頭すると自分のことを考えなくて済みます。 男性に依存しようとする女性・・・男性に依存するように育てられた女性・・・ これからは、結婚を決断する前に一度離婚したときの状況を想像してみるべきです。 そしてケンカ別れした元夫と良く似た子供を女手一人で育てていくことを是非想像してみてください。 こんなことをブログ書いていたら「性愛懐疑派は結婚を否定するのですか?」とある女性に尋ねられました。 いいえ、「恋愛」や「幸せ」についてもう一度考えて欲しい、そして婚姻制度がもはや破綻していることに気付いて欲しい、性交はもはや絆にならない・・・そしてこうしたテーマを超えて例外者の世界や至高性に目覚めて欲しいのです。 もっと自在な性愛の関係がないのか、もっと多様な人格を獲得できないのか・・・どうして自分らしく生きることに専念できないのか。 これが恋愛や結婚に対する著者の立場なのです。 ホントは「幸せ」になって欲しい、でも「幸せ」の正体にも気付いて欲しい。 著者は欲張りなのかな? マイッタ m(。。)m 2006-06-18 01:25:25 著者が「幸せな結婚」にあこがれる女性に向けて、結婚の実態をあれこれ述べていたら「貴殿はご結婚されてるのですか?子供はいらっしゃるのですか?」という丁重な質問が届きました。 実は本日「あの質問にどのように回答するつもりですか?」と複数の方に尋ねられました。 質問が届くこと自体が珍しいブログですし、著者がここで質問を無視したり、曖昧に答えると、ほかの読者の皆さんから質問が来なくなるかもしれませんので、誠実に答えたいと思います。 2006年6月現在:離婚暦あり、子孫2人、その後再婚(相方は初婚)、現在「この世のもの」とは思えない凄いパーソナリティの異性と婚姻関係継続中、子孫なし。ただしこれは著者の社会的人格のプロフィールです、念のため。 ところで、「依頼人がどんなに不利でも、必ず慰謝料を巻き上げる」と豪語する辣腕の女性弁護士がいて、彼女には決して聞いてはならないという伝説的な質問があるのだそうです。 あるとき取材の記者が彼女にうっかりと「先生は離婚訴訟の女ドーベルマンとよばれ、法廷ドラマのモデルになるほど離婚トラブルに強いそうですが、先生は離婚経験があるのですか?」と尋ねてしまいました。 そのとき彼女はにこやかに微笑んで次のように答えたそうです。 「法律家は離婚の経験がなければ離婚訴訟を受任できないと思いますか?もしそうなら弁護士は犯罪経験者でなければ被告人の弁護はできないことになりますよ」 たぶん彼女は実際の経験より、脳の中で推測したり戦略を練るほうがよりリアルな論理が構築できるタイプなのでしょう。 さて読者の皆さんにお尋ねします。 離婚を相談したいとき、離婚経験がある弁護士さんと、離婚経験がない弁護士さんと、離婚経験はないが離婚訴訟で必ず慰謝料を巻き上げる弁護士さんがいるとしたら、どちらを選びますか? また生徒に歴史を教える先生はタイムマシーンに乗って「応仁の乱」を見てこないと教壇に立つ資格がないと思いますか?推理小説の作家は実際に事件を起こさないと迫真的小説が書けないと思いますか? 脳内写生という創造力を引き出す方法を解説したり、コントロール可能で着脱自在の多重人格を獲得したり、性愛を懐疑することで官能的快楽のエネルギーを引き出し、神仏や宗教抜きの至高性に到達しようと説いてきた著者に届いた「結婚しているのですか?子供はいるのですか?」という質問は、あたかも「聞いてはならないという伝説的な質問」のように、著者の脳幹に響きました。 この質問は「伝説的な質問」として末永くこのブログに保存させていただきます。 ドーモ・アリガトー・ゴザイマシタ。 「ダメおとこ」について 2006-06-19 00:46:57 「幸せになりたい」という強い願望を抱く女性は、しばしば大衆的「ダメおとこ」や不毛の不倫中毒にはまり込むことがあります。 「ダメおとこ」とは酒乱・競馬やパチンコなどのギャンブル狂い・愚図・浪費家や多重債務者・依存心や幼児性が強い・働かない・生活力がない・口先ばかり巧みで実力や実績がない等の特徴があり、そのほとんどが「優しい人」か「強がり屋」なのです。 女性の多くは「理想の恋人はどんな男性ですか」と聞かれると口を揃えて「優しい人」と答えます。 しかし、優しい男の正体は「ただの意気地なし」か「気が小さい臆病者」です。 そして優しいだけの男には、愛するパートナーを守る力がありません。 どうして女性は「逢ってはならない男」や「愛してはならない男」にハマるのでしょうか? どうして同質な者が結びつき、依存しあう不健全な関係におちいるのでしょうか? 実は愚かな恋にはひとつのパターンがあります・・・ 冷静に眺めれば下らない男なのに、女性たちは幸せになりたいがために男の欠点から眼を背けて愛しすぎてしまうのです。 愛の力はダメ男を変え立ち直らせることができるという浅はかな幻想・・・でも実は「ダメおとこ」は普通の女性が愛したぐらいで立ち直るほど素直ではありません。 親の溺愛が「ダメおとこ」を作る訳ですから、女性から優しく愛され、愛されるほど甘えて無気力になります。まず、頼りがいのある女を演じることをやめることです。 その前になによりまず「ダメおとこ」には関わらないことが大切です。恋愛と母性愛は違います。 本当にこのパートナーは自分にとって最良か否か冷静に自問自答することです。 カラダが欲しいだけなのか、家政婦が欲しいのか・・・相手と自分の視点からじっくり考えることです。 性愛懐疑派からの特別アドバイスあなたが愛するほど、「彼」はあなたを愛してくれません・・・愛は移ろいやすくもろい、そして愛は不変の保障ではありません。 なぜオトナの女性である自分を不当に扱う男を愛さなければならないのですか? 未熟な男につぎ込んできた情熱を自分自身に向けるべきではありませんか? でも、もうひとつここだけの「悪魔のささやき」があります。 恋に落ちることはオンナの特権・・・胸がキュンとなるような熱い大人の恋を思いっきり「むさぼって」みませんか? 恋には嘘やファンタジー良く似合います・・・ほら、オンナはいつも小さなウソに囲まれて生きているのですから。 もっと大胆にめくるめく恋愛ドラマを仕掛けて「ダメおとこ」を快楽と官能の沼に引きずり込み、優しく愛しながら冷たく傷つけナブリモノにするのです。 これを何度か繰り返されたら、男は必ず悩みズタズタに、ボロボロになります。 愛されているのか、嫌われているのかと「ダメおとこ」は錯乱します。 そして骨の髄までいたぶったら「ダメおとこ」は社会の「生ごみ」としてポイッと捨ててしまいましょう。 「危険ではないか」ですって? そのときは「悪い男にだまされたのは私です!」と涙ながらに演技すれば、誰かが必ず味方になってくれ、おまけに次の獲物が見つかります。 脳内写生はこのように妄想を脳の中のスクリーンにリアルに立体的に描きながら、自分が思い描いた妄想の中を自在に飛び回り、その出来栄えに陶酔し官能的快楽を味わい尽くします。 そしてその凶暴なエネルギーを平然と創造的活動や自分を高めることに活用します。 たかし様より 再度「どういう経験をしたらこういう思考に到達できるのか不思議に思っております 」と言う質問がありました。今日のブログがその回答です。 まず自己に対して徹底したエゴイストであること、そして自分だけを大切にすること。 脳内写生というトレーニングを通じて大衆社会を懐疑し続けること。 そして熟慮の上でやりたいことをやり遂げること。 脳内写生というトレーニングを通じて人格や常識・道徳・宗教を超越した例外者をめざすこと。これが著者の生き方です。 ドラマティック・マネー 2006-06-22 00:49:35 2日間の不在でブログが更新できませんでした。m(_ _)m その間に愛華さんより「どんなに愛していても・・・ダメかな」という不倫についての質問をいただきました。きっと辛い恋なのでしょうね・・・ でも大衆とは異なる例外者が、熟慮の上で決断したことは何事も許されるのであり、後悔することもありません。 何事も自分で責任を取る覚悟があるのであれば、不倫も略奪もためされるべきです。これがこのブログを読み続けている愛華さんへの私の「はなむけ」です。 6月20日と21日はアジールにおりましたので、従来の「テーマ」を一時離れて、著者がアジールでイメージしたことを簡単に書いてみます。 女性は歴史的にみると政略上の貢ぎ物、平和をもたらす抑止力(人質もしくは生身の武器)であり、子孫を増やす財産でもありました。 従って女性は「生身の価値ある財産」であり「劇性通貨」(ドラマティックなマネー)と定義することができます。そこでイメージを広げてみました。 「飾り窓の天使」が「劇性通貨」(ある種の模擬証券)を発行し、さらにある種の証券市場を運営し、毎月一定の比率で値上がりするようにします。 毎月確実に値上がりすれば、損をする人はなく、誰もが利益を得ることができます。 この模擬証券の投資対象は「飾り窓の天使」のキャストさんであり、投資家はコスチュームでラッピングされ、磨かれることで次第に価値を高めていく若いキャストさんの将来性に期待して「模擬証券」を購入します。 この「模擬証券」の通貨単位は「ファンタジー」と命名したいのですがいかがでしょうか? 発売はヴァーチャル・ネット証券「ジュンジュン」にしましょう。 (補足説明:飾り窓の天使の店長さんの呼び名がジュンジュンなのです、笑) たとえば店内メニューが安いうちに指名権を先物買いしておき、キャストさんが人気者になり、指名料が値上がりしてから他の購入希望者に転売します。 この先物証券を購入したら、この証券が値下がりしないようにするために、投資家は協力して指名回数を増やす必要があり、この指名回数が相場をコントロールします。 つまりインサイダー取引を公認してしまうことで、だれも損をしない、だれもだまされない先物取引が完成します。 歴史的に見ると大衆社会には女性が男性を喰い物にする仕組みと、男性が女性を喰い物にする仕組みが存在します。 前者は芸者・置屋・御茶屋等の花柳界等であり、後者の代表は管理売春やヒモです。 性愛懐疑派からみると、前者も後者も、どちらも「どっちもどっち」の仕組みであり、ごく原始的な経済行為にすぎません。 著者は女性(や男性)を「生身の価値ある財産」として証券化し、自立を目指す女性や男性を応援したいと考えています。読者の皆さん、一緒にこの仮想ビジネスに参加してみませんか? 皆さんのご意見をお聞かせください。 (これは脳内写生を利用したブレイン・ストーミングにより着想したアイデアです、ご参考までに) 追 伸: 本日、「飾り窓の天使」店の公式サイトの「SHOP」のページに以下の文章を追加しました。 「脳を鍛えるゲームがいくつも発売されていますが、ゲーム等で脳を鍛えることは子供でもできることです。 妄想の活用や快楽の活用を通じて脳をリフレッシュし、創造力を高めることは成熟した大人でなければできない脳の鍛え方なのです」 伝説的な質問? 2006-06-23 00:39:49 北海道の「風の又四郎」さんから書き込みがありました。 「神の存在、愛とは何か、人生の意味は何か、いのちと死の問題などについて」同氏は聖書を「よりどころ」とされてきたようです。 「人間はどこから来て何のために生きて、どこへ向かっているのでしょうか?この世界の終末はどうなるのでしょうか?」以上が「風の又四郎」さんの書き込みの要旨です。 このブログは大衆ではない異質な例外者、つまり「至高性」(神仏なき聖なるもの)を目指すものを対象にしており、いわば「生命あるこの世のものではないもの」から、「至高性」を目指す者への難解なメッセージです。したがって大衆がどうなろうと、どこへ向かおうと、世界がどんな形で終わろうと著者には関心がありません。「人生が空しい」のなら自己責任で「やりたいこをやればいい」のです。 「やりたいこと」がなければ大衆のなかで慰めあうか、生きることをやめればいいのです。 歴史を貫くの真理はただひとつ「大衆など虫けらだ」ということです。 「空しい人生からの脱却」など大衆は考えてはいけません。 「空しい人生からの脱却」ができないのが大衆であり、その大衆のためにあるのが名誉・名声・信仰・勤勉・従順・蓄財なのです。 著者は、例外者のブログには読者を選ぶ権利があると考えます。 なぜなら著者は冒頭から「判る人に判ればいい、判らない人には判らなくていい、選ばれたごく小数の知的な例外者を読者としている」と前置きしているからです。 著者は「なにものにもとらわれない・なにものにも従属しない・なにものにも依存しない」その自己のために、自己の人生を自己のためだけに贅沢に使い切りたいと切望しています。 さらに著者は、自己の内部にしか求めるものなどないと確信しています。 聖書は大衆向けの世界的な「ベストセラー」であり、そのなかに記述されていることは大衆のためにパウロ等が書いたものです。 このため深く懐疑してみるとこれも他者が企画した大衆のための「商品」や「サービス」にすぎないことがやがて判ってきます。 たぶんこのブログの内要は「風の又四郎」さんにとって永遠に理解できない内容であり、むしろ邪悪なメッセージとして伝わることでしょう。 このブログを密かに閲読することは許可しますが、それは「風の又四郎」さんを不安にさせ不快にするだけです。 そのときは黙って閲読をやめてください。 無益な議論はお互いに避けるほうが賢明でしょう。 なお、この「風の又四郎」さんからの質問も「伝説的な質問?」として末永くこのブログに保存させていただきます。 ------------------------------------------------------------------------- さて本題に入ります。 男性はいろいろな角度から女性を眺め、愛(め)でる楽しみがあります。 たとえばオブジェとしての女性(ミスコンテスト・マスコットガール・イメージガール・キャンペーンガール・レースクィーン・グラビアモデル・セクシャルウェポン・美人受付嬢・番組アシスタントなど)がそれです。 このように女体をめぐる男たちのメルヘンやファンタジーを提供していれば、愚かな男たちは際限なく引きずりまわされ商品化された性欲を求め続けます。 一方これらの女性たちは、男性の視線によって評価され、賞賛され、比較され、値踏みされることに歓びを感じており、男性の視線をあたかもカガミに映った自分の姿のように受け止め身繕いします。 しかし、女性の中には、「自分が女性らしくあること」や「自分が女性として見つめられること」に抵抗感を抱く方がかなりいます。 それは「女性らしくあること」が男性より弱くみえたり、身分が低く見られることと表裏の関係にあり、自己のジェンダーに確信が持てない女性に多く見られる防御現象です。(オブジェに向かない女性の多くは、いつか心の中で自分の容貌と折り合いをつけ「それなり」の人生を歩みはじめます) でも男性に見つめられたからと言って恐れることはありません。男性は女性に対して強い幻想を抱いています。 可愛い女、甘えるオンナ、わがままな女、すねるオンナ、泣く女、耐えるオンナ、利用する女、ないものをあるように見せるオンナ、神秘的なオンナ、鋭い爪を持って男を悩ましくキズ付ける蠱惑的で危険な女・・・この「女の武器」を逆手に取って男性を従属させることだって可能なのです。 ちなみに「飾り窓の天使」では、たくさんの男に囲まれ男たちが競い合う様子を見ていたいという女性を求めております。なにしろ女性は生身の財産なのですから・・・ 「SM」について 2006-06-23 20:54:26 脳内写生に関するブログに「SM」という文字が登場した瞬間、だれもが「ああ、あれか・・・この人はやっぱりこのテーマを取り上げたか」と考えたことと思います。 「SM」とは大衆的認識では「御主人様」と「奴隷」という役柄に別れ、「御主人様」が「奴隷」を拷問するか調教し、「奴隷」はひたすら「御主人様」に服従することで「御主人様」は「御主人様」として、「奴隷」は「奴隷」として快楽を覚える性癖であると信じられています。 特に女性の「御主人様」は「女王様」とみなされ、「男性奴隷」からことさら珍重されるようです。 ちなみに「御主人様」の役柄は、パートナーの人格や生命をまったく無視し、自己がひたすら偏愛する奇癖をどこまでも追求するサドの小説に登場する貴族がモデルであり、「奴隷」の役柄は「御主人様」の命令に全面的に服従する奴隷の幸せをテーマにした「O嬢の物語」(レアージュ)や、マゾッホの「毛皮を着たヴィナス」という小説がモチーフになっており、「S」とはサド(サディズム)の頭文字であり「M」とはマゾッホ(マゾヒズム)の頭文字なのです。 ここまではおそらく「そんなことは常識」と言われる程度の範疇なのです。 ところが性愛懐疑派の立場から「SM」なる性癖を調べてみると、クラフト エビングや、ハブロック エリス等が、これらの小説に登場する人物と小説の作者の人格や行為を明確に区別しないまま、単に攻撃的に快楽を求める者を「サディスト」と命名し、その攻撃を快楽として甘受する者を「マゾヒスト」と命名していたことが明らかとなりました。 以前にも指摘しましたが、小説の作者とその作品は同一の人格ではありません。 猟奇的な殺人事件を好んで描いた江戸川乱歩や横溝正史は犯罪とは無縁の作家でした。 しかし、軽率にもフロイトが、この命名をなんら検証することなく踏襲したため、あたかもこのふたつの概念は表裏をなすものとして今日まで一般に流布してしまったのです。(参考文献「マゾッホとサド」 ジル ドゥルーズ・要旨)しかし、「実在のサド」の嗜好はそのように単純なものではありませんでした。 サドは、他者に苦痛を加えることで快楽を感じるのではなく、固有の性欲を強引に満たそうとする過程で攻撃や暴力が二次的に発生するのであり、時には自己もしくは他者に苦痛を加えつつ、自己の残酷さにあきれながらも、さらに苦痛を与え続ける自分を被虐的に讃えることすらあるのです。 これは人間心理の複雑さを示す事例であり、著者から見れば「コントロール可能な知的な多重人格」の一部なのです。 なぜならサドは、肛門性交を実行すれば宗教裁判において死刑を宣告される時代に、あえてそのタブーを犯し、キリスト教と道徳を全面的に否定した上で、キリスト教が恐れる「罪悪」こそ官能的快楽にとって不可欠な要素であることを身をもって実証した人物であり、サドが単なる変質者ではなくむしろ知的な例外者であることは、パリ革命のあと彼がフランスの最高裁判所の初代長官に就任した史実を見れば判ると思います。 「サドは信じられないほど不気味な奴だ」と大衆は思うでしょうが、エロティシズムによって至高性(宗教抜きの解脱・さとり)をめざす例外者にとって、大衆から奇異に見られることは必然的に生じる「リスク」でしかないのであり、その特異な修法が高度すぎるから数百年経っても理解されないだけなのです。 むしろ「大衆に理解されないこと」「大衆から理解されることを拒否すること」が、サドにとって最高の名誉なのであり、これこそ例外者が求める「誤解される名誉」であり、例外者の特権なのです。 大衆から誤解されることを承知の上であえて言えば、著者はサドこそ脳内写生の先駆者であり、至高性に到達するための隠し階段を発見した功労者の一人として尊敬すべき人物であると思っています。 次回は「SM」の「M」についてお話します。 「マゾ」について 2006-06-26 00:37:03 ときどき「私はマゾッ気があるのかもしれない・・・」という女性がいます。 一般に「M」とは加虐されると官能的快楽を覚える性癖のことと思われていますが、実は「実在のマゾッホ」は、「毛皮を着たヴィーナス」という小説のなかで、説得と契約と訓育によって「奴隷に甘んじる女性」を「女王様」に仕立てあげ、自らその奴隷となることで固有のエロティシズムを獲得した主人公を描きました。 この手法は契約やパートナーに依存しているため、厳密には例外者が求める「何ものにも従属しない」至高性の獲得にはなりませんが、そこには苦痛による自己破壊や自己消尽さらには供犠(読み方:「くぎ」「きょうぎ」犠牲や供物を捧げること)や神聖売春(神のために売春すること)という、原始宗教の核心に触れる重要なテーマが潜んでいます。(神聖売春については、いつか詳しく説明します) 結局、「実在のサド」と「実在のマゾッホ」の間にはいかなる関係もなく、サドの小説が実話であるという事実もありませんし、単にサディストの裏返しがマゾヒストであるとか、サディストにとって理想のパートナーはマゾヒストであるといった俗説には、いかなる根拠もないことになります。 また、「大衆的SM」と「実在のサド」と「実在のマゾッホ」の思想には明確な違いがあり、実在の人物の希有な思想と「商品化されたSM」を混同することは、その人物の功績を著しく害するだけでなく、官能的快楽を活用して至高性を追求する者にとって貴重な手掛かりを見落とす重大な過失となります。 この実例は、大衆化されたエロティシズムの言説が、多くの誤解と無知によって支えられていることを如実に示す最適な資料のひとつと言えるでしょう。 性愛懐疑派はこうした矛盾を常に直視し、「商品化された性欲」をすべて排除することでオリジナルな官能的快楽を強化し、このエネルギーを活用して創造力や活力を生み出します。 ところで「SM」について無知なのは、大衆ばかりでありません。 実は、高名な心理学者もエロティシズムの研究者もこの事実をまったく理解しておらず、小説の作風や主人公の性格とその作者の人格を混同するという、きわめて幼稚な錯誤を100年近くも放置してきました。 また、著名な作家たちも知ったかぶりをしてサディズムやマゾヒズムを捏造し、「SM小説」なる分野を開拓してきたのです。 もはやエロティシズムを懐疑しようとする者は、安易に「SM」とか「サディズム」 「マゾヒズム」という用語を使用すべきではありません。 「SM」は、倒錯でもなければ変態でもなく、固定観念にとらわれた庶民の芝居であり、商品化されたコスチュームプレイにすぎません。 そのことは「女王様」たちが、「男をひっぱたいてこんなにお金がもらえるんなら、OLなんかするんじゃなかった」と雑誌のインタビューに答えていることで充分証明されます。 実はサドの修法は、エロティシズムによって宗教を凌駕する至高な試みであり、彼は脳内麻薬を大量に分泌させるためには苦痛や暴力が有効であることを実証したにすぎません。ただ今日まで、その独特の修法が理解されなかっただけなのです。 従ってフロイトの「サディズム」「マゾヒズム」の言説など、「たわごと」でしかありません。 一般に「SM」と呼ばれる行為は、軽度の苦痛によって脳内麻薬の分泌を促すための単なるゲーム・手順・演技のことであり、「SM」は宗教を否定する訳でもなく、重大な罪を犯す訳でもないからです。 例外者は、至高性のためなら「何をしてもかまわない」のであり、このことを生涯貫いたのが、「アルフォンス ドナチアン フランソワ ド サド」なのであり、一連の「SM小説」の作者であるサド侯爵とは別の人格ととらえるべきでしょう。 そして、大衆はその彼の過酷な生き様の外見だけを見て恐れを抱き、大衆が理解できるレベルであれこれ解釈し議論したにすぎません。 確かにエクスタシーによって魂を浄化するという修法は大衆にとって「呪われた領域」であり、特にキリスト教にとって神を侮辱したり凌駕するものは断じて許せないものでした。そのために、エロティシズムによって至高性を目指した多くの者が、実はキリスト教によって断罪され処刑されたのです。 しかし、もはや宗教にエロティシズムを断罪する力がありません。むしろ宗教や道徳がエロティシズムを否定した結果、罪の意識ばかりが強調され、その結果性欲が抑圧され、かえって倒錯や性犯罪を作り出し、それがまた抑圧されて新たな罪を生み出すという悪循環すら起きています。 しかし宗教や道徳・教育によっていくら性欲を否定しても、性欲やエロティシズムが絶滅したことは一度もありません。 むしろ「大衆による大衆のための商品化された性欲」がおおらかに謳歌されている今こそ、大衆が決して入るとができないサドが発見した特別な入口(解脱や悟りの裏階段)に結びつく「宗教を凌駕した聖なるエクスタシー」を体験する絶好のチャンスであると思います。 高純度の性欲と自在に飛翔するファンタジーが結合したときの荒々しい陶酔や酩酊は、官能を否定し続けてきた宗教家等にはとても制御できない爆発的なエネルギーがあります。 しかもこのエクスタシーは、簡単に死の恐怖を超越し、宗教家等が説く天国とか来世・彼岸・救済・解脱なるものがいかに「まやかし」か、その瞬間明確に認識してしまいます。 人間は死を体験できません。死の瞬間、死を認識できないからです。従って死や死後のことを思い悩むことは単なる恐怖でしかなく、霊界や心霊等は弱者が関わるテーマであることが明白となります。 官能と快楽の宗教? 2006-06-27 23:27:34 最近ある人物から「飾り窓の天使と言うお店は宗教団体と関わりがあるのですか」と尋ねられました。 これも「伝説的な質問?」として永久保存すべき質問です。 ちなみに憲法が保証する「信教の自由」に基づいたキャッストさん達の個人的信仰を別にすれば、同店および著者を含めて、いかなる宗教とも、いかなる信仰とも無縁であり、そうした誤解をしてくださる読者がまだ読者の中にいたことのほうが、著者には驚きでした・・・ しかし、このブログでは確かに宗教を論じることがたびたびあり、「神仏抜きの何ものにもとらわれな至高性」についてどのように解説を試みても、なんとなく宗教的なイメージがまとわり付くというジレンマも感じています。 特に今回は「官能と快楽の宗教」をテーマにとりあげますので、「脳内写生」と「官能と快楽の宗教」を混同する読者がさらに増えるかもしれません。いったいどのような「伝説的質問」が飛び出すのか・・・楽しみです。 なお、著者に直接メールを送りたい読者は「飾り窓の天使」店のホームページの「メール」欄より送信してください。ただし宗教団体からの言論弾圧には断固として戦います。 -------------------------------------------------------------------------------- 性交を解脱や覚醒の手段とする宗教は、古代ヒンドゥー教のタントリズムやチベット密教のヤブユムが有名です。 「タントラ」とは秘密を意味し、性欲という煩悩のエネルギーを利用して常識や理性を破壊し、修行を積んだ者との性交によって短期間に宗教的法悦を獲得するものを意味します。 つまりタントラとは性交ヨーガの修法のことで、これを公開しないために「密教」とも呼ばれてきました。 (おそらくここで著者が「ヨーガ」「密教」という言葉を使用すると「真面目なヨーガ」の愛好家や「密教」の信者から「不謹慎だ」というクレームが殺到すると思います。しかし宗教史に関する学術文献にもこの用語は使用されていますのでご理解ください) わが国では「真言立川流」のタントラがもっとも有名ですが、この教団は室町時代に焚書(書物の焼き捨て)に合い、さらに慶長年間に徹底的に弾圧されて絶滅しました(「封印された聖なる性の秘密」渋谷申博・要旨) この教団には、死者の頭蓋骨に精液や膣液を塗り、これに漆や香を炊き込み7年間修行するとすべての願いが叶えられるという呪術があり、後醍醐天皇はこの立川流の熱烈な信者だったといわれています。 このほかに、「玄旨帰命壇」という性交を用いた魔術教団も存在しましたが、やはり江戸初期に排斥されほとんど記録が残っていません。 また中国から伝わった房中術は、過度の性交は寿命を縮めると考え、余った精液を脳へ廻すという健康法でした。 さらにインドのカーマスートラも性交にまつわるテクニックがおもなテーマであって、解脱をめざすものではありません。 むしろ興味深いのは「理趣教」と呼ばれている「大楽金剛不空真実三麼耶経」です。 この経典はわが国の多くの寺院で読経されていますが、実はその内容は「性欲も性交もオーガズムもすべて自然であって皆清浄なものである」という誠に大胆な内要です。 そして大乗仏教(わが国のすべての仏教)では、この経典を般若心経の『空』の思想を仲介にして、この経典は「なにものにもとらわれない心」に到達した者の理想の境地として肯定しています。 従って理趣経は仏教上の最高の乗物と見なされているのですが、だからと言ってわが国の密教寺院で性交ヨーガの修法が実際に行なわれている訳ではありません。 ところが大乗仏教は、その一方で理趣経に書かれている性交ヨーガを実践していた古代ヒンドゥー教のタントリズムやチベット密教のヤブユムを仏教界の異端とみなし、これを否定しようとします。 しかし、衆愚仏教(大衆化され道徳化された大乗仏教)の視点からタントリズムやチベット密教を批判することは誤りであり、そうした宗教家こそ密教の本質を理解していないのです。 儒教も仏教もキリスト教も、性欲のコントロールができずこれを忌避することしか考えませんでしたが、実は「タントラ」は「善悪を区別したり女性や性欲・煩悩を敵視しない真に健全な唯一の宗教」(「タントラ・ヴイジョン」OSHO・要旨)なのであり、エロティシズムこそ至高性の入口であることを堂々と宣言する、たぐいまれな宗教なのです。 そして、商品化された性欲の氾濫と、エセ宗教ニセ僧侶が横行する現代こそ、官能と快楽のパワーを活用した選ばれた少数の例外者のための、宗教と道徳という不純物を除去した「至高性」という聖なる領域(脳内写生)を復活させるチャンスであると思っています。 「タントラ」といえばオウム真理教の麻原も、「タントラ」という教義を弄んだ一人ですが、結局愛人に子供を生ませただけで、むしろ凡人がいくら性交しても至高性に到達できないことを証明してしまいました。 それはタントラの修法そのものに多くの迷妄が含まれるからであり、特に性交ヨーガ自体が性交にこだわっているという欠陥に誰も気付かないからなのです。 たとえばタントラは、チャクラという至高性の邪魔になる不純物を抱えているし、ヒンドゥー教のように性器そのものを信仰しても意味がありません。 また、タントラもヒンドゥー教もパートナーに依存しており、いずれもペニスとヴァギナと射精にとらわれています。 パートナーがいなければ解脱できないというタントラは本物ではなく、オーガズムによる心身の合一が解脱への道であると説くタントラも本物ではありません。 性交に伴うオーガズムは、内奥の至高性に到達する重要な手掛かりなのですが、オーガズムは単なる慣れでしかないし、ペニスとヴァギナは必ずしも最適な快楽器官とは限りません。 しかも、射精そのものはエクスタシーではないし、性交が男女の「きずな」になるという保障もありません。 では、タントラから迷妄と不純物を除去したら、どのような宗教になるのでしょうか? 官能と快楽の宗教? 2006-06-28 23:31:39 タントラから迷妄と不純物を除去したら、どのような教義になるのか・・・ 実はこれこそ、もはや宗教とは呼べない宗教を超越した未知なる領域であり、性交と性器とパートナーにこだわらず、道徳や宗教および宗教的法悦を凌駕した究極のエクスタシーと極限の至高性をもたらす「官能的悦楽ヨーガ」なのです。 ニーチェがあれほどキリスト教を批判しても大衆のためのキリスト教は今日まで生き残ってきたし、宗教を迫害すれば集団自殺やサリンを密造されてしまいます。 麻原彰晃が刑死したら、一部の信者は彼を殉教者として崇拝することでしょう。 従って例外者がすべきことは、宗教を批判することではなく、宗教やカルトを超越する叡智を確立することなのです。 ここに至ってはじめて、大衆によって商品化・卑小化されてしまったエロティシズムを捨て、さらに道徳化された宗教を捨て、そこからさらに進もうとすると、高純度のオリジナルな性欲と宗教的法悦の関わりを正しく理解する必要が出てきます。 バタイユは、「宗教の本当の意味が判らない者にはエロティシズムの意味がわからないし、エロティシズムの本当の意味が判らない者には宗教の意味も判らない」(「エロスの涙」要旨)と述べていますが、バタイユが述べる「宗教の本当の意味」とは道徳と迷妄を除去した宗教のことであり、善悪・幸福不幸・清浄不浄を区別しない、両義的かつ「なにものにも依存しない」自立と自律をめざす、宗教ではない至高性を意味しています。 また「エロティシズムの本当の意味」とは、他者によって企画され商品化された性欲ではなく、あくまでもオリジナルな高純度の性欲を意味しています。 そしてバタイユは、この「本当の宗教」と「本当のエロティシズム」は驚くべきことにほとんど同一であり、むしろ両者は渾然と溶け合っていることを、サドやニーチェの研究を通じて気付いたのです。 (単に宗教=エロティシズムなのではありません。念のため・・・) だからこそバタイユの友人であるクロソウスキーも、「エロティシズムは宗教の役割を代行しうる」(「歓待の掟」)といったのであり、バタイユ自身も、「極楽に至る道は地獄の歓楽を潜り抜けていく」(「よろこばしき知識」ニーチェ・要旨)という記述から啓示を受けて、「娼家こそ真の教会」 (「有罪者」バタイユ・要旨)であるとか、「娼婦は神である」(「聖なる神」バタイユ・要旨)と繰り返し強調するのです。 (ここは確かに難しいテーマです・・・実は頭で考えるより「飾り窓の天使」店で白昼夢を体験したほうが判りやすいと思います。また「SM」についても、この視点から見るともっと奥が深いドラマが見えてきます) そしてこの事実に気付けば、サドがありとあらゆる汚濁と悪徳を掻き集めて、「天国への裏階段」(「サド侯爵夫人」三島由紀夫・要旨)を築き上げたとする三島の主張は、まさにサドが不本意にも27年間幽閉された獄中で性欲を純化し、キリスト教と道徳を否定し続けて至高性に到達した事実とみごとに符号し、三島由紀夫の指摘は正鵠を得ていたことが証明されるのです。 ところで「本当の宗教」によって獲得した法悦と、「本当のエロティシズム」によって獲得したエクスタシーが、まったく同一であるとするニーチェやバタイユ等の主張の根拠はどこにあるのでしょうか? 官能と快楽の宗教? 2006-06-29 19:57:16 複数の読者から「とにかくこのブログはむずかしい・・・でも惹きつけられてしまう・・・なぜでしょうか」というお言葉を頂きました。 まことに光栄です。詳細を知りたい読者は「飾り窓の天使」で開催予定のセミナーを受講してください。 ------------------------------------------------------------------------------ 「なにものにも依存せず」「なにものにも従属しない」両義的で自律的な自己を求めることは、野蛮に回帰しない限り自己の内奥に至高性や宗教的法悦を求めることを意味します。 一方、官能的快楽によって至高のエクスタシーに到達するためには、外的人格・性別・理性・自我・社会通念を捨て、禁止の侵犯や穢れをいとわず、自己の内奥に深く沈潜し純度を高めた固有の性欲と、自己拡張した広大な官能領域を自在に飛び回る多様なファンタジーを結合させ、その強烈なエネルギーをコントロールしつつ、自己の意志で複数の人格や性別をも自在に着脱する能力の獲得を目指す必要があります。 そしてこの両者は、自己の内奥においてなんら障害もなく出会うのであり、そこでは宗教的法悦も至高のエクスタシーも同じ脳の中で分泌されるβ−エンドルフィン等の脳内麻薬によって生じる同一の現象として知覚されます。 このため宗教上のタブーや道徳を侵犯することは、とりもなおさず官能的快楽を刺激することになり、禁欲や苦行・羞恥心の強化は、むしろ性欲を昂進させ官能を喚起することになります。 同様に、固有の性欲の純度を高めることは、とりもなおさず宗教的法悦に接近するし、その結果獲得したエクスタシーは紛れもなく道徳的宗教を凌駕します。 なぜならこのエクスタシーは、宗教上のタブーを侵犯することで獲得したものであるからです。 おそらく、現代に伝わっている宗教が生殖以外の性交を否定し、エロティシズムを厳しく排除し女性を嫌悪してきた真の理由は、宗教とエロティシズムを厳格に区別しなければ、宗教そのものが性欲や官能的快楽に呑み込まれ、消滅してしまうという危険性や危機感に宗教家が気付いたためと思われます。 (女人禁制の寺院や女性が参加できないお祭り、土俵に女性を上げないなどの多くの「しきたり」を思い出して見て下さい)同様に性交ヨーガが絶滅したのは、単に道徳と宗教が結託したからではなく、エロティシズムが時として宗教を凌駕することがあるからこそ、宗教家や為政者から敵視されてきたのです。 宗教家は宗教が消滅すれば信者を搾取できないし、為政者は道徳を広め自己の威厳を保つために宗教を利用できなくなります。 もともと脳は嘘や妄想が大好きであり、催眠をかけて見ると理性がきかなくなった脳からあふれるようにもっともらしい嘘や妄想があふれ出してきます。 つまり、脳には死後のイメージや神秘現象などあらゆる幻想の発生源なのであり、善良な道徳家も殉教者も修行に励む宗教家も、結局は脳内麻薬によって気分がいいからそうしているにすぎないのであり、「幸福かどうかも脳内麻薬で決まる」(「脳内麻薬と頭の健康」林 美一・要旨)と指摘されている通りなのです。 ちなみに、脳内麻薬を一度に大量に分泌させる方法として純度の高い性欲や官能的快楽(エクスタシー)以外にも以下の行為が知られています。 ?身体を圧迫すること(強い抱擁・緊縛など、きついコルセット・全身タイツ・ストッキング・ウェットス ーツ等 の着用・潜水など) ?ジェルやオイル等を用いたマッサージ(各種美容エステ・ソープランドで行われる「泡おどり」等の愛撫 ・泥んこ遊び等) ?フェティシズムや女装・男装等の異装や仮装 ?長期の禁欲や苦行・難行・修行等 以下略 m(_ _)m つまり解脱や「さとり」も、脳内麻薬の分泌を求める行為とみなされる状況では、もはやいかなる修行もその意義を失ってしまいます。 そもそも人間なら誰でもある性欲と格闘することは無意味であり、一時的に性欲を追放しても必ず回帰してきて徒労に終わります。それくらいなら性欲や快楽を活力として活用すべきでしょう。 つまり、性欲なくして至高性はなく、性欲なくして解脱もないのです。 恋愛の作法・求愛の技術 2006-06-30 20:43:37 このブログを始めてからいつの間にか1ヶ月を過ぎていました。 一気に高度をあげたので、ちょっと大衆社会を眺めてみましょうか。 いま、著者の身近にいるある女性がある男性に片想いをしており、彼に何度か求愛のシグナルを送っています。しかし彼は気付かないフリをしていて、彼女はここしばらく苦悶しています。 求愛は接近のための技術であり、万葉の時代から恋慕の情を伝える方法として「短歌を送る」とか「花を贈る」という手順がありました。 最近では「チョコレートを贈る」とか「メール」で告白するという方法が主流であると聞きます。 本当に好きな人ができたときどのように求愛し、告白するのか、読者ならどうしますか? 特に相手に配偶者がいるとか、自分に配偶者がいる場合、読者はどうしますか? 好きな人の前でモジモジするだけですか?それともただ甘えるだけですか? では著者からヒントを差し上げましょう。 わが国ではあらゆる攻撃は奇襲から始まります。不意打ち・闇討ち・予測不可能な出現・・・などです。 でもその前に性愛懐疑派からアドバイスがあります。 まずその片想いが、自分の問題から目をそらすためにあえて未熟な男に夢中になり耽溺したいがための逃避ではありませんか?あるいはもっと束縛されたいとか、もっと強く独占されたいのではありませんか? 恋人とあなたは対等な関係ですか?不純物である利害関係はありませんか? いずれにせよほとんどの女性は、自分が愛されたいと思う方法で愛されていません。 愛そのものが頼りなく、無力なのですから。愛はひとつの迷信であり、熱病なのですよ。 だから恋愛ウィルスに感染してしまったら、免疫ができるまで「恋のやまい」を受け入れるしかないのです。 恋愛という「やまい」を楽しみ、苦しみ、もがけばいいのです。あなたの脳がそれを求めているのですから。 ところでいま、オトナのオンナの品質が低下しています。 外見ばかり磨いていて中身がない、知的で刺激的でスリリングな会話ができないネオテニー(幼形成熟)の女性ばかりです。 本来女性は「誘惑される存在」であると同時に「誘惑する存在」でもありました。 女性はセクシャルな対象として見られると同時にそれを誇示する存在でもありました。 ロングヘア・お化粧・香水・マニキュア・胸が開いた薄いブラウス・ミニスカート・ハイヒール等を女性が好み自ら身にまとうのは、自己表現と自己満足であると同時に注目されたいという密かな心理があるからです。しかし外見の美しさを追求すると中身が軽薄になります。 しかも注目されたいのに「関心がない男たち」を排除したがり、自分が好意を抱いていない男から官能的快楽の対象として見られたくないと言う身勝手な女性が目立ちます。 たとえば女性が不快と感じることすべてをセクハラとみなす風潮が強く、好意を抱けない男性から性欲の対象として見られることは不潔であり卑猥であると決めつけ排除したがります。 実は女はその気がないのに、男をその気にさせてしまうことが多々あるのに・・・ 男性たちは心の奥で「それはないよ」とボヤいています。 一方、男性は一度女性と寝るとすぐ「俺の女だ」と錯覚しますが、最近の女性は「一度寝たぐらいで所有物にされてたまるか」と思っています。 こうしたすれ違いと矛盾だらけ状況で「大衆的恋愛ゲーム」をしたり、片想いをすることに、はたしてどれだけの価値があるのでしょうか・・・ さとり・真理・聖人 2006-07-03 19:26:31 この世には何ひとつ確かなものはなく、来世も神仏も霊魂も悪魔も最後の審判もありません。 同様に「さとり」や解脱もなければ救済もなく、人間は未来を予測することもできないし、祈祷や呪術よって物事を操作する力もありません。 奇蹟のような出来事は、偶然がいくつも重なり合っただけの「まぐれ」でしかなく、災厄も天災と偶然と自業自得の結果でしかないのです。 また努力しても報われるとは限らず、正義がつねに勝とは限らないし、「真理」や「真実」もひとつとは限りません。 しかし、それでも「さとり」を求める者は後を断たないし、宗教によりどころをもとめ、救済を求める者も後を断たないでしょう。 ここで大切なことは、例外者は決して大衆の救済を試みてはならないということです。 大衆は無知で依存心が強く、自由であるよりも従属を好みます。 こうした大衆を救済しようとすると、結局 大衆に絡みつかれ引きずり込まれ身動きできなくなるのです。 釈迦もイエスもマホメットも、大衆を救済しようとしたために貴重な人生を浪費してしまいました。 その意味でこれら「聖人」は本物の至高の例外者ではありません。 大衆は、救済する価値すらないのです。大衆の苦悩は大衆に委ねるべきです。 大衆には、大衆の苦悩を和らげてくれる大衆のための「アヘン」のような宗教がふさわしいのです。 そのためには、例外者は大衆のための宗教の撲滅を企てたり、大衆の宗教と論争してはなりません。 宗教は迫害や攻撃を受けると逆に強くなるからです。 否、むしろ大衆の宗教は迫害や攻撃を期待すらしているフシがあります。 それが判っているだけに、例外者は宗教にかかわりあって時間を浪費してはならないのです。 信仰もしくは宗教について 2006-07-03 00:47:01 人間はなぜ、宗教を信じるのでしょうか? 幸福になりたい・災難からまぬがれたい・安らかな死を迎えたい・悲しみを和らげたい・死者を弔いたい・何かよりどころとなるものを見つけたい・・・などいくつかの理由が考えらます。 そして、これらの願いをかなえるために宗教は三つの方法を呈示してきました。 それは、?自力で修行して「さとり」をひらき煩悩から解脱する方法であり、?あるいは人間を超越した人格を有する神仏を掲げ、その神仏に救済を委ねる「あなたまかせ」の方法と、?呪術・祈祷・占いによって神仏や精霊の加護を求める方法です。 釈迦の「禅」と呼ばれる瞑想法は、本来自分だけが解脱することを目指した個人救済の方法であり、神仏を想定することなく、深く自己をみつめることで欲望や苦悩の正体を洞察し、それは皆「とらわれ」や利己的な「はかりごと」でしかないと気付くための、単なる内省行為でした。 ところが釈迦の死後、弟子たちの中から、禅は煩悩を断ち切り彼岸という理想の世界にゆくための修行であるとか、修行は釈迦仏に接近するための「しきたり」であるとか、修行して解脱すれば運命的支配から脱出できるという、まことしやかな教説が派生してきたのです。 しかし、修行が解脱や救済という目的に従属すること自体「とらわれ」であって、そのような修行はいくら続けても人徳となりません。 そればかりか、次第に修行の成果を確実なものとするために多くの方策が考案され、それがやがて厳しい苦行や禁欲、戒律となって修行する者を束縛し、出家等のかたちで人々を幽閉してきたのです。 そして、この苦行・禁欲・戒律に耐えられず、しかも、ひとりしか救済できないという制約を嫌った人たちによって、やがて大衆向きの安楽な大乗仏教が案出されることになります。 ところが、苦行・禁欲・戒律に耐えて、いかなる苦悩にも実体がないという「さとり」に到達しても、美しい女性の裸を見ただけでたちまち心は乱れてしまうし、石に躓いただけでその痛みにのたうち回るのです。 なぜなら、その「さとり」は、女性を恐れ、官能をまったく排除した結果であり、苦痛が実は快楽に深く関わっていることすら自覚していない、きわめて浅い「さとり」にすぎないからです。 はたして、誰が「苦行・禁欲・戒律に耐え、官能的快楽を排除した修行に特別な価値がある」と定めたのでしょうか? 人類の半分を占める女性を排除し、けがらわしいものと見なしたうえに、生の本質に深く関わっている性欲を圧殺して到達した「さとり」に、いったいどれほどの意義があるというのでしょう。 修行も「さとり」も幻想ではないのですか? そして、本当に追求しなければならないことは、人間はどうして自分で自分を傷つけるような苦行・禁欲・戒律・束縛・抑圧を自発的に求めるのか、ということこそ重要ではないのでしょうか? 著者はこう思います。 欲望を制限すること自体が実は名誉ある欲望なのであり、禁欲の代償として「さとり」や地位を獲得したり、災難をまぬがれようする一種の取引きが成り立つからこそ、大衆は自発的に抑圧や束縛を受け入れるのだと。 たとえば人々は災難をまぬがれたいからこそ身銭を切って安全を祈願するのであり、我が子の回復を願うからこそ看病する親は自分にさまざまな断念を課すのです。しかしこれこそ、見返りを期待した一種の強要なのです。 実は人間の脳は、外部から苦痛や圧迫を受けるとモルヒネの6.5倍の効力を持つ脳内麻薬が分泌され、精神が高揚し陶酔状態となります。 そればかりか、個性や感情も脳内麻薬や脳内ホルモンによって左右されており、自己に禁欲を強いれば強いるほど脳内麻薬が分泌されて 脳は酩酊してしまい、これが繰り返されると、やがて条件反射によって容易に恍惚感が得られるようになります。 従って人間が苦行・禁欲・戒律・束縛・抑圧を自発的に求める現象は、すべてこの脳内麻薬による陶酔の獲得のためであったと考えることもできるのです。 そして、天国・地獄も神仏も神秘体験も、慈悲も愛もすべて脳内麻薬の産物であって、もはや宗教そのものが脳内麻薬を利用した巨大な幻覚装置であるとの疑いが生じてきます。 結局、宗教に何かよりどころとなるものを求めても何も得られないばかりか、宗教家は信者の苦悩を放置し、助けを求めている者に対して、「徳を積むために人助けをせよ」といって苦悩の引き延ばしを謀るのであり、みごとなペテンと論理のすりかえが完成します。 こうした他人の企てに乗せられる信仰よりも、自分だけのオリジナルな官能的快楽を強化し、脳内麻薬を贅沢に活用するほうが、よほど充実した人生になるのではありませんか? 苦悩と不安について 2006-07-04 20:38:00 このグログは時事問題を論じることが目的ではありませんので、毎日報道される個々の事件に関するコメントはいたしませんが、最近未成年者による放火で親族が焼死する事件があいつでいますので急きょ「性愛懐疑派」の立場から著者の見解を述べます。実は家族ほど厄介な存在はありません。 家族愛・親子愛・兄弟愛・姉妹愛・家族同然のペットに対する愛など家庭の中には愛と言う名のエゴが渦巻いています。 しかもこれらの愛が「父や母のため」「息子や娘のため」「家族のため」と言う口実のもとに、あたかも愛することが家族のためであるという押し付けを伴い、さらに「愛」は善意であり、それを強制することが当然の義務であるかのような状況を家族全員が協力して作り出すことがあります。 このためひとたびこうした強制を家族の中の一人が嫌悪すると、こうした状況から抜け出すためには家庭を破壊し、家族そのものを抹殺するしかないと思い詰めることになります。 言うまでもなく、たとえ家族であってもそれぞれ別個の人格であり、それぞれ価値観も感受性も異なります。 換言すれば自立をめざす者にとって家族ほど「厄介なもの」はなく、家族ほど足手まといなるものはなく、家族ほど束縛するものはありません。 著者は家族とは「血縁幻想」の産物であって、もはや多様な社会環境に適応できない古い生活単位であり、これからは血縁を超えた共生関係が新たな生活単位になると考えています。 ----------------------------------------------------------------------------- さて前回のテーマに戻りましょう。 大乗仏教に限らず、宗教は多くの迷妄や不純物を内包しており、本来なら宗教と関係ないものが混入したまま、それが宗教としてまかり通っています。 たとえば、どの宗教も必ず教義の中で自然や宇宙に対して尊敬や感謝の念を表明し、信者にもこれに従うことを要求します。 また自然現象や天体の動向の中に神仏や精霊のメッセージが隠されているとして、これをさまざまに解釈したり、山や巨木を礼拝して、五穀豊穣を祈願したりします。 そして、人間は自然と調和した生き方をすべきであり、太陽のように丸い心を持ち大地や海のような慈愛に満ちた心を持てば、あらゆるものに神仏は宿っていることに気付くと説きます。 しかし、それは自然の穏やかな側面のみを強調したものであり、自然は美しく豊かな「めぐみ」をもたらすと同時に、実は凶暴で冷酷でみごとな嘘つきであり、人間の思惑などまったく拒絶して無慈悲に残酷に人命を奪い、文明を破壊し人間の期待を裏切ってきました。 つまり宗教はただ自然の穏やかで「めぐみ」をもたらす有益な一面だけを、センチメンタルに讃美しているにすぎません。むしろその自然の脅威とたたかい、自然を作り替えようとするのが文明であり、それによって人間は環境を汚染し、破壊し続けなければ生存できないのです。 たしかに環境破壊にはややゆきすぎた面もありますが、電力や交通手段のない文明に我々が戻れない以上、環境破壊はやむをえないことなのです。 ところが、大衆はその罪悪感から環境保護やエコロジーという、ある種の新しい禁欲や戒律をまたもや造りだそうとしています。 著者は自然保護や環境保護等の団体は、一種の「神仏なき宗教」であるという疑いを深めています。 再度強調します。 自然だけでなく、宇宙空間にも人格を有するいかなる超越的存在もなく、天体の動きと人間の運命のあいだに、いかなる支配関係もありませんし、天国も地獄も「あの世」もありません。 天地創造さえも、ビックバン理論によって神の介入の余地がないことがすでに解明されてしまったのです。 いずれにしても宗教は、余りにも多くの迷妄と不純物を抱え込みすぎています。 端的にいえば、苦悩や不安を解決する方法は三つしかありません。 ?本人が内省や努力・自助で克服する?人間を超越した「なにものか」を信じて、その前に自分をまるごと差し出し、「わたしを助けて下さい」と懇願する?魔術や呪術等を用いて状況のコントロールを試みる読者ならどれを選択しますか? 「性愛懐疑派」および例外者の視点から見れば、人間の形をした神仏(偶像)はもちろんのこと、天国も地獄も、天使も悪魔も、輪廻も転生も、因縁も霊魂もすべて迷妄でしかなく、それを支える教団も僧侶も建物も、偶像も絵画も経典も戒律もすべて不純物にすぎず、日々行なわれている礼拝・勤行・修行・儀式・祈祷・占いも、神秘体験も「さとり」も夾雑物でしかありません。 毎日同じ時間に、同じ方法で祈りを捧げなければ願いが通じないほど宗教家の祈りは弱いのか、それとも神仏はゴマすりが好きなのか、呑み込みが悪いのか、いずれにせよ例外者とは関わりのないことです。 他人が作り上げた虚構を信じて生きるより、自分らしい生き方や自己のオリジナルな願望を追求して破滅したほうが充実感があります。 宗教の中に、これほど多くの迷妄と不純物といかがわしい教説が存在しているのに、宗教は公益性があるとして法律によって手厚く保護されています。 それはなぜか。宗教が道徳を広め、為政者にとって支配しやすい従順な大衆をつくることに貢献しているとみなされており、信徒団体は選挙のとき利用できるからでしょう。 ところが、この道徳こそ宗教における最大の不純物であり、宗教が有用なものであるとする見解こそ、宗教の本質を失わせる最大の脅威なのです。なぜなら「有用であること」は「惨めなこと」であるからです。 知ったかぶりとは・・・ 2006-07-05 16:31:18 以下のようなコメントがありましたので引用します。 「性愛懐疑派および例外者というのはカルトなのか?宗教用語を単語としてはとてもよくご存知ですが、内容に関してはまったくの勉強不足ですね。初歩的な間違いも多数ありますよ。知ったかぶりも程々に」 回答の代わりに、再度著者の立場とこのブログの目的を説明します。 「このブログは脳内写生という高度で知的なファンタジーについて、ごく限られた例外的な読者を対象に記述されています。 興味本位の方や『うわべ』だけ読み飛ばして判ったようなふりをする方は閲読をご遠慮ください。 また『ひやかし』や中傷目的の介入もお断りします。 このブログはいかなる宗教や道徳あるいは特定の教義等とも完全に無縁であり、自在闊達な観点からものごとを懐疑する(深く考えること)方を対象としています」 したがって上記のコメントはまるで「関係者専用通路」と表示されている廊下にバイクで乗り込んできて、騒音を撒き散らしながら「歩行者が邪魔だ、道路交通法を知らないのか」と騒いでいる人と見なすほかありません。 このブログの全部を読まずに、あるいは全部を読んだとしても「性愛懐疑派および例外者というのはカルトなのか」と問いただす大衆的投稿者に対して、著者はいちいち反論する必要を認めません。 再度申し上げますが、冒頭より著者は判る人に判ればいい、判らない人はだまって退出するか閲読のみしてください、著者には憲法が認めた表現の自由があるのであり、当初より著者には読者を選ぶ権利があると明記してきました。もし著者の主張が「不勉強・初歩的な間違い・知ったかぶり」と感じられるのであれば、二度とこのブログを読まなければいいのです。 ちなみに「カルト」とは、神ががかった人物が自分は神そのものであると主張して独自の教義を信者に盲信させることであり、性愛懐疑派および例外者から見ると「カルト」は神がかり的狂人にすぎません。 静かにこのブログを閲読してくださっている読者のみなさん、みなさんは著者が道徳や常識・社会的人格等のつまらなさを説き、これらの古くて強固な城砦を小さなハンマーでコツコツと砕いていく、そのハンマーの心地よい響きにこれからも耳を傾けてください。いつか必ず視界が開けるときが来ます。 キャストさんの質問 2006-07-06 20:21:32 「質問なのですが著者さんは脳内射精したことがありますか?また脳内射精はひとりでもできるものなのですか?私たちキャストも脳内射精するくらいのつもりでお客様に接しなければ、お客様も脳内射精できないのですか?それともあくまでもお客様の妄想をかき立てるような振る舞いをするだけでいいのですか?」 これは「飾り窓の天使」店のキャストさんからの質問です。 まず「飾り窓の天使」という新しいお店に、こんな純真で真面目な質問をする女性が働いていたのかと・・・著者は驚きました。 このブログだけを閲読している読者もいると思いますので、長文ですがあえてこのお店のコンセプトを同店のホームページより要約して引用します。 【私たちの社会は身の回りにはヌード写真やセクシーなコマーシャル・アダルトビデオ・エッチ系アニメ・アダルトサイトをはじめ、思わせぶりな出会い系サイト・風俗産業・ラブホテル・アダルトショップ・エロティックなフィギュアなど、まさに「発情装置」(上野千鶴子氏の著書)がはんらんした社会であり、私たちは常に他人が発情させるべく企画した性欲に振り回されており、自分だけのオリジナルな性欲に気付く機会すら奪われています。 言うまでもなく売れるように企画され商品化された性欲は、性を商品化して儲けようと誰かが企画した商品・商材・ビジネスであって、受け手・購入者である私たちはお金を払って商品化された性欲を購入しなければ「発情できない」「性欲を満たせない」「ネタがないと妄想が沸かない」という状況にあります。 換言すれば、私たちは誰か分からない人物がたくらんださまざまな「発情装置」にうまうまと乗せられ、しかもお金を払うことで一時的に性欲を満たすことに誰も疑問を抱かないのであり、それほど性の商品化は深く進行していることになります。 「性の商品化」という他人の手あかにまみれ、お金で売り買いされる(消費される)性欲をいくら追い求めても私たちの妄想や性欲は消滅すれることもなければ、満たされることはありません。 しかもその一方で、道徳も宗教も法律も性欲を否定し、妄想を排除しようとするばかりか、ハレンチなことを想像してはならないと性本能を抑圧してきます。 しかし私たちの脳から性欲や妄想を根絶することは不可能なのであり、性欲や妄想を完全に捨てるという発想自体が妄想に思えてなりません。 これは半ば冗談ですが、若者の精子が減少したのも、少子化が深刻なのも、性犯罪が増加するのも、性欲や妄想の抑圧と性の商品化と無縁ではないのかもしれないのです。 むしろ芸術や創作活動を行うアクティブな人にとって、自己の妄想を強化することが活力や創造力を高めているのであり、道徳や宗教や法律がどんなに妄想や性欲を否定しても、私たちの脳の中には広大なファンタジーの世界が存在し、むしろ脳の中にある真っ白なスクリーンに自分だけのオリジナルな性欲やいまだ商品化されていない官能的快楽を思い切り投影し、そこに鮮明な映像を描きつつ、このファンタジーの世界を拡張してゆくことが創造力や活力の源になっているのです。 そもそも脳の中は憲法によって道徳も宗教も法律も何人も入り込めない「信教の自由」が保障された領域であり、脳の中では「妄想してはならないこと」はなにひとつありません。 かといって、もし自分だけのオリジナルな妄想や性欲を社会生活の中でストレートに満たしたり発散させようとすると、それは犯罪になってしまいます。 「飾り窓の天使・脳内写生研究所」は、その妄想や性欲を大胆に肯定するとともに、自分だけのオリジナルな官能と快楽の発見のために、そのファンタジーの世界を自由に飛びまわるための合法的かつ知的で、しかも上品な秘密基地(アジール)でありたいと思っています】さて「飾り窓の天使」店のキャストさんからの質問にお答えします。 このお店は「性の商品化」のはんらんがオリジナルな性欲やアクティブな創造力を抑圧していることに気付いたごく少数の例外的なお客様のために、視覚を通じて理性や自制心を解除させ、脳の中に鮮やかな官能的ファンタジーを描きつつその世界を自在に飛び回ることを楽しんでいただくための、世界でただひとつの「脳内リフレ」のお店です。ですからキャストさんが自らサービスを「商品化」してはならないのです。 キャストさんはただ静かにお客様の手や足に触れるだけで、お客様がキャストさんを心ゆくまで「めでる」ことや茫然と白昼夢を楽しむことをさりげなく見守ってあげてください。 ところで冒頭の「脳内射精」という表現は「脳内写生」の変換間違いだと思うのですが・・・ でもこんな風に混同してくれると、このネーミングを考案した甲斐があるというものです。貴重な質問をありがとうございました。 官能と快楽のデータベース 2006-07-08 23:55:12 一生のうちで「子孫を作るための性行為」と「官能的快楽のための性行為」とどちらが多くて、どちらが大切だと思いますか? 「子孫を作るための性行為」(生殖行為)のほうが大切だという読者はこのブログの読者ではありません。 「官能的快楽のための性行為」こそ数も多くて大切だという単純な読者は、もう一度このブログを始めから読み直してください。 現代は、他者によって企画され商品化されたエロティシズムが氾濫しすぎていて、自己の固有の純粋な性欲が衰退・退化してしまっています。 こうした状況でどんなに官能的快楽を求めても、それは他者が企画した性欲に乗せられているにすぎません。 たとえば大衆の中には性豪とか色事師、ナンパ師という性交した相手の数と、一夜の性交回数やテクニックを自慢する男女がいます。 かれらにとって、ナンパや性交、強姦は「手柄」(「レイプ・男からの発言」ティモシー ベイケネ・要旨)であって、性交は相手をおとしめる手段にすぎません。 この手合いは一見いかにもエロティシズムの達人や、アウトローもしくは例外者のように思えるますが、彼らこそ商品化された性欲やペニスとヴァギナをめぐる幻想にとらわれたあわれな漁色家でしかありません。 性交回数を自慢する人物はただの早漏なのです。 実は、これほど快楽をめぐる情報があふれていても、大衆がけっして立ち入ることのできない私秘的領域があります。そしてその入口となるキーワードが「飾り窓の天使」店なのです。 あなたには、はかつて世間体や羞恥心から逃してしまった「はかない恋の想い出」がありませんか? また、自己の品性を落とす危険や、自己の醜悪さに直面することを恐れて踏み込めなかった官能や快楽の世界があったのでありませんか? あるいは通勤の途中や街の中で見かけた、ゆきずりの女性のほんの一瞬のスカートのひらめきや、見知らぬ女性がチラッと見せた何げないエロティックな光景(たとえば深い胸の谷間?ゆれる豊かなお尻?)に強く魅せられたことはありませんか?また過去の性愛の一場面だけが鮮明に脳裏に残っていて、それが時々白昼夢となって出現することはありませんか?実は、こうした誰もが経験したことのある断片な記憶こそ、他者が企画したものではない、あなた固有の性欲を知る貴重な手がかりなのです。 しかし大衆はこうした経験があっても、それ以上自己のファンタジーを追究することはありません。 しかし、自己の性欲の実相を見極めようとする者は、抑圧されて満たされなかった性欲やエロティックな白昼夢、忘れられない性愛の光景をすべて書き出したり、白昼夢をスケッチしたり、ほんの少しでも性欲をそそる写真や映像・文章を見つけたら極力ストックし、あなた独自の官能や快楽に関する精密なデータベースを作るべきです。 自己のオリジナルな官能のデータベースを作り、あなたがどういう状況で欲情するのか、何に魅せられるのかという固有の性欲が自覚できたら、こんどはその固有性・異質性を強化する方向へあえて性欲を集中してください。(女性はこの部分が保守的かつ消極的で受動的なのです) これからは大衆が考えてはならぬことをあえて考え、従来の自己の性欲の限度を超え、自分で自分の快楽・官能のあり方を決定するのです。 あなたの行く先には道がありません。創造するということは先行者がいないということなのです。 しかしオリジナルな性欲に集中していれば、内奥の暗闇の中に狐火のようなほのかなあかりが見えてきます。例外者は、そこをめざせ! もし、本物のエクスタシーを知らずに死ぬなんてまっぴらだと思うなら、性欲に多くの妄想を与え、栄養を与え、体力を付け活性化させることです。 人間の性器は股間にあるのではなく大脳の中にあります。激しい性欲が大衆のささやかな平安を乱す「呪われたもの」ならば、例外者はあえて「呪われたもの」(脳内写生)を強化すべきです。 ここまで来たら、いかなる性欲も断念せず、脳の中であらゆる快楽の開花をめざせ!全身全霊で快楽をむさぼれ! 大衆にとって性交は単なる肉欲の吐け口でしかありませんが、例外者にとってオリジナルな脳内写生や官能的快楽は宗教・信仰以外の方法で聖なる至高性に向かう唯一の手段なのです。 あなたは本当は何をしたいのですか?何をされたいのですか?何をされたくないのですか?その心のつぶやきに静かに耳を傾けてください。 なにかひとつでもオリジナルな官能的快楽に気付いたら、ペニスやヴァギナにとらわれた単純な性交から自己を解放し、正常とか異常とか低俗とか卑猥とか羞恥心などの一切のとらわれを捨てて、ひたすら内的ファンタジーの翼をひろげ、自己の官能と快楽の世界を自在にとびまわれ! あさましいとか、グロテスクだという意識が働くときは、あなたはまだ理性や社会的人格にとらわれています。 人格は社会があなたに付与した仮面にすぎません。人格・理性・自我・道徳・常識を捨てよ! 貴婦人がゆきずりの男の前でドレスを脱ぐように、人格を脱ぎ捨てよ! (サナギから脱皮することをなんと言いますか?これを「変態」と言います) 社会的人格という仮面を剥ぐもっとも確実な方法は、何も考えず茫然と「飾り窓の天使」店のキャストに見とれることです・・・脳の中で考えることは、すべて許されるのですから。 「欲望と執着は断つことができない。その怪物のような妄執にさいなまれつつ生きることが地獄」(「大河の一滴」五木寛之・要旨)なのであるのならば、著者はその大衆の地獄こそ例外者の唯一のすみかだと言っているのです。 人間の欲望は金銭や商品、レジャーだけで満たせるものではありません。 また、愛ほどあてにならぬものはないのです。 むしろ人間の心の奥には、破壊的で非生産的な衝動がたしかに存在します。 その「性欲や快楽を否定することは、生を否定することだ」(ニーチェ・要旨) 自己の固有の欲望を直視できぬ者は例外者ではありません。 このブログを読んで薄汚く感じるあなたは、著者にとって無用の存在です。 なお、固有の高純度の性欲と広大な官能領域と、そこを自在に飛び回る豊かなファンタジーを獲得できぬ者が、変質者や犯罪者になります。著者は犯罪者になることを「そそのかす」ものではありません。 くれぐれも誤読にご注意ください。(でも著者は本を読むとき、いつも「誤読する権利」が読み手にはあると確信しながら閲読しております) タブーの侵犯 その1 2006-07-09 22:16:10 例外者は、「性の解放」を求めるべきではありません。同様に宗教・道徳等を破壊すべきではありません。 エロティシズムは、けがれること、抑圧されること、差別されること、誤解されることによって高められるのであって、タブーや道徳・常識をあえて破ること、あえて超越することに「貴重な価値」(ニーチェ・要旨)があり、これによって例外者が目差す至高性という聖性に到達するからです。 人目を忍ぶ仲でなければ、激しい恋は生まれないし、断じて猥褻なことをしてはならないというタブーがあるからこそ教師の盗撮や援助交際が行われるのであり、禁断の果実だからこそ食べる価値があるのです。 「タブーを破ることなくして快楽はない」 (「純然たる幸福」バタイユ・要旨)つまり間違いなく快楽は禁止や抑圧がささえているのです。そしてタブーの侵犯によって官能領域は拡大します。 禁じられたものは、禁じられることによってかえって怪しい魅力を持ち始めます。(「ニーチェ」・要旨) 深い快楽と至高性を認識するためには、脳の中であえて大胆にタブーを破ることと、大衆が嫌悪する「呪われた領域」(バタイユ)への超出、罪ある冒とくが不可欠なのです。 バタイユは、この仕組み(オリジナルな性欲を強化するための脳内写生)が判らぬ限り、エロティシズムも宗教も理解できないと断言しています。 「この世に侵犯してはならないタブーなどない。打算があるだけだ 」(「貴人論」宮原浩二郎・要旨)確かにその通りでしょう。 人格は単一・普遍のものではありません。人は状況次第で鬼にも仏にもなります。 社会から付与された、たったひとつの硬直した人格しかない窮屈さ、己れの人格から一歩も外に出られない小心さを惨めと感じたことがありませんか? 複数の人格や時には別の性別を、遊び着のように脱いだり着たりしてみませんか? しかし、ここで安易に行動して変質者の汚名を着せられることは、もっとも愚かしいことです。 また、タブーの侵犯は、単に「ばれないようにやればいい」とうものでもありません。 あえていえば、熟慮の上で重い罰や死を覚悟し、その上であえて禁止を侵犯する者と脳内写生に関しては、いかなる法も道徳も意味がないと言いたいのです。 そしてこの意味において、「なにごともためされるべきであり、殺人も人食も許される」(「資本主義の文化的矛盾」 ダニエル ベル)との主張は、まさに例外者のためにあったのです。 タブーの侵犯 その2 2006-07-10 19:01:46 そのうえで、自己の官能領域をくまなく渉猟し、自らの性欲の多様さと底無しの深淵をつぶさに見届け、タブーの侵犯をものともせず、さらに自ら「穢れる」ことが重要です。 しかしこれは、生半可な能力や勇気でできることではありません。 固有かつ異質で純度の高い性欲と、内奥の自在なファンタジーが結合すると、とてつもないエネルギーと鮮明なイメージが突如として噴出してきて、訓練されていないと、ほとんどの場合コントロール不能に陥ってしまいます。だからこそ性欲は恐れられ、快楽は戒められてきたのです。 しかし実は、このとてつもないエネルギーの噴出こそ神仏抜きの「聖なるもの」なのであり、至高性という領域に到達する唯一のルートなのです。 だが同時に、大衆にとってこれは禁断の「呪われた」領域なのです。 この時点で求められる能力は、高純度の性欲と内奥の抑圧されていない嵐のようなファンタジーが一気に混ざらないように両者を区別し、状況に応じて混合率をコントロールする冷静な抑制力なのです。 そのために脳内で起きている出来事に良く目配りし、多様な性欲と自在に飛びまわるファンタジーが不用意に結びつかぬようにつねに警戒する必要があります。 そして少しづつコントロールすることが可能になったら、大衆の目が届かないところで目の眩むような本物のエクスタシーを味わえばいいのです。かならずしもパートナーは必要ではありません。 白昼堂々と人格を脱ぎ捨て、ぬけぬけと固有の快楽に浸り、妄想を激しくシェイクしながら脳内でタブーを侵すこと(脳内写生)は、現実の性交より深いエクスタシーがあります。頭の中で考えることに罪はありません。 人格や理性・自我を捨て、誰も知らない自分だけの王国・自分だけのハーレムにときどき亡命しましょう。 亡命は逃避ではありません。大衆の干渉や無知な他者とのトラブルを回避するための一時的な避難です。 たとえあなたの嗜好がどんなに変わったものでも、それはあなたの人格や精神の異常性を裏付けるものではありません。もちろんあなたは病気ではないし、倒錯者ですらないのです。 あなたは明確な意識を持ち、自己の意志で人格を脱着したのであり、たぐいまれなる陶酔を体験した、選ばれた至高の例外者なのです。 「ペニスやヴァギナにとらわれないことは、全身に官能性が偏在する」(「ポケットフェティッシュ」松浦理英子・要旨) という記述は、快楽のために全身の器官を総動員することを意味しています。 そして官能領域の自己拡張は、際限のない豊かな創造力や異才をもたらし、無分別な性欲の暴走を食い止める安全装置となります。 くれぐれも注意してください。著者は、大衆に向かって無秩序なエロティシズムの狂宴にふけろと主張しているのではありません。 安易な模倣は危険ですので「飾り窓の天使」店にて必ず訓練を受けてください。 ひとやすみ 2006-07-11 21:06:23 著者がこのブログのなかで何度も「愛ほどあてにならないものはない」とか、「愛や恋は一時の熱病だ」「うつろいやすい愛や脳の上澄みにすぎない心に依存しない関係をめざせ」などと一貫して「愛」を否定する発言をしてきましたが、ある方から「性愛懐疑派およびこのブログの著者には他者を愛する心がまったくないのか」という質問を受けました。 たしかに著者も、大衆社会で一般的に用いられている「愛」とか「恋」という感情を抱くことがあります。 また日常生活のうえで便宜的に「愛している」等の用語を用いて自己の情念を表現してしまうこともあります。 しかし大衆と明確に異なるのは、性愛懐疑派は「愛」とか「恋」といった利害関係やエゴにとどまるのではなく、そこからさらに上の至高性に到達し、パートナーを同じレベルに引き上げようと尽力することにあります。 その際に、ただ「ちからづく」でパートナーを引き上げるのではなく、自己とパートナーの官能領域の拡張や、お互いのオリジナルな性欲の強化および最高レベルの快楽の探究を行うとともに、例外者として不可欠な「なにものにもとらわれない・なにものにも依存しない・なにものにも従属しない」至高性という領域への超出をめざします。 そのときどうしても必要なのが、脳内写生というある種のイメージトレーニング(性欲とファンタジーの結合をコントロールする訓練)なのです。 この仕組みを上記の質問者に説明したところ、「そこまでの過程でパートナーに自己の情念を伝えるとき、著者はなんと気持を表現するのか」と再度尋ねられました。 そこで「便宜的に愛していると表現することもある」と答えたところ「でもそれは愛なのではないのだろう」と厳しい反撃に合いました。 実は著者は、パートナーに対して情念を伝えるとき、脳のなかで「シコーセーしてるよ」「シコーセーしてるよ」と言いたいのですが、でも本当に「至高性してるよ」と口に出して言ったら、きっと雰囲気が壊れるだろうな・・・と思い、いまだ試したことがありません。 これは「愛」という大衆的概念にまだ著者やパートナーがとらわれている証拠なのかもしれません・・・ ところでブログという言葉はWEBLOG(ウェッブログ)の省略なのだそうです。ひどい省略だなーと思いませんか?そして20歳のあるアイドル志向の女性が、ブログに書くネタがなくて連続放火事件を起こし、逮捕されたというニュースもありました。才能がない人はすぐアイデアが枯れてしまいます・・・ もし彼女がこのブログを読んでいたら、そして脳内写生を知っていたら、犯罪者にはならなかったでしょう。 ふたたび 「ここまでおいで」 2006-07-12 23:19:27 世界的に信者がいるある宗教のある教区で専従職員が「資金がない」との理由で突然解雇され、解雇された人物とその教区の労働組合がある駅前で「不当解雇撤回」を求めるビラ配りをしながら、大音量のスピーカーで救済を求める街頭演説をしていました。 宗教団体に労働組合があるということも著者の関心を惹く理由のひとつでしたが、宗教団体の元専従職員が他の労働組合員と共に「不当解雇撤回」の街宣活動でしていたことにちょっと驚かされました。 たしかに宗教団体の専従職員であっても労働者である以上、労働基準法に準拠した労働者としての権利があり、労働組合を結成することも可能であると思います。 また不当解雇された仲間のために他の労働組合員がビラ配りしたり、声を枯らして街宣活動することも労働者として当然の権利であることも理解できます。 しかし無神論者や異教徒がその宗教団体の専従職員になるはずがなく、そうした職業に就くためにはそれなりの「いきさつ」があったはずです。 ですからもしそうした人物が不当解雇されたら、たぶん熱心に祈るであろうと著者は思うのですが、・・・そうではなかったのです。彼は街頭でビラを配り、マイクを握りしめ声高に不当解雇を訴えておりました。 そしてこの光景を見たとき、今日のブログのテーマが決まりました。 かつて、敬虔な信者や信徒はこうした不条理に遭遇したとき、熱心に祈るとともに「これは神が私に与えてくれた試練なのだ」と解釈して試練を乗り超える努力をしてきました。 しかし駅前で街宣活動する人物を改めて見たとき、著者はもうそのような時代ではないのだということに気付きました。 神仏はごくまれに「奇蹟」という幸運を授けてくれるかもしれませんが、勤勉で道徳的で信仰心あつい者を突如として不幸のどん底に突き落とす不条理だけは防ぐことができません。 もしかしたら不当解雇され街宣活動をしていた人物は「不条理だけは祈ってもだめだ」ということを承知していたのかもしれないのです。 ところで不条理な出来事や不幸な出来事というのは、あくまでも大衆の側からの発想であって、神仏抜きの至高性に到達した例外者から見れば、それは善悪を超越した「不条理を行使する特権的存在」を示唆していることになります。たぶんこれを敬虔な信者は「悪魔」とか「デビル」と呼ぶのでしょう。 なにしろ神仏ですら不条理は防ぐことができないのですから。 著者は不条理な出来事や不幸な出来事に耐えながら「これは神が私に与えてくれた試練なのだ」と歯を喰いしばって天を仰ぐ生き方よりも、大衆に対して「不条理を行使する」存在でありたいと願っています。 至高の例外者には「不条理の行使」という殺傷与奪の特権があり、しかもその「不条理の行使」によって例外者には至高のエクスタシーが脳の中で「恩恵」として与えられるからです。 むずかしいかな?むずかしすぎますか?・・・それとも著者の脳は、もう狂っているのでしょうか? ファンタジー気功 体験記 2006-07-15 23:53:53 「飾り窓の天使」店のホームページには「ファンタジー気功」について下記のような説明(要旨)があります。 【最近のアニメブームやフィギュアブーム、コスプレブームには一つのトレンドがあるように思われます。 たとえばアニメの主人公は「二次元美少女」(平面的データ)であり、それを立体化したものが美少女フィギュアであって、これらは「三次元美少女」と見ることができます。 この美少女フィギュア=「三次元美少女」がギリシャ神話のピグマリオンのようにヴィーナスから生命を与えられ、官能的な女性となってこの世に降臨したという神話になぞらえて「飾り窓の天使」のキャストさん達が誕生しました。そしてこの天使たちがアニメやフィギュアのポーズを取り入れたファンタジー気功を開発したのです・・・ 人は美しい花や景色、優れた絵画、美しい映像を見ることで身体を休ませたり癒すことができ、さらに「花をめでる」とか「見とれる」「我を忘れて眺める」「眼の保養」といった言葉があるように、美しいものや官能的な女性を愛でることで脳がリラックスしたり、リフレッシュ(若返り)します。 そしてこの「我を忘れて」「三次元美少女」である天使たちを「愛でながら」フット・リフレクソロジーやボディコンタクト、ファンタジー気功等の療術を受けることで脳をリフレッシュします】【コスプレは身体に対するラッピング(隠しつつ中身を強調し、価値を高めること)もしくは民俗学における異装であり、人はコスプレや異装(各種儀式用衣装・法被・着ぐるみ等)することで自分以外の他者に「なりきる」とともに自己の人格を変化させたり、非日常的な権威を身にまとうことができます。したがってコスプレに気功やリフレクソロジーを組み合わせるとその効果が増幅されパワーが強化されやすくなります。もともと私たちの疲労感は脳が感知しているのであり、足や腰を直接揉んでも脳の疲労感は払拭できません。「飾り窓の天使」ではコスプレと各種気功やフットリフレクソロジー・ハンドケア・ボディコンタクト・スキンシップ等を組み合わせ、視覚を通じてお客様の脳をリフレッシュする「ファンタジー気功」(健康な心と身体をめざす新しい健康法・療術)を行っております】【最近、脳を鍛えるゲームがいくつも発売されていますが、ゲーム等で脳を鍛えることは子供でもできることです。妄想の活用や快楽の活用を通じて脳をリフレッシュし、創造力を高めることは成熟した大人でなければできない脳の鍛え方なのです。 飾り窓の天使は、視覚を通じた脳内エステ・脳内リフレッシュのお店であり、匂いではなく視覚を通じてアロマテラピーを行うお店です。 *ファンタジー気功および「三次元美少女」は登録商標出願済みです】 そこで今回は、このファンタジー気功を著者が自ら体験してきましたので、そのレポートをいたします。 まずキャストさんは「ファンタジー気功を始めます」と軽く挨拶してから、両手を前に組み手の中に「気」をためてから、アニメやフィギュアのポーズをひとつひとつ見せてくれます。 それはまるでモデルさんが画家の前で次々とお得意のポーズをとりながら、「はやく写生して!」とせがんでいるような眼差しなのであり、あるいはグラビアモデルがカメラマンの前でセクシーなポーズをとりながら、ファインダーの向こうにいるファンに向かって「はやく抱いて!」と悩ましく誘っているような眼差しなのです。 またキャストさんがファンタジー気功を行っている様子は後ろに置いてある鏡にも映っていて、「めでる」とか「見とれる」「我を忘れて眺める」「眼の保養」をすることで「脳をリフレッシュする」という意味がよく判りました。 特にまだ「商品化されていない性欲」や「他者が売ろうと企画した性的サービス」ではない未知の性欲にようやくめぐりあったという貴重な体験をしました。 そして一切の押し付けがなく「何を脳の中で妄想するかは見る者の勝手だ」という妄想をかき立てる手法は誠にすばらしい発想であり、しかも「わからない人には、わからなくていい」「わかる人がわかればいい」という実に明確で爽快な15分間でした。 「ファタジー気功」を実際に体験した感想を一言でいえば「あれはダマシ」だとか「なんだありゃぁ」と冷笑したり酷評する人たちは、「商品化された性欲」の意味がまったく判っていない単なる俗物であることがよりはっきりしました。「飾り窓の天使」店のキャストの皆さん、こんなモノスゴイ「脳内リフレッシュ」サロンは世界にひとつしかありません。自信と誇りを持ってこれからも「ファンタジー悩殺」してください!! (悩殺→脳の中の「商品化された性欲」を抹殺するという意味です) 不条理の行使について 2006-07-16 19:01:20 オウム真理教の一連の事件は、刑事事件として裁かれ、最近では「麻原は死刑か」という憶測も出ていますが、麻原に対してはあえて宗教裁判においてその功罪を問う必要があると思います。 =宗教裁判におけるオウム側の主張=すべてはより大きな救済にいたる、大いなる慈悲としてやむなく犯した罪であり、悪いことをしようとしている人を「ポア」(救済のための殺害・仏敵の排除)しても殺人には当たらない。 「ポア」を否定するのは、法念・親鸞の他力信仰だけであり、この他力信仰は、自力で他力救済を選択しなければ成り立たないという矛盾に満ちた教義であり、他力信仰は大乗仏教を逸脱した拡大解釈でしかない。 また、当時高名な宗教学者が何人も幻惑されるほど「ポア」は難解な概念であり、仮に麻原の行為が犯罪にあたるとしても、それは錯誤による逸脱と業務上の過失致死でしかない。 麻原は、大乗仏教という「なんでもあり」の宗教に惑わされた犠牲者であり、憲法によって「信教の自由」が保証されている以上、そのリスクは国と国民が負うべきであり、最終解脱者が宗教上の信念を持って決断したことに罪などない。 従って麻原は宗教裁判においては錯誤ゆえの無罪、もしくは業務上過失致死罪に過ぎない。 =宗教裁判における弾劾者の主張=麻原が純粋な宗教心にもとずき、大衆を悪業から救済するために「ポア」したのであれば、宗教家として彼に罪はない。 しかし実際にやったことは、憎悪を抱いき教団と敵対していた弁護士一家を抹殺したり、信者やその親族の殺害、警察の捜査や進行中の裁判の妨害・攪乱目的の計画的犯行であって、決して慈悲にもとずく救済や「ポア」ではないし、仏敵の排除にもあたらない。 本来、「ポア」は仏教全体の敵を排除し、これを転生させてから味方につけることであり、単に悪業を積ませぬために予防的に殺すことは救済ではない。むしろ、そのような殺人は仏教による救済の限界を露呈するだけであり、それではあらゆる殺人が救済になってしまう。 麻原はハルマゲドンを信じ、そのあと生き残るためには解脱する必要があると信者に説いていたのであり、すでにこの時点で麻原は大衆の救済を断念していたのである。 いずれにせよ、ハルマゲドンの後も自分たちだけ生き残るという考えは真の宗教者の発想ではない。 むしろ宗教家なら、無条件でハルマゲドンの前に我が身を投げ出し、大衆の身代わりになるはずである。 ちなみに「ポア」の思想そのものが、善悪を区別する道徳に深く根差した思想であり、道徳や善悪こそ解脱者が捨てなければならない「とらわれ」でしかない。 哀れむべきは、最終解脱者を自称しながら「ポア」を口実に多くの殺人を指令し、部下にサリン製造・散布を命じた麻原の、宗教家としての未熟さの犠牲となった多くの被害者である。 そして、実行犯として逮捕された無知な若き「宗教マニアたち」も実に哀れである。 むしろ「大衆はポアしてまで救済する価値がない」と喝破するほどの真の解脱者が、教団の中に一人もいなかったことが悲劇の原点である。 それにもかかわらず最終解脱者を自称し、暖衣飽食に溺れ、妻帯し愛人に子供を生ませ、政治家をめざして幹部たちを選挙に立候補させたことは、どう考えても俗物であり、「ポア」の思想を弄んだだけで評価すべき人徳がない。 なお、修行によってステージが上がっていくという制度や、禁欲し徳を積むことはすべて解脱という目的への従属であり、解脱の障害となる行為である。 またオウムの場合、修行に必ず付きまとう幻覚を単に解脱と錯覚しているにすぎない。 わが国の僧侶が正面からオウムを批判できないのは、みな同じ方法で修行しているためである。 彼らは脳内麻薬に振り回されただけで、その活用方法や分泌作用が判らないからないのである。だからこそオウムはLSDを密造したのだ。 しかしLSDによる神秘体験は単なる薬物反応であり、薬物が人間を向上させることはない。 薬物による幻覚から覚めたら「ただの人以下」でしかないのだ。 したがって、日本の仏教界は大いなる慈悲を持って麻原らを仏敵として「ポア」すべきである。 しかし、ここまでは大衆宗教・衆愚宗教としての見解にすぎません。 真の宗教家であれば例外者と同様に麻原らに対して「不条理の行使」という殺傷与奪の特権を思い出すべきなのです。 かつて災難を回避するために「聖なるもの」に対して「生け贄」や「供犠」(おそなえもの)を捧げてきました。 「生け贄」や「供犠」とは「いのちあるもの」の「いのち」を無理やり奪いこれを「聖なるもの」に捧げることで宗教的エクスタシーを獲得することです。 この両義性こそ真の祝祭なのであり、不条理をこうむる自己および他者こそ、至高のエクスタシーに捧げられた生け贄や供犠なのであり、生け贄は「なにものでもないもの」に捧げるための「聖なるもの」であると共に、同時に至高の快楽を味わうためのお祭りにおける「不条理の行使」を一身に背負う哀れな犠牲者なのであり、地獄のような血祭りの主役でもあるのです。 麻原らはこうした真の祝祭の主役として「不条理の行使」を受ける「生け贄」として誠にふさわしい「いのちあるもの」としての価値があるのです。 有用性について 2006-07-17 21:33:33 7月4日のブログで「有用であることは惨めなことである」と記述しながら、その意味を説明しませんでした。 選ばれたごく少数の読者の皆さん、今回はこの意味を深く考えて見て下さい。 もともと道徳は、従順で規範を守ることが求められる大衆社会にとって有用な人間を作るために作られたものであり、「出る杭は打たれる」と言うコトワザのように妥協と諦念に慣らされ、規格化され、大勢に順応する扱いやすい人間を大量に生み出す目的がありました。 しかし所詮・道徳は、「盗まない・殺さない・嘘をつかない・悪口を言わない・不倫をしない・欲張らない・・・」等の臆病な弱者同士の申し合わせであり、エゴイズムを調整し、烏合の衆をたばねるものでしかありません。 宗教も含めて、道徳を信奉する者は弱者自身かその支配者であり、支配者にとって道徳は弱者を支配するための絶好の道具となります。このため支配者は大衆に向かって必ず道徳を説いてみせます。 しかし、その結果できあがった道徳社会は、従属や服従を好み、ささいなトラブルを嫌悪する弱者中心の、弱者だけを善良で有用とみなす、弱者だけが勝利する卑小な社会とならざるを得ません。 確かに道徳に従っていれば自己判断の必要はなく、責任も回避でき、助け合いや同情心、隣人愛があれば自立する必要もありません。 たとえばボランティア活動に熱中している人物を観察して見ると、従順なだけで自分では何も創造できない人が多いことに気付きます。しかも道徳や宗教は、生を抑圧し、生を拘束します。 人間の内奥には表に出ない強い欲望があるのに、道徳家はあたかもそのような欲望など初めからないかのごとく装い、自分の欲望を殺したまま一生をすごします。 大衆はただ、道徳と法律を守っているだけで幸せになれると信じているからです。 でも生涯、自己の内奥の欲望や、固有の快楽と無縁でよいのでしょうか? それで本当に充実した人生と断言できるのでしょうか?それが自分らしく生きることなのでしょうか? 著者が大衆社会にとって「有用な人物」は、有用であるがゆえに、みじめなほど凡庸であるとみなすのはこうした背景があるからです。ブレーキだけでは文明は進化しませんし、活力も生まれてきません。 創造すると言うことは、前例を否定したり、破壊することで生まれます。 あなたは大衆社会にとって有用な人物ですか?それとも有用ではない人物ですか? 著者は「大衆社会にとって有用な人物」であるという社会的人格と、例外者という「大衆社会にとって無用である」という人格と、そのいずれでもないカテゴリーに属する多様な「この世のものではない」部分を、明確な意識のもとで着脱する、大衆から見て「呪われたもの」でありたいと切望しています。 性愛懐疑派 Vs 道徳宗教 ? 2006-07-18 19:04:09 性愛懐疑派である著者は、しばしば道徳宗教を批判します。 ところがそれにもかかわず、時々「飾り窓の天使は宗教団体と関係がある」と言った書き込みが、よその掲示板に現れることがあります。 著者が道徳や宗教を懐疑するのは、性愛の問題を深く考えると必然的にエクスタシーによる「聖なるもの」に到達し、宗教の本質を突き詰めていくと法悦(宗教的エクスタシー)に到達するからであり、原始宗教はすべて性愛によるエクスタシーと宗教的エクスタシーを同一視していたからです。 しかし性愛によるエクスタシーの激しさは容易に宗教的エクスタシーを凌駕してしまい、コントロール不能に陥りやすいため、宗教家は弱者の保護を目的とする道徳を積極的に宗教に取り入れてきました。 たとえばプロテスタントは、欲望と消費を押さえ倹約し快楽をいましめ、勤勉を美徳と説いたことで初期の資本主義の発展に大きな貢献を果たし、宗教が経済活動や生活水準の向上に多いに役立つことを立証してみせました。 そしてこの事実がアメリカ流の民主憲法を受け継ぐ日本の憲法にも反映され、宗教を手厚く保護する法律が制定されました。 しかし、宗教の本質は大衆を抑圧や隷属から解放し、生存していく上で必然的に生じる、さまざまな重圧を和らげることにあったはずです。 その宗教が、欲望と消費を押さえ倹約し快楽をいましめ勤勉を美徳と説くことで、あえて大衆を抑圧や隷属という現実に押し戻し、働くことで社会の歯車となることが美徳であると讃えることは大変なパラドックスであり、実は大衆にとってこれは偉大なる裏切りであって、換言すればもはや道徳宗教に大衆を救済する力がないことを意味しています。 本来宗教は、大衆はパンのみに生きるのではなく、たとえ無益なことであっても、それを行なうことに意義があると説いてきました。 だからこそ大衆も、労働をせず信仰ひとすじに生きる宗教家(僧侶・牧師・神父・神官など)に特別な価値があると認め、各自の生活を切り詰めてでも宗教家にお布施や寄進をしてきたのです。 しかしその宗教家が、大衆に向かって勤勉と倹約と信仰の両立を説けば、その瞬間から宗教家は労働者を搾取する特権階級もしくは不労所得者に転落しかねません。なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか。 宗教家自身まったく気付いていませんが、実はすべての原因は宗教の中に際限もなく道徳を持ち込み、宗教を道徳宗教に改造することで、もともと不合理で神秘的で消尽・蕩尽を目的とする原始宗教を合理的で有用かつ蓄財を目的とする大衆宗教に変質させ大衆に広めやすくしたことに、その原因があります。 もともと宗教は救済を求める弱者が集まりやすく、弱者の保護が目的で発生した道徳が浸透しやすい下地がすでにあったのです。 そして、宗教が道徳と結合したことで合理的で「有用なもの」となった時点で、原始宗教が有していた、「聖なるもの」にまつわる非日常性や、規範からの逸脱という祭祀性が完全に放棄され、祝祭は単なる娯楽へと堕落させられてしまったのです。 自由について 2006-07-19 22:52:46 たとえば道徳家からみれば犯罪者は断じて許されない存在ですが、非日常性や祭祀性を有する例外者から見れば、犯罪者は「禁止の侵犯」という快楽を味わった、しかし「禁止の侵犯」にヘマをした愚かな隣人であると言えます。 だからこそ、かつては寺院に逃げ込んだ犯罪者は補縛をまぬがれたのであり、妻から離婚できない時代であっても「かけこみ寺」へ逃げ込んだ人妻は、妻の側から離縁することが許されたのです。 しかし残念なことに道徳と結びつき衆愚宗教と化してしまった教団(ある種の合理化した宗教・科学に近づこうとする宗教)には、もはや犯罪者はもちろんのこと、異質なものや狂気等を包含する余地がありません。 ところで道徳と宗教を否定したからといって、すぐ自由が獲得されるとは限りません。 「自由」とはなんら制約もない随意の言動のことですが、人間は国籍・人種・母国語・親兄弟・宗教・慣習・自然・風土・環境・性別すら自分では選べないのであり、「なにものにもとらわれない自由」はそもそも幻想であり、みせかけの自由でしかないのです。 そのうえ大衆は、道徳や常識・商品化された性欲に飼馴らされ、「しがらみ」等に囲まれて生活しているというのに、自分を単純に自由だと思い込んでいます。 しかしそれは真の自由ではなく、自分では選べない生存条件に束縛された、強いられた人生であり、規範(法律・道徳・共同体のルール・戒律など)という目に見えない檻に入れられ、いずれ自己の意志に反して死にゆく強制労働の囚人でしかない人生なのです。 たとえば、法律によって与えられた「自由」は、基本的には眼に見えない法律という檻のなかの自由と変わりありません。 もともと大衆は、宗教・道徳・常識に従っていれば安心していられますが、規範や指示がないと何をして良いのか判らず不安になり、依存できるものを必死で探すか、ニヒリズムという「何をしなくても良い自由」に陥ってしまいます。しかし、「どうなってもいいや」というなげやりな生き方や、「なるようにしかならない」という諦めは、自己に対し無責任で主体性がありません。 たった一度あなたの人生は、あなたらしく鷹揚に使い切るべきです! (ニヒリズム=ニーチェの思想と思い込んでいるとニーチェの本質が見えてきません。サド・ニーチェ・バタイユの3人の例外者は「誤解される名誉」を貫いた「この世のものではないもの」なのです) 大衆は不動産を所有すれば不動産に逆所有され、ペットを飼えばペットに逆飼育され、ペットと同居させられてしまいます。 なぜなら、大衆は本質的に自由な支配者ではなく、従属や依存を好む子羊の群れか奴隷の群れであるからです。 そして、自由でもないのに自由と思い込み、自由を標榜すれば自由が実現すると錯覚し、自由を掲げる政党を支持するが、それはまた政党への従属でしかないのです。 同様に有史以来一日として戦火が絶えたことがないのに、平和と思い込み、平和を標榜すれば平和が実現すると錯覚し、平和運動に参加しますが、それがまたある団体への従属でしかないのです。 真の自由主義とは従属を好む大衆のものではなく、いくつもの真実や多様な人格が併存する無政府主義的思想であり、宗教・道徳・性別・地位・年齢・職業・因襲にもとらわれぬ独自性・独立性をめざす戦闘的で利己的なものなのです。 このように、大衆の自由と真の自由の意味が大きく乖離している状況では、自由という言葉を使えば使うほど混乱が大きくなります。 そこで例外者が求めるべき真に随意の精神を、著者は日頃から「自在」と記述することにしています。 自在であること 2006-07-21 12:18:09 未来に目的や期待・希望を抱きそれを自己の努力で実現しようとすると、それは利害損得に従属したことになり、自己の外部によりどころを求めれば何らかの隷属となってします。 また法律や各種の規則を破れば犯罪者か変質者もしくは不適格者とみなされ、無理に自己の目的を押し通そうとすれば特権や特例を要求するエゴイストとなり、周囲とのトラブルが絶えなくなります。 つまり自己の外部にはいかなる自由もなく、また現実から逃れるための自閉・気晴らしも、ただ弱者の逃避でしかないことになるのです。 こうした不自由な世界から、いかにしたら脱出でき「自在」になれるのでしょうか? そのためには外部からのいかなる救済・援助も拒み、孤独を恐れず、自己を完全に支配することで例外者としての尊厳を獲得してください。 宗教・道徳はもちろん、いかなるジンクスにも迷信にも占いにもとらわれてはなりません。 例外者にはいかなる規範も無用です。 自己を絶対視すること、自分ですべてを定義し意味付けること、いかなる既成価値をも否定しなにごとも自分で選択し、決定し、責任を取ること。 この重圧に耐えたうえで、自分のためだけに人生を贅沢に使い切ると決意した者にのみ、社会的制約に拘束された人格を脱ぎ捨て、内奥の自在なる精神にめぐりあう資格が与えられます。 例外者は自在であっても常に自在を求め続ねばなりません。 決してひとつの場所に留まることなく常に変化し、大衆に理解されたり意味付けされてはならないのです。 例外者の自在なる精神は、まず内奥の官能の全面的解放から生まれます。 官能領域を極限まで自己拡張すれば、もはやいかなる内的拘束も消滅してしまいます。 あふれるほどの豊かな創造力・想像力だけが、自在なる精神を生みます。 内奥に自在なる精神がない者は例外者ではありません。 そのためには、いかなる官能や快楽にも無条件で自分を差し出すことです。 自己の内奥の多様な欲望を決して罪や堕落と考えてはなりません。 むしろ自在なる精神とは大衆化からみて破廉恥であることなのです。 そして、自己が破廉恥であることを誇らしく思うことです。 (中途半端に自由を否定すると大衆的なトラブルに巻き込まれます、ご注意ください) 無論、熟慮のうえで決断したこと、実行したことに疚しさなどあるはずがありません。 例外者は、大衆のことなど斟酌する必要はないのです。 自在なる精神なき者は虫けらにすぎません。 自在なる精神にとって脳の中で起きることは、いかなることも罪ではない。 しかし、自在なる例外者は大衆にとって邪悪で危険な存在でしかありません。 自在であることは、神仏も宗教も道徳も社会的規範も常識も平然と侵犯し、善悪も禍福も不吉も吉兆も区別せぬ化物のような「呪われた存在」であり、もはや「この世のものではない」ものになりきることです。 また自在であることは大衆にとって有害な存在であり、もしこの世に現前すれば犯罪者であり、変質者であり、破壊者となります。しかし、例外者はそれすら名誉と感じます。 もはや他者に好まれようと、嫌われようと私は私なのだと覚悟することです。 他者に依存しなくても一人で生きられる、これが選ばれた例外者の生き方なのです。 死ぬことも、生きることも、生かすことも、殺すことも自在な例外者なのです。 (脳の中で達成すべきことを、外部の世界で達成しようとしないでください) 自由主義・民主主義・ヒューマニズム・平等主義 2006-07-23 00:10:03 梅雨末期の集中豪雨が続いたために各地で崖崩れや土砂崩れが続出し、犠牲者も30人程に達しています。 人間は突然の自然災害にはまったく無力であり、自然災害という不条理には成すすべがありません。 このことは今回の集中豪雨がみごとに証明してみせました。 神仏ですら自然災害という不条理にはまったく無力なのです。人々がどんな「自然は素晴らしい、自然は偉大だ、自然は神そのものだ」と熱心に崇拝しても自然の脅威は消滅しません。 今回は民主主義やヒューマニズムを懐疑(深く考えること)します。 「民主主義は守らなければならない権利」と米英は言いますが、もともと民主主義は封建的独裁者に対する大衆からの下剋上として生まれたものです。 そして初期の民主主義は、有権者が個々に判断して直接政策を選ぶものであって、権力や行政の介入を極力排除するのが本来の民主主義でした。 ところが人口が増大し行政区域が拡大すると地域ごとに代議士を選出する議会制民主主義へと移行せざるを得なくなりました。 ここからさまざまな矛盾が露呈しはじめます。ここで一票の重みなど論じるつもりはありません。 あなたの一票で決まるのは評決スタッフの一員でしかなく政策そのものではないのです。 そもそも重要な決断を、凡庸な大衆が選出した利権の代表に一任すること自体、正気の沙汰ではないと思います。 現実には、代議士は大衆にその場限りの公約をし、常にそれを反故にしなければ、政府も行政も拮抗する勢力に囲まれて身動きできないのが実情なのです。 従って、あなたの一票で政策が決まる確率などはじめからないのであって、投票所までの往復で事故にあう危険のほうがむしろ高いのです。 しかも、政権を手に入れるためなら、戦後つねに敵対してきた社会党と自民党が連立したり、不仲だった公明党と自民党が連立するなど実に節操がありません。 労働運動にしても、春闘・ストライキ・賃上げというお決まりの労働運動は、結果的にストライキなどしなかったほうが効率が上がり、むしろ所得は増えていたと分析する経済学者もいます。 一方、国民も勝手に子供を作っておいて、あげくに教育も安全も福祉も国家に責任があるとは実におこがましい限りの主張をします。 自分の子供すら「しつける」ことができない親になる資格もない者が、あっさり子どもをつくり、子育てができないから学校で躾けて欲しい、でも体罰はダメ・・・怪我はさせるな・・・勉強はさせろ・・・ いやはや・・・ もはや民主主義は、依存心や従属心の強い大衆の愚かさを長期間維持するためのシステムにすぎません。 確固とした主張がない大衆が、「世論」という見識を有するという前提自体が幻想なのであり、国益の確保という強い認識と、統治能力がない民主主義はかならず衆愚政治にたどり着きます。 民主主義のもとで、大衆の要求が常に通るのは正しいからではなく、単に数が多いためで、女性と社会的弱者を合計しただけで軽く過半数を超えてしまいます。世の中はアタマが良い者より、愚者が多い決まっています。つまり多数決というシステムそのものが、もともと愚者に有利にできているのです。 それでもなお多数決だけが、フェアで正しいと断言できるのでしょうか。 世の中には、数の多さだけでは決められないものがあるはずです。 たとえば、最大多数の最大幸福の実現は、例外者にとっては最悪の状況でしかなく、代表を選挙で選ぶこと自体、至高性をめざす生き方に反します。 人権・人命も突然の暴力や自然災害の前ではまったく無力であり、そもそも虫けらどものヒューマニズムになんの意味があるのでしょうか。 大衆などもともと救済する価値がないのであって、民主主義もヒューマニズムも羊の皮を被った、弱者のための全体主義にすぎません。 実は自由主義・民主主義・ヒューマニズム・ 平等主義こそ「神仏なき大衆の信仰」なのであり、「世界平和・人類愛・世界はひとつ皆兄弟」という弱者の理想を唱える者は、現代のファシストに違いないのです。 なぜなら大衆は決して、少数派や異質な者との共存を好まないからです。 それでいて大衆は、万民の平等のもとで同質者との微細な差異(流行・ファッション・マイホーム・収入・出世等)を競うことに明け暮れているのです。 もはや例外者は、自由主義や民主主義・ヒューマニズム・平等主義にも関わることをやめて自己陶冶に専念すべきです。 フェティシズムについて 2006-07-24 22:53:53 以前「飾り窓の天使」のキャストさんに「著者さんはお尻フェチなんですか?」と尋ねられたことがありました。 たしかに著者は街を歩いているとき歩行者のお尻や足を良く観察し、そのことを周囲の人たちに話しています。 そのとき「いずれフェティシズム(fetishism)について詳しく説明しますよ」とキャストさんに答えたのですが、あれから1ヶ月も経ってしまいました。 実はフェティシズムには3つの分野があります。 1.商品・お金に関するフェティシズムでは、経済学では物神崇拝と呼ばれる (ブランドもの・キャラクターグッズなど) 2.信仰に関するフェティシズムでは、人類学や宗教学では呪物崇拝や偶像崇拝と呼ばれる (お守りとしての水晶や動物の牙など) 3.性愛関するフェティシズムでは、性欲倒錯による拝物愛と呼ばれる それぞれに共通することは異物嗜愛が特徴であり特定のモノに執着したり、特定のモノを欲望の対象と することにあります。 フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』によれば「執着や欲望の対象となるモノをフェティッシュ(fetish)と呼び、フェティシズムの志向を持つ人をフェティスト(fetist)という。 今日では省略形のフェチという呼び方が広く流布しているが、特に性的な意味合いで使用され、身体の一部や身に付けるものなどに対する特殊な性的嗜好として使われる場合が多い」とあります。 「飾り窓の天使」のキャストさんのために上記「ウィキペディア」から以下を引用します。 「フェティシズムの原義」 当初は人類学、宗教学の用語として使われ、のちに心理学などの分野でも使われるようになった。 フェティシズムという言葉を使い始めたのはフランスの思想家ド・ブロスCharles de Brosses)だといわれる。 ド・ブロスは1760年に『フェティッシュ諸神の崇拝』を著した。ここで扱われているのはアフリカの住民の間で宗教的な崇拝の対象になっていた護符(フェティソ Fetico)であった。 さらに心理学者のアルフレッド・ビネー(1857年-1911年)は1887年の論文で肌着、靴など本来性的な対象でないモノに性的魅力を感じることをフェティシズムと呼ぶよう提唱した。 次いでクラフト=エビング(1840年−1902年)が『性的精神病理学』第4版(1889年)の中でフェティシズム概念を採用した。この著書はフェティシズム、同性愛、サディズム、マゾヒズムを主に論じたもので、世紀末によく読まれた本である。 フロイトも性の逸脱現象としてこの用語を用いた。フロイトは足や髪、衣服などを性の対象とするフェティシズムは幼児期の体験に基づくものと考えた。 このほか、カール・マルクスもド・ブロスを読み、『経済学・哲学草稿』(1932年公刊)のなかで資本主義経済を批判し、貨幣は経済を円滑にする手段として生まれたものであるが、貨幣自体が神になり、人間関係を倒錯させていると述べた。また『資本論』第1巻(1867年)の「商品の物神的性格とその秘密」という章で、「商品」の持つフェティシズムを論じた。マルクスのフェティシズム論は20世紀になって注目されるようになった。 様々なフェティシズム作家谷崎潤一郎が初期の『刺青』から晩年の『瘋癲老人日記』まで、女性の足にこだわりを見せたことは有名。『瘋癲老人日記』(1961年)は、若い嫁の足に踏みつけられることを夢想し、死んでゆく男性を描いている。フェチを描いた先駆的小説である。(足に対する偏愛は「谷崎趣味」と呼ばれることもあった) 女性のハイヒールなどに執着するフェティシズムが、日本で一般にも認知されるようになるのは、1970-80年代以降のようである。 ボンデージ(Bondage 拘束衣)への嗜好はSMから始まったものだが、1990年代初め、シャネル、ベルサーチなどがファッションに取り入れた。 アメリカの歌手マドンナもゴルチエのSMボンデージ風の衣装を好んで身に付けていた。 女性の下着、タイツ、ストッキングに執着し、秘かに持ち去ってゆく者(下着泥棒)もいる。女性に直接危害を加えるわけではないが、やはり気味が悪いと思う女性は数多い。本来、布よりも中身に価値があるはずなのに、価値の転倒が見られる。 成人男性は一般に、女子中・高生の制服やブルマー、スクール水着に対して青春の甘酸っぱい想い出、哀愁を呼び覚まされるものであるが、その感情が度を越してしまう場合も時々見られる。こうした需要が1990年代に生まれたブルセラショップを支えた。 かつては隠微なものであった特殊な嗜好も、近年ではフェチという言葉が一般化し、脇フェチ、尻フェチ、二の腕フェチなど一層細分化され、身体のパーツへのこだわりという現象が顕著になってきている。また近年ではめがねフェチ、鎖骨フェチ、腹筋フェチなどといった言葉で語られる女性の男性に対するパーツ化された嗜好が一般に語られるようになった。 日本では男性のフェティシズムが変態性欲の一つとみなされることが多い。一方、女性のフェティシズムはさほど否定的に認識されない。人間をパーツとしてしか愛せなくなった大衆を批判する精神科医もいる。 (関連項目:女装・スカトロジー・ウェット&メッシー・濡れフェチ等) 「飾り窓の天使」におけるコスプレは「ラッピング」(中身の価値を高め神秘性を強化する手法)であると同時に、女性の着衣に関するフェティシズムの喚起であることから男性諸氏の秘かな注目を集めています。 しかし、自己の外部に性欲の対象を求めることは「モノへのとらわれ」や依存・従属であって「自分だけで楽しんでいる人が多く、ほとんど他人に危害を与えない」と言われるような無害な嗜好にすぎません。 著者の場合、街のなかで見かけた「気になるワンシーン」をいったん脳の中に取り込み妄想やファンタジーのネタとして蓄積したり、独自にアレンジするなど脳のなかでイメージが醗酵するまで栄養を与え励まし純度を高めつつ、大衆から見ると「有害」なドラマを組み立て、その世界に耽溺します・・・ したがって「お尻(パーツ)フェチなんですか?」という質問には「それ以上です!」とお答えいたします。 芸術について 2006-07-26 00:52:26 一般に芸術と呼ばれているものは、有名な展覧会に入選したと言う肩書きを有する擬似芸術の生産者と美術商が作りだした商業芸術であって、イチカバチカのハッタリと奇抜さ、スキャンダラスを売り物にしている大衆向きの商品化された作品にすぎません。 音楽を含めて、芸術を商品として売り物のにすることは、芸術の自殺であり、投資や投機の対象となった芸術は、もはや「たくらみに満ちた商品」か消耗品に成り下がっています。 残念なことに、性愛懐疑派から見ると、芸術は文化やビジネスという有用性に従属しており、生や性の抑圧にも加担しています。 芸術としてのヌードとポルノとしてのヌードの違いが、どこにあるかご存知ですか? 芸術としてのヌードはモデルに表情がなく、ポルノとしてのヌードには蠱惑的な表情がある・・・なんと、これが真相なのです。 つまり、芸術もすでに大衆によって商品化されているため、官能的快楽を排除しているのであり、快楽や官能を軽蔑していることになります。 例外者から見た真の芸術とは、社会的人格を脱ぎ捨て内奥の陶酔や酩酊の中から瞬間的に現れる他者に理解できない鮮明なヴィジョンの「きらめき」ことであり、あくまでも自己を素材とした非商業的な無益なイメージの表現に限定されます。 このイメージを薄めて大衆向けに視聴覚的に表現したものが、一般に芸術と称される企画化された商品であり、これらは鑑賞者・消費者を明確に意識して作品化されています。 しかし、こうした作品化は鑑賞者や消費者の価値観に従属したイメージの切り売りであり、自称芸術家たちが常用する「インスピレーション」なるものは、単なる思いつきでしかなく内奥のヴィジョンとは似ても似つかない軽薄なイメージの断片にすぎません。 ある美容師が「私はアーチストだ」と胸を張っていましたが、ヘアメイクは断じてアートなどではなく、彼は「誇り高い街の髪結い」にすぎません。 真の芸術は至高性やエクスタシーの中にしかなく、社会や秩序に対して反抗するものであり、金銭など眼中になく、大衆の理解を拒否する孤高のものなのです。 俗物のための芸術は誤謬もしくは錯誤・ダマシであり、そこにはいかなる真理もありません。 哲学について 2006-07-26 22:13:11 いかなる宗教も、道徳や迷妄にとらわれていたり女性を蔑視しており、至高性をめざす例外者にとって、宗教に関わることは人生の浪費でしかないことはすでに述べてきました。 また自己の外部に自由の拡大を求めても、それは法律や「しきたり」等の規範という目に見えない檻の中を歩く自由でしかないこともすでに理解していただけたと思います。 さらに、大衆の多数決による民主主義やヒューマニズムを拡大して行くことが、いかに愚かなことであるかも理解していただけたと思います。 同様に投資や投機の対象となった芸術は、もはや「たくらみに満ちた商品」か消耗品に過ぎず、芸術の分野にも大衆による芸術の商品化という現象が深く浸透しています。 しかしそれでもまだ、哲学の分野にこそ真理や至高性があるはずだと考えている人も多いはずです。 しかし、どこかに疑問の余地のない真理が存在すると考えること自体、実はすでに関心が自己以外のものに向いていることを示しています。 哲学のように、難解な概念をいくら積み重ねても現実は何も変わりませんし、なにも解決しません。 真理を求める人は要するに暇人なのであり、哲学を学んでも至高性(神仏抜きの解脱や悟り)に到達した者は皆無なのです。 一言でいえば、真理とは仮説に立脚したひとつの偏見であって、「真理とは疑問の余地がないと思える誤謬」であり、平たくいえば思考の遊びか錯覚にすぎません。(ニーチェ・要旨) なぜなら仮に、哲学上の真理なるものに到達しても、すぐまた新たな現実問題(腹がすいたなあ・腰がいたいなあ・・・)に直面するからです。 つまり、永遠の真理や不変不滅の真理はどこにも存在しないのであり、結論を先に言えばいかなる生存にも意義などないし、いかなる大衆にも人生の意味などないのです。 大衆が大衆として真理を求めること自体不毛です。 無論、宗教や経典の中に真理など、はじめからあるわけがありません。 エントロピーの法則を引用するまでもなく、この世に確実なものは何ひとつなく、すべては変化し消滅するのです。 人間にとって有益なものは真理ではありません。 有益な真理は、道徳のように必ず何かに依存し何かに従属しています。 たとえば道徳は善悪を前提とし、弱者である大衆のエゴに従属しています。 従って道徳は不変ではないし、永遠不滅でもありません。 特に例外者から見れば、カントやプラトンの善悪論ほど俗悪なものはないのです。 むしろ大衆は、まがいものの真理なくして生きられない気の毒な生き物です。 それはあたかも唯一絶対の真理など存在しないのに、いつまでも「真理なるもの」捜し求めている、まるで「ないものねだりの駄々っ子」のようなものなのです。 哲学も生を抑圧し、その弱体化を企て、女性と官能を排除しており、決して真理を含みません。 なにより哲学は言語と先駆者の言論に従属しています。 また、真理や愛を崇高なものとして大衆に説く者はペテン師であり、真理を口にする者は独断と狂信の輩であり、真理をふりかざす者は皆・教条主義者です。 真理は決してひとつではありません。主観の数だけ真理があるのです。 従って、世界をひとつに束ねようとする思想や、世界を一気に救済しようとする真理は、多様性を否定する抑圧者の支配欲の現れにすぎません。 大衆が集まるところに断じて真理はありません。 真理があるとすればそれは純粋なフィクションや内奥のファンタジーの中にあり、脳内写生によるファンタジーこそ、なにものにも従属していません。たかが真理ごときのために、人生を浪費すべきではないのです。 例外者は、大衆が到達不可能な世界、大衆にとって有害な領域を追求し超越しつつ、大衆が信じる真理を懐疑することを快楽と感じます。 男に殺される女 2006-07-28 16:43:43 このブログは「暴言を吐くブログ」として、かなり注目度が高いそうです。 それは大衆と例外者の境界が鮮明であることの「あかし」なので、著者は誇りに思っています。 さて読者にお尋ねします。 戦争を除外して、「男に殺される女」と「女に殺される男」と、どちらが統計的に多いと思いますか? もちろん「男に殺される女」のほうが圧倒的に多いに決まっています。 では、なぜ「男に殺される女」のほうが圧倒的に多いのでしょうか? 男が野蛮で暴力的だから・・・ (この答えの評価は30点) 男の性欲が商品化され官能が外部に依存しているから・・・ (この答えの評価は60点) 男の本質はハンターであり、女は獲物。男にとって女をしとめることは手柄。数が多いほど自慢できるから・・・ (この答えの評価は70点) 女は男に殺されることを切望しているから・・・実はそうなのかもしれないのです。 毎日のニュースを見るまでもなく、男に殺され続ける女たちが後を絶ちません。 レイプ・強盗・別れ話のもつれ・ストーカー等、動機はまちまちですが、よくよく調べて見ると避けようとすれば避けられたはずなのに多くの女性があたかも男に殺されることを望んでいたかのように現場に残っていたり、いったん別れた男と再会してしまうのです。 著者はこうした事件をただ犯罪として処理するのではなく、どうして女は次々と男に殺され続けるのか、やすやすと男に略取されてしまうのか、慎重に懐疑(深く考えること)してみる必要があると思っています。 たとえば女性は暴力に対して無力であり、「守られたい」という依存心から危機感が著しく欠如してしまい、その結果「男に殺される女」が多いのだと見ることもできるでしょう。 また最近の若い女性のファッションが胸の谷間やヘソ、あるいはジーンズから尾骨を露出したり下着を見せるなど外見が無防備であったり、出会い系サイト等を通じた交際やナンパなどの不用意な交際も「男に殺される女」が多い一因なのかもしれません。しかしそれだけではないのです。 女性は自分が女性であることの意味や、女性としての自覚がもともと希薄なのです。 女性の学者がフェミニズムをどんなに論じても女性はほとんどついてきません。 また女性の自立を一番ないがしろにしているのは女性自身です。 女性の自立を一番妨害しているのは、ほかならぬ女性自身なのです。 女性には労働力としての価値とエロティックな存在としての価値が共存しています。 ところが女性は「キャリア」をめざすか、男たちから注目されるエロティックな存在をめざすか、どちらか一方を選択してしまいます。 両者に共通するのは「女性は自己の性器についてほとんど関心を抱かない」という点です。 否、「女性は自己の性器についてなるべく関心を抱かないようにしている」 あるいは「自己の性欲に気付かないようにしている」というべきかもしれません。 女性は女性クリニックを訪れ診察を受けることを嫌うし、下着に凝ったり、美容エステや美容整形にお金を使っても官能的快楽の探求にお金を使おうとはしません。 自己に固有のカラダなのに、官能的快楽の開発はパートナーにまかせっぱなしで、自分で自分の官能を開花させることにきわめて消極的です。こんなことでいいのですか? 官能的快楽=性的エクスタシー(オーガズム)は古来から「小さな死」という意味であり、女性が口にする「イク」は「逝く」であり、ときには「死ぬ」と口にすることもあります。 同様に「I'm coming」は「小さな死が来る」という意味であり、いずれも女性は男性に殺されることを切望しているというニュアンスを含んでいます。 現実の社会で男性が女性を殺せば犯罪となりますが、脳内写生というファンタジーの領域には善悪や生死の区別もありません。 あらゆる欲望とあらゆる官能は即座に満たされるべき領域であり、生き残ることを考える必要もありません。 女性が「男に殺されることを切望している」のであれば、男はその願望を満たしてやり、ひたすら「子孫を残す義務」を果たせばいいのです。 (時々、著者の社会的人格と社会的人格を脱いでいる「例外者」としての著者を混同して、著者を「いまわしい視線」でみつめる人物がおります。 そんな視線を向けられた時、著者はいつも「誤解される名誉」と栄光に陶酔しています) インセスト・タブーについて 2006-07-30 00:56:35 エロティシズムの領域で、最大のタブーはインセスト(近親性愛)であり、シスターコンプレックス(姉と弟の性愛)・ブラザーコンプレックス(兄と妹の性愛)・エディプスコンプレックス(母と息子の性愛)・エレクトラコンプレックス(父と娘の性愛)等があります。 また義父とその息子の嫁の性愛や、義母とその娘の夫の性愛もあり得ることです。 こうしたインセストをタブー(禁忌)視する道徳観は世界に広く認められますが、その理由として優生学的に問題があるという説や、女性を公平に分配し、労働力とするためのルールに反する(「書物の解体学」吉本隆明・要旨)という説がありますが、実は一致した説がありません。 しかも確実な避妊が可能なこんにち、もはやインセストを禁じる明確な理由がなく、しかも近親者同士の合意に基づく性交に関しては法律上の規定すらありません。 それなのに大衆社会において、現在もインセストが強くタブー視されているのはなぜなのでしょうか・・・ 親から子どもに対する性的虐待という問題が根底にあるからでしょうか? あるいはワイセツな父親と知的障害者の娘との間にごく稀に起こる忌まわしい現象だからですか? それとも身内のみ付き合うことは、社会人としての成長を妨げるからですか? 著者はインセスト・タブーを開放せよ主張しているのではありません。 大衆は大衆らしくインセストを忌避していればいのです。 しかし例外者にとってこれほど「おいしい」領域はないのです。 なぜならエロティシズムは、禁止をあえて侵犯することで官能が高まるのですから、大衆が恐れるインセスト・タブーがこんにちも存在することで、近親者のエロティックな価値は逆に高まるからです。 大衆が恐れる性的虐待ではなく、「近親者同士の合意に基づく性愛」こそ大衆にとって禁断の果実であり、禁断の果実だからこそ食べる価値がある、「最も聖なる掟を侵犯すことで、超自然的な危険な力を獲得する」(「人間と聖なるもの」カイヨワ・要旨)ことができるのです。 わが国にも「ロイヤル・インセスト」の史実があるように、タブーを侵犯する高揚感こそ選ばれた王者や例外者の特権なのです。 むしろ「インセスト・タブーが厳しく問われたのは、それだけ獲得するエネルギーが大きく」(渋谷申博・要旨)大衆にとって危険と信じられたからなのです。 大衆が禁じることをあえて侵犯し、道徳が禁じることをあえて侵犯する。 それが脳内写生の奥義のひとつです。 ペットとの恋愛 2006-07-30 13:05:25 たとえばペットのオス犬が、飼い主である女性の股間に鼻を押し付けて匂いを嗅ぎ、いきなり発情することはよくあることであり、ポルノ作品の中には女性とオス犬との交合を扱ったものがかなりあります。 またHIV(エイズ)も霊長類を自然宿主としていたサル免疫不全ウィルスが、サルの体内で突然変異し、このサル免疫不全ウィルスに感染したサルからヒトへと感染し、HIVに進化し世界に伝播したと考えられています。 さらにある説では梅毒は家畜の病気であったものが、中南米の男性に伝染し、コロンブスの一行がこれに伝染して東南アジアからヨーロッパへ伝播したとする有力な説もあります。 また魔女狩りの中世ヨーロッパなどでは犬等と交合したとして処刑された男女もあったと言われています。 しかも民話や神話・文学の中には八犬伝を引用するまでもなく動物と交合する(獣姦)物語が多数あり、遠野物語には馬と娘が恋をし、これに怒った父親が馬の首を斬ると馬と娘が一緒に天に昇ったとか、ギリシャ神話には、白鳥に化けたゼウスとレダの交合が有名であり、古代エジプトにもミノス王の妃が牛と交合してミノタウロスを産んだという伝えがあります。 (獣姦の場合、受精はするが着床はしないというショックな事実があります。もし受精を生命の誕生と定義すると獣姦は神様が与えてくれた聖なる行為なのかもしれません・・・) しかし獣姦は、大衆からみると動物虐待とも受け取れることもあり、これを忌避する道徳文化圏がほとんどです。 たしかに「生殖」という行為から逸脱しており、衛生上のリスクも見逃せませんが、それだけにインセスト同様にタブーをあえて侵犯する高揚感こそ選ばれた王者や例外者の特権なのであり、獣姦が厳しく問われたのはそれだけ獲得するエネルギーが大きいという側面をこれまで見落としてきた事実を例外者は反省すべきです。 脳内写生ではあえて人間以外の「この世のものではないもの」との官能的快楽や人間以外の動物・植物・昆虫等との官能的快楽もあえて体験する必要があるのです。 念のため申し添えますが、ここで述べているテーマは遊牧民や貧しい兵士が性欲を発散するために羊やブタ・ニワトリと交合したという低次元の快楽ではありません。 また著者は実際に獣姦を試みることをそそのかしているのでもありません。 著者は、もしあなたが愛しているペットがあなたに向かって発情したら、そのイメージを脳にとりこみ、ペットとじゃれながらあなたのファンタジーの翼を思い切り広げて「してはならないこと」あえて妄想してみて欲しいと申し上げているのです。そうすることであなたの官能的快楽の領域は確実に拡張されるでしょう。 天国と地獄 2006-08-01 01:20:49 摂理と言う言葉の意味は(1)自然や万象を支配している理法(2)キリスト教で、この世の出来事がすべて神の予見と配慮に従って起こるとされること、です。 その単語を教団の名称とするキリスト教系カルトの代表が、若くてスリムで有名大学に通う女性大生ばかりをサークルを利用して勧誘し、マインドコントロールによって性交渉をしたという話題を耳にしました。 どんなにアタマが良くても「自然や万象を支配している理法などありはしないし、この世の出来事がすべて神の予見と配慮によって起こることなどあり得ない」という単純明快な事実すら分からないようです。 これが大衆なのであり、大衆はいつも自分を支配してくれる偉大な存在を信じ崇拝しようとしますが、その結果はいつも不条理といういくつもの偶然が重なった災難に直面させられ、裏切られ、落胆し、そこからさらに新たな崇拝対象を探しはじめるのです。 そして何度だまされても懲りないのが大衆であり、何度裏切られても「なにか」を信じてしまうのが大衆なのです。 もし本当に摂理という仕組みを信じたのであれば、たとえ教祖にレイプされようとも「これが神の摂理なのだ」と信じればよいのです。 信じ方が足りないから「だまされた」と騒ぐのでしょう。 またカルトの代表もマインドコントロールがヘタすぎます。 こんな粗雑なカルトにだまされた人がいるとは・・・ホントに驚きです。 あるいは大学めざして勉学ばかりしていたから、世間の汚濁を見ていなかったのかもしれません。 天国などどこにもありません。地獄はこの世にしかありません。 むしろ教訓として重要なのは、大衆は神さえも「モテアソビ」、神さえも支配の道具に利用し、神さえも犯罪の口実に利用するというあきれた事実なのです。 もうひとつ覚えておいて欲しいことは、大衆は宗教を脅迫の道具に使うという事実です。 実はあらゆる宗教が「○○しなければ地獄に堕ちるぞ」「たたりがあるぞ」「罰が当たるぞ」と信者や信徒を公然と脅迫します。 しかしもしそうであるならば、神仏は大衆が日々しでかす失態や成果をいちいち帳面に付けていて、ひとりひとりに小言やご褒美を分配するような町内会の暇な年寄りのような存在ということになるのです。 皆さんは、そうしたお節介好きの人物をこころから尊敬しますか? 再度申し上げます。大衆には救いがたい欠陥があるのです。 もし大衆に向かって大衆を救済しようとする「やから」がいたら、それは本物の至高性を目指していない、ニセモノだとみなして間違いありません。 大衆を救済することは無駄なことです。 大衆は大衆らしく大衆を慰めてくれる「アヘン」(麻薬)のような宗教に陶酔していればいいのです。 伝説的コメントが届きました。 2006-08-02 16:47:26 新しい読者からコメントがふたつ届きました。内容は下記のとおりです。 「断言的過ぎてなんかムカつく」「すごい自信たっぷりですね。どうか幸せになってください」このコメントを書かれた方は是非「脳内写生研究所」の入口にあるコメントをお読みください。 またこのグログの7月5日の文章を引用しておきます。 「(コメントに対する)回答の代わりに、再度著者の立場とこのブログの目的を説明します。 このブログは脳内写生という高度で知的なファンタジーについて、ごく限られた例外的な読者を対象に記述されています。 興味本位の方や『うわべ』だけ読み飛ばして判ったようなふりをする方は閲読をご遠慮ください。 また『ひやかし』や中傷目的の介入もお断りします。 このブログはいかなる宗教や道徳あるいは特定の教義等とも完全に無縁であり、自在闊達な観点からものごとを懐疑する(深く考えること)方を対象としています。 したがって(場違いなコメントは)まるで「関係者専用通路」と表示されている廊下にバイクで乗り込んできて、騒音を撒き散らしながら「歩行者が邪魔だ」と騒いでいる人と同じなのです。 このブログの全部を読まずに、あるいは全部を読んだとしても・・・大衆的立場の投稿者に対して、著者はいちいち反論する必要を認めません。 再度申し上げますが、冒頭よりこのブログは判る人に判ればいい、判らない人はだまって退出するか閲読のみしてください、著者には憲法が認めた表現の自由があるのであり、当初より著者には読者を選ぶ権利があると明記してきました。 もし著者の主張が「不勉強である・初歩的な間違いが多い・知ったかぶり・ムカツク・不快だ」と感じられるのであれば、二度とこのブログを読まないでください。 なお「幸せになってください」に関しては「大衆社会における幸せなるもの」の追求のことなのか、著者に対する皮肉なのか解釈が分かれます。 言論は議論の前に厳密な用語の定義が必要です。 著者は「幸せ」とはほとんど金銭で実現する大衆的願望であって、例外者はその「幸せ」の埒外におり、このブログでは議論が済んでい ると考えています。 アニメ&オタク&ゲーマー 2006-08-03 14:27:30 このブログではSM・獣姦・タブーの侵犯等の「性愛の偏向」(変態性欲)について述べてきましたが、オタク文化についてはほとんど触れませんでした。 アニメやPC恋愛ゲームに熱中する「二次元コンプレックス」と言う仮説は「平面的画像に対しての萌えの様式」であり、心理学や社会学の立場から見るとレベルが低いとみなされがちです。 たしかにパートナーとのセックスレス(性交を忌避する交際)や、現実世界での生身の異性との性交に消極的な態度を見せ、恋愛を仮想空間で楽しむという傾向が存在します。 これはドロドロとした性愛や具体的なナマナマしい関係、あるいは「やっかいな関係」を回避したがり、読者側に選択権があるアニメや簡単にリセットできるPCゲームの世界のほうが気楽であり、自分の理想や想像力で補うことのできるアニメなどの世界の方がスムーズに感情移入できることがブームの背景にあります。 アニメは実写の動画映像と異なり描写が抽象的にならざるを得ず、このことが読者に都合の良いように解釈したり妄想を膨らます余地を与えています。 むしろこのアニメの抽象性こそが「素敵な恋を夢見ていたい世代」にとって最適なメディアであったのです。 「飾り窓の天使」のホームページには「最近のアニメブームやフィギュアブーム、コスプレブームには一つのトレンドがあるように思われます。 たとえばアニメの主人公は『二次元美少女』(平面的データ)であり、それを立体化したものが美少女フィギュアであって、これらは『三次元美少女』とも呼ぶべき造形物と見ることができます。 この美少女フィギュア=『三次元美少女』をギリシャ神話のピグマリオンのように『造形物であった美少女フィギュアがヴィーナスから生命を与えられ、理想的な女性としてこの世に降臨した』という神話に基づいてアニメやフィギュアのポーズを取り入れたファンタジー気功を開発いたしました」と言う面白い記述があります。 しかし著者が実際に「ファンタジー気功」(7月15日のブログ参照)を体験してみると「飾り窓の天使」のキャストさんたちは「三次元美少女」というよりも、「手に触れることができる四次元美少女」ともいうべき存在であって、「飾り窓の天使」はこの世に出現した「ありえない世界」(異次元の世界・天国・楽園・異界・魔界)であり、キャストさんたちは妖精や天使・天女というべき存在であると思います。 一部の知識人は「現実と虚構の境界の喪失」を警告し、犯罪を起こす要因のひとつとしてアニメやアダルトビデオが社会的不適応化を加速化しニート世代や性犯罪の増加を招いていると主張します。 しかし宮台真司氏が指摘するまでもなく「(アニメ世代は)虚構と現実の区別がはっきりしており・・・虚構と現実を混同しているのではなく、むしろ虚構と現実とを区別した上でよりリアルな虚構を選択しているのだ。」(要旨)と思います。 ここまでアニメ世代が進化しているのであれば、芸術や創作活動を行うアクティブな人は、ファンタジーの世界における官能領域を拡張することで、むしろ自己の妄想を強化し、これを活力や創造力を高めるエネルギーに転換することが可能となります。 道徳や宗教や法律がどんなに妄想や性欲を否定しても、私たちの脳の中には広大なファンタジーの世界が存在し、むしろ脳の中にある真っ白なスクリーンに自分だけのオリジナルな性欲やいまだ商品化されていない官能的快楽を思い切り投影し、それに鮮明な映像を描くことが必要であり、このファンタジーが創造力や活力の源になるのです。 そもそも脳の中は憲法によって道徳も宗教も法律も何人も入り込めない「信教の自由」が保障された領域であり、脳の中では「妄想してはならないこと」はなにひとつありません。 「飾り窓の天使・脳内写生研究所」は、そのファンタジーの世界を大胆に肯定するとともに、その世界を自由に飛びまわるための安全基地であり、「性の商品化」という他人の手あかにまみれお金で売り買いされる (消費される)性欲をいくら追い求めても私たちの妄想や性欲は消化されることもなければ、満たされることはないという事実に気付く場所でもあります。 しかし、もし自分だけのオリジナルな妄想や性欲を現実社会の中でストレートに発散させようとすると、それは犯罪になってしまいます。 「飾り窓の天使・脳内写生研究所」は自分だけのオリジナルな官能と快楽の発見のために、合法的かつ知的に、しかも上品に脳の中で妄想を充溢・発散させるための上級アニメ世代向けのアジール(隠れ家)なのです。 六つの性別について 2006-08-05 00:35:33 先日「飾り窓の天使」のチャーミングなキャストさんから、「どうして『飾り窓の天使』にアニメのイラストやエロティックなフィギュアが置いてあるのですか?」と聞かれました。 「オタク」と呼ばれる文化とアニメ文化はかなりの部分で隣接しています。 また「オタク」文化と「アニメ」文化は、性愛の領域でもかなり重なり合う部分があるのです。 ところで文献:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disordersに記載されている性愛の分類では下記のようになります。 性対象(性的魅力を持つもの・状態)の異常 自体愛(病的自慰・ナルシズム) 拝物愛・異物嗜愛(フェティシズム・フェチ) 服装倒錯(コスプレ・異性装(女装・男装)趣味) 小児性愛(ペドフィリア)・少女愛(ロリコン)・少年愛(ショタコン)・エフェボフィリア 老人性愛(ジェロントフィリア) 偶像嗜愛(架空の存在《漫画・アニメ・ゲームキャラなど》・人形などへの恋愛以上の感情・妄想) 近親性愛(感情ではマザコン・ファザコン・シスコン・ブラコン・行為では近親相姦など) 動物性愛(獣姦など) 畸形愛好(フリークス) 死体愛好(屍姦など) 性目標(性的満足の行為)の異常 疼痛性愛(SM《サディズム・マゾヒズム》・快楽殺人など) 人肉嗜好(カニバリズム・丸呑みフェチ《Vorarephilia》) 排泄物淫乱症(スカトロ) 虐待行為(性的虐待・幼児虐待など) 露出症・窃視症(窃視(のぞき)・盗撮) 強姦強迫観念(Biastophilia) ズーサディズム(zoosadism・動物を痛めて快感を得る) テレフォン・スカトロジア(Telephone scatologia・猥褻電話をかけて快感を得る)・・・ これらの性愛の領域が複雑に重なりあっているわけですが、残念なことに上記の分類は少々粗雑で「多重人格」や「多形倒錯」および6月10日のブログで述べた「n個の性」についてまったく考察されていません。 通常、人間は出生の時点で他者によって判定された戸籍上の性別を違和感なく受入れていて、自己の性別にことさら疑問を抱くことはありません。 たとえば出生時に男性と判定されたものは男性として育てられ、当然のこととして女性を愛し女性と結婚します。 女性の場合も、女性差別を受けたとき「男性として生まれれば良かった」と思うときがあっても、基本的には女性と判定されたら女性として育てられ、当然のこととして男性を愛し男性と結婚します。 そしてこのシステムに疑問を抱くこともなければ、このシステムから逸脱しようとも思いません。 ところが最近、他者によって判定された戸籍上の性別と自己の心的性別(ジェンダー)が一致せず、ときには「性転換」を求める「性同一性障害」と呼ばれる症例が増加しています。 確かに、心が女性であるのに男性であることを周囲から強制されたり、心が男性であるのに女性であることを周囲から強制される苦痛は察するに余りあります。 しかし良く考えて見ると、「性同一性障害」は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」という社会的類型にとらわれているであり、性別にとらわれているのではないかという疑問が次々と浮かんできます。 たとえば、人間には六つの性別があると考えることが可能です。 まず他者によって判定された「戸籍上の性別」と、自己選択した「心的性別」と「外見上の性別」、「部分的性別」および「医学上の性別」と例外者としての「両性具有性」です。 なお、この「外見上の性別」とはあくまでも「見た目」の印象であり、その外見によって周囲から与えられた性別です。 また「部分的性別」とは性器を除外した身体上の特徴のことであり、身体や衣服の一部および所持品・生活様式の一部が異性の特徴を示すとき適用されます。 たとえば、戸籍も心も外見も医学上も男性であるのに、話し方や仕種・物腰がほんの少し女性的であるために、周囲から「おかまっぽい人」と見られがちな男性や「ボーイッシュな女性」をここではひとつのカテゴリーと見なしています。 世の中には戸籍が男性であっても、心が女性であるために女装する者もいれば、戸籍も心も男性なのにファッションとして女装するタレントもいます。 カラオケを女装して楽しむとか、女装して街を歩くことを楽しむ男性も決して少なくありません。 しかしこの場合、両方とも女装しているために、一般的に「ゲイ」や「おかま」とみなされますが、実は「心から女装している者」と「外見だけ女装している者」という、決定的な違いがあります。 また、ファッションとして女装していてもその完成度によって「おかま」と見なされることもあれば、本物の女性として通用することもあり、本人の意識と周囲の認識が一致しているとは限りません。 さらに、心が女性であっても必ずしも女装するとは限らないし、女装していても外出しなかったり、下着だけ女装していれば周囲に気付かれることはないでしょう。 一方、戸籍も心も男性であるのに性転換手術によって職業としての「ニューハーフ」を選択する者もいるし、「性同一性障害」を克服するために、戸籍以外はすべて女性化した者います。 従って、女装しているから「ゲイ」とか「おかま」と特定できる訳ではありませんし、見た目が女性だからといって子宮があるとは限らない時代なのです。 同様にペニスを有するから男性とは限りませんし、ヴァギナを有するから女性とは限りません。 なぜなら、ペニスを有しても、心も外見も女性であることは可能だし、性転換手術によってヴァギナを作ることも可能だからです。 さらに、ごくまれですが戸籍も心も外見も男性であるのに、染色体を調べたら医学上は女性であったという事例もありますし、戸籍も心も外見も男性なのにペニスとヴァギナを両方所有する「ふたなり」という事例もあります。 また戸籍も心も外見も男性なのに、官能を求めるときだけ女性として扱われたいと思う者もいるし、戸籍も心も外見も男性である者が、戸籍も心も外見も男性である者に官能を求めることもあると思います。 そしてこのように多様な性別の可能性は、やがてバイセクシャルと「両性具有性」の混同という問題に直面します。 バイセクシャルとは、あくまでも官能の対象として同性でも異性でも区別することなく無差別に選択することですが、パートナーがいなければ官能的快楽はえられません。 これに対し「両性具有性」とは、内奥の分身に気付くことが不可欠で、しかもその分身が性別を自在に転換しうる者であり、「なにものにも依存しない」例外者のことです。 複雑すぎますか?むずかしいですか? 自己の性別になんの疑問も抱かない大衆には、こうした議論は生涯無縁のことかもしれませんが、人間の官能領域はこれほど広大であり、さらに拡張される可能性を秘めているのです。 補足説明です。 2006-08-06 00:04:33 前回のブログに関して「で、始めの問いに応えたつもり?」という伝説的コメントを頂きました。 「始めの問い」とは、「どうして『飾り窓の天使』にアニメのイラストやエロティックなフィギュアが置いてあるのですか?」というキャストさんからの質問のことです。 その回答として著者は「?オタク文化とアニメ文化はかなりの部分で隣接しており、?オタク文化とアニメ文化は性愛の領域でもかなり重なり合う部分がある」旨の記述したのですが、どうやら少し説明が足りなかったようです。 ?の「オタク文化とアニメ文化はかなりの部分で隣接しており・・・」とは、8月3日のブログが前提になっており、【アニメやPC恋愛ゲームに熱中する「二次元コンプレックス」と言う現象(仮説)は「平面的画像に対しての萌えの様式」であり・・・パートナーとのセックスレス(性交を忌避する交際)や、現実世界での生身の異性との性交に消極的な態度を見せ、恋愛を仮想空間で楽しむという傾向が存在します・・・これはドロドロとした性愛や具体的なナマナマしい関係、あるいは「やっかいな関係」を回避したがり、読者側に選択権があるアニメや簡単にリセットできるPCゲームの世界のほうが気楽であり、自分の理想や想像力で補うことのできるアニメなどの世界の方がスムーズに感情移入できることがブームの背景にあります。アニメは実写の動画映像と異なり描写が抽象的にならざるを得ず、このことが読者に都合の良いように解釈したり妄想を膨らます余地を与えています。むしろこのアニメの抽象性こそが「素敵な恋を夢見ていたい世代」にとって最適なメディアであったのです】という記述を念頭に置いています。 また?の「オタク文化とアニメ文化は性愛の領域でもかなり重なり合う部分がある」との回答の補足として前回のブログで文献:Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disordersに記載されている性愛の分類を引用しました。 なぜこの分類を引用したかと言うと、たとえば美少女アニメやゲームに登場するキャラクター、あるいはエロティックなフィギュアに対する耽溺は「偶像嗜愛(架空の存在にたいする恋慕)」であると同時に、?の「パートナーとのセックスレス(性交を忌避する交際)や、現実世界での生身の異性との性交に消極的な態度を見せ、恋愛を仮想空間で楽しむという傾向が混在します・・・これはドロドロとした性愛や具体的なナマナマしい関係、あるいは「やっかいな関係」を回避したがる・・・」オタク文化が根底にあることを指摘するためです。 しかし上記文献の性愛に関する分類がかなり粗雑であり、現実にはもっと複雑な「多重人格」や「多形倒錯」および6月10日のブログで述べた「n個の性」の問題を考慮すると、オタク文化とアニメ文化は予想以上に緊密で相互に補完し合っており、このことが「官能領域の自己拡張」(6月5日のブログ参照)の手がかりになることを強調しました。 たとえば近親性愛をテーマにしたアニメや、同性愛をテーマにしたアニメが数多くありますが、これも「描写が抽象的で想像力を刺激するアニメ文化」と「ドロドロとした性愛や具体的なナマナマしい関係、あるいは『やっかいな関係』を回避したがるオタク文化」が融合しており、さらにそこに近親性愛や同性愛という性愛ファンタジーがからんでいます。 脳内写生の入口である『飾り窓の天使』に、アニメのイラストやエロティックなフィギュアが置いてあるのは、こうしたファンタジーを誘発しやすくする意味があります。長文になりましたが以上が補足説明です。 ちなみに「飾り窓の天使」では、アニメやフィギュア以外の手段で、多様なファンタジーを誘発する方法として「ファンタジー気功」という独自の手法を考案し店内メニューに加えています。(7月15日のブログ参照) 女性の読者へ 2006-08-06 01:27:10 Dr.北村の「診察室」というHPに「生理を支配する女性たち」に関する記述がありました低用量経口避妊薬(ピル)を継続的に服用することで長期間月経から開放されることが可能であり、これにより女性としてのクオリティ・オブ・ライフが高められるのだそうです。 また「生理に振り回されるなんて愚かです。ピルと出会うことで初めて生理との上手な付き合い方を学ぶことができた」という意見も紹介されています。 またその一方で「月経は無用の長物などというと、月経こそ女性の健康のシンボルと強調する人たちを挑発してしまいそうですが・・・」という懸念や、ピルには副作用がほとんどないという事例も紹介されています。 女性が月経から開放され、同時に妊娠の恐怖から開放されたとき、どのような状況が起きるのでしょうか? 女性がより積極的に官能的快楽を求めるようになると思いますか? ところが同じHPのなかに、(財)日本性教育協会が行った青少年の性行動調査(2000年)が引用されており、この調査によればマスターベーション経験率は大学生男子で94・2%、女子の場合は40・1%という比率が紹介されています。 しかしこの「女子40・1%」は性愛懐疑派から見ると疑問が生じます。 女性のマスターベーションとはいったい何かという定義が曖昧では調査の意味がないからです。 マクラ等を股間に挟むだけでマスターベーションをしたと思い込む女性もいれば、電動性具を用いなければマスターベーションにならないと考える女性もいます。 こう考えるとむしろ「女子40・1%」という調査結果は、かなり過大であると思うべきでしょう。 そして女性が積極的に官能的快楽を求めるためには、マスターベーションを奨励するのではなく、まず「官能領域の自己拡張」という脳の中のファンタジーを開放して強化する訓練が不可欠です。 女性の性愛に関するファンタジーは漠然としており、妄想そのものが非常に貧弱で官能的快楽にきわめて消極的です。 このため女性こそ、脳の中に豊かでリアルな官能的ファンタジ−を描き、自ら進んでオリジナルな性欲を強化する脳内写生の技法を会得すべきなのです。 監禁と飼育 その1 2006-08-07 13:43:30 8月6日の深夜「けいじ」さんから「友達になって欲しい」というメッセージをいただきました。 残念ですが「友達」は無理です。「友達」とは著者とほぼ同格という扱いになります。 例外者のブログを読んだだけで著者を理解したと思うのは早計です。 むしろ「弟子入り希望」という意味であれば「飾り窓の天使」のセミナーを受講するか、今募集中の見学ツアーに参加してください。「けいじ」さんを必ず例外者として育てて見せます。 「友達」の件、ご期待に添えず申し訳ありません。 --------------------------------------------------------------------------------------- さて著者の身近な人たちに「監禁と飼育についてブログで論じて欲しい」という依頼がありましたのでリクエストにお応えいたします。 最近男性が若い女性を監禁し暴力とレイプを繰り返す事件が相次いで報道されました。 またインターネットの検索機能を利用して「監禁 飼育」を調べると、「監禁 飼育」をテーマにしたビデオや掲示板・ブログが多数検出されます。 特に「完全なる飼育」(原作:松田美智子 第56回ロカルノ国際映画祭 特別大賞受賞 主演:荻野目慶子)という有名な映画に関する記述がかなり目立ちます。 この映画のあらすじは、北海道の小さな町である男が2年間探し求めていた女神にやっと辿り着いた・・・そしてある夜、男は女神を拉致する。 突然の出来事におびえる女だったが、男の献身的な愛に次第に心と体を開いていく・・・これがこの映画のストーリーです。 そして最近の一連の女性監禁事件はこの映画がヒントになっているのだそうです。 しかし欧米における監禁事件は今日に至るまで実に多くあり、小説「O嬢の物語」(レ・アージュ著)のテーマも監禁と飼育が根底にあり、童話としても有名な「青髭」も15世紀フランスの大貴族ジル・ド・レ(英仏100年戦争で軍の司令官としてジャンヌ・ダルクを利用し、フランスを勝利に導いた英雄)がモデルといわれています。 ところで童話「青髭」の物語は、貧しい娘が大きな城に住む青いヒゲの領主に妻として迎えられ、ある日領主が遠くへ旅することになります。このとき青髭は妻に城中の鍵を渡して、「金の鍵のついた小部屋にだけは決して入ってはいけない」と厳命して出かけて行きます。 しかし妻は青髭が旅立つと城内のありとあらゆる部屋を見て回り、迷った挙句に好奇心から禁じられていた小部屋の中も見てしまうのです。 しかもその小部屋の中には切り刻まれた前妻たちの死体がいくつも天井から吊り下げられていたのです。 一方実在のジル・ド・レは100年戦争の後、黒魔術に傾倒し、領内の子供たちを城に連れ込んでは陵辱し悪魔への生け贄として捧げ、のちに発覚して異端審問にかけられて火刑に処されたたと言う宗教裁判の記録が残っています。 なお、ジル・ド・レの城からは150人以上の子供の人骨が見つかったと言われています。 実はサドも微罪で27年間バスチーユ監獄に投獄監禁されていた人物であり、サドの「いわゆるSM小説」もこの監禁期間中に書かれ、出版されています。 サドの小説は監禁されたことによる「恨み小説」として読むとまったく新しい視野が開けてきます。 わが国で記憶に新しい監禁事件では、平成二年新潟県三条市で行方不明になった少女が、平成十二年に柏崎市で母親と暮していた男の部屋で発見され、九年以上ものあいだ監禁されていた「新潟少女監禁事件」があります。 また平成元年に足立区綾瀬で起きた「女子高生コンクリート詰め殺人事件」では無職少年2人(17歳と18歳)と別の少年5人の少年グループが17歳の女子高生を41日間にわたり監禁し、暴力とレイプを繰り返したうえドラム缶に入れてコンクリート詰めにし、埋め立て地に遺棄した事件がありました。 監禁した少年の両親は、少なくとも一度監禁されていた女子高生と主犯である息子と一緒に自宅で食事をしており、その際「家に帰りなさい」と諭した事実があるのですが、なぜかその監禁されていた女子高生は助けを求めなかったのだそうです。 さらに「監禁王子様事件」とマスコミが名付けた昨年の青森の監禁事件があり、遊び人の20代半ばの金持ちの息子が複数の女性を監禁して話題になりました。 この事件は金の力で若い女性を飼育しコレクションしたという側面が強く、暴力さえ振るわなければ金持ちの「旦那」が妾や愛人を何人も囲うというお決まりのパターン(ある製パン会社の健保組合の50代の職員が大金を横領して愛人を何十人も囲っていた等の事例など)と大差がないのであり、ただその「旦那」が低年齢化したことに世間が驚いたのでしょう。 次に昨年3月、24歳無職の男がインターネットのチャットで知り合った当時18歳の兵庫県の女性を3ヶ月以上にわたって足立区内の自宅マンションやホテルなどで監禁暴行し、犬の首輪をつけ鎖でつなぎ「ご主人様」などと呼ばせていた事件もありました。 この男は以前にも同様の犯罪を犯しており、執行猶予中・保護観察中の犯行でした。 報道によると、連絡を受けた親が上京しても少女は自宅に帰らず、警察にも恐怖感のために通報できず、たまたま通りかかった宗教家の世話で一ヶ月間福祉施設で暮らし、カウンセリングを受けたうえで警察に告訴状を提出したとのことです。 なおこの男は、上記の被害者が逃げ出した後も世田谷のマンションに転居し、他の女性を同様に監禁していました。 最近の村本 某による大阪女性監禁虐待事件は、パーティーで知り合った女性を監禁しマインドコントロールした、あるいは洗脳して監禁した事件です。 この事件では2年前に大阪府警がきちんと捜査し、この男を逮捕していれば今回の事件は防げたはずと批判されています。 さらにどうしても忘れてならないのは北朝鮮による拉致監禁です。 この事件の特徴は拉致してきた者同士をめぐり合わせ、同じ境遇であるという親近感や同情心に近い感情を抱かせて両者を結婚させ、さらにその子孫まで政治的に利用するという悪辣にあります。 ではなぜ監禁・飼育事件が起きるのでしょうか? ?自分の所有物として独占したいという願望もあるでしょう、人間としてではなく動物あるいは玩具・ペットを扱うように支配したい心理もあります。 たしかにごく普通のカップルでもどちらか一方が他の一方をペット扱いすることがあります。 (女性を「子猫ちゃん」と呼ぶとか、男性を「パンダちゃん」と呼ぶなど)またレイプなどの性犯罪の心理では、男の本性はハンターであり、レイプは強い性欲にもとづく犯行というよりも、「女性を無理やり支 配したい」という強い欲求からの犯行であり、レイプは手柄であり獲物の大きさ(上質さ)と数が意味を持ちます。 たとえば西部劇を見ていると野生の馬を囲いに誘い込み荒馬を調教して手なずけ家畜化するという作業がよく見受けられます。 ちなみに「監禁飼育」とはもともと畜産用語であり、放牧とは違って飼育用ケージのなかでブタや牛を飼育する方法のことです。 このため遊牧民の男たちは監禁飼育の家畜を見ているうちに、「いつか気に入った女性を集めてハーレムを作りたい」という夢を抱くようになります。 また女性に対する暴力的な犯行は、男性の「劣等感の裏返し」という側面があり、女性を支配し屈服させ歪んだ優越感を満たしたいという欲求や衝動が根底にあり、女性をちからずくで支配することで自分が男性であることを確認しているという意味もあります。 (それは犯罪者本人は認めたがりませんが、その犯罪者の内奥には「女性なるもの」が潜在しており、それを認めまいとする無意識の反動でレイプに走ると見ることもできます) レイプは女性を支配したいという欲求から女性に対する暴力的犯罪が生まれますが、「監禁」はむしろ支配への欲望がさらに強く現れます。 特に長期の監禁は一時的支配ではなく、被害者である女性の肉体・こころ・全生活の完全支配を狙ったものであり、「少女」を監禁する場合は、さらなる「弱者」を独裁者として征服することでより完全な支配を目指していることになります。 ちなみにメイドサロン用いられる「お帰りなさいませ、ご主人様」という挨拶も支配者と支配されるメイドという身分の格差を表現しており、商品化された擬似飼育・擬似監禁と見ることもできます。 (ちなみに飾り窓の天使では、この挨拶は使用していませんでした・・・念のため) ?なぜ監禁された女性が逃げ出せないケースが多いのでしょうか? 人間は宗教や暴力・CM・薬物等に簡単にマインドコントロールされてしまう、あやうい存在です。 また監禁され飼育され、それに耐えているうちに苦痛を緩和するために脳内麻薬が大量に分泌されるため、その環境に深く魅せられてしまうことがあり、その酩酊のなかで「もう、どうにでもなれ・・・」という自己放棄に陥ってしまうことがあります。 たとえば7月28日のブログで述べた「男に殺される女」たちもこのケースに当てはまると思います。 ?多くの女性の内奥には「素敵な彼がいて、毎日を食事を与えてくれ、いつも大切にカラダや髪を洗ってくれて、しかも時々オシャレをして一緒に外出してくれるのであれば、愛する彼が求めるときはいつでも肉体を差出すような、一日中ベッドの中で生活する淫らな日々を過ごしたい」という密かな願望があるはずです。 これはある意味で女性が純粋に性欲の対象としての「ペット」や玩具(モノ化)になることを自ら切望していることになり、それを悦んで受け入れるのが「女の幸せ」であるとアタマのどこかで自分に言い聞かせている可能性があります。 ?映画「完全なる飼育」等の「監禁飼育モノ」の氾濫が監禁事件を助長しているのでしょうか? 商品化され、販売することを目的とした「たくらみに満ちた性欲」に囲まれていると、この異常な空想が膨らみすぎバーチャルな世界だけでは満足できなくなり、さらに空想から現実に引きもどすだけの社会的人格がないと、妄想はそのまま犯行に移されることがあります。 しかし普通は異常な空想や「歪んだファンタジー」をビデオやゲームを通じて擬似体験すると、このバーチャルな世界での妄想や性欲が少し満たされていきなり犯罪に走ることが抑制されることも多いのです。 しかし著者は「脳内写生」という手法を通じて、ファンタジーをより強化し、さらにオリジナルな性欲をリアルなイメージとして脳の中に描き、その世界を自在に飛び回り、酩酊・陶酔・耽溺すると言う体験を繰り返してみると、犯罪者は妄想が足りないから犯罪を起こしてしまうという事実に気付きました。 むしろ官能領域の自己拡張やオリジナルな性欲の純度や圧力を高め、この強烈なエネルギーを創造力や生命力を高め強化することに活用すべきであり、これは健康法としても応用可能であると確信しています。 「監禁と飼育 その2」 2006-08-09 21:38:30 前回は監禁と飼育の事例およびその心理を論じました。 しかしよく考えてみると「監禁・飼育」には監禁する場所や調教する期間・そのテクニック、あるいは入浴や食事など監禁と飼育には多大な労力が伴い、それにつれてリスクも高くなります。 たとえば前回引用したほとんどの監禁飼育は「監視の眼が届かない、身の回りの世話に手が回らない」という隙を突かれて逃走に成功し事件として発覚しています。 このためあるアンダーグラウンドの世界では女性を誘い出したり、誘拐するグループが存在し、これを買い取った者が誘拐された女性をオークションにかけ、さらに複数の男性が共同で女性を落札し、各自協力して女性を監禁飼育するという噂もインターネットに書き込まれたこともあります。 さて、こからは著者が「蝶の標本」を例にたとえ、さらにこれを象徴的な隠喩(いんゆ:メタファー:あるものごとを他の具体的な事物にたとえて表すこと)として監禁・飼育を論じますので、読者は注意してください。 このブログを閲読したことで、昆虫マニアの人を「監禁マニア・飼育マニア・死体愛好マニア」などと決して思い込まないでください。 蝶の標本を集めるマニアは純粋に昆虫蒐集を目的としていると思いますが、性愛懐疑派からみると蝶の標本を集めるマニアはある種の監禁飼育マニアであり、擬似死体愛好症と見ることができます。 蝶のマニアは野山を駆け回り苦労して美しい蝶を捕らえますが、蝶をカゴに入れると羽根がキズつくため捕獲の直後に殺してしまいます。 あるいは蝶のヤゴやサナギを見つけた場合、これを持ち帰ってヤゴやサナギが変態して羽化し成虫になったところで殺して標本にします。 この方法は蝶の身体にキズが付かず確実に完全な標本ができるので、以前から昆虫マニアのなかで広く行われている方法です。 そしてここまでは蝶を監禁し飼育する過程と言えると思います。 ちなみに蝶の標本づくりでは、蝶がキズ付かないように慎重に殺したあと、蝶の羽根に十数本の虫ピンを静かに打ち込み、その蝶のもっとも美しい「すがたかたち」を残すために羽根をいっぱいに広げた形で木台に固定し、蝶が硬直するのを待ちます。 このように、指先でもがく美しい蝶に虫ピンを突き刺して殺し、完全なる標本として末永く「愛(め)でる趣味」、あるいは蝶という獲物を捕らえてその手柄を自慢したり、自らを「たたえ」手柄を確認するために昆虫という生物の剥製を造る行為にはもっと別の意味付けができるのではないかと著者は考えます。(公開後追記:ペルソナ・代償行為)美しい蝶にたくさんの虫ピンを突き刺す行為は、まるでキリストの「はりつけ」のようでもあるのです・・・ たとえば欧米には若くて美しい妻が亡くなると、妻に先立たれた夫が葬儀業者に防腐処理を行わせ、自らお化粧を施したり着替えさせるなど長期間妻の遺骸と暮らすという事例が時折明らかになることがあります。 著者は蝶の標本づくりと妻の遺骸を防腐処理して一緒に暮らす行為にも象徴的かつ隠喩的な共通点があると思っています。 そこで蝶の標本づくりを脳内写生(脳の中に白いスクリーンを広げ、そのスクリーンにオリジナルかつリアルな官能的ファンタジーを思い切り投影する方法:「飾り窓の天使」のHP参照)によって「監禁と飼育」に置き換えてみましょう。 まず若くて美しい理想的な女性を脳裏に思い描いてください(もちろん女性が男性を思い描いてもかまいません)その際、女性の細やかな表情や服装・声色・髪型・髪の色・出会いのシュチエーションなどなるべく細部までリアルに想像してください。 そしてその女性を独占したい、離したくない、いつも一緒にいたい、美しい彼女をずっと眺めていたい、と深く思い詰めてください。 神々しいまでの完璧な裸身・胸がキュンと絞めつけられるような官能的な仕草・透き通るような柔肌・乱れた髪の毛・豊かな乳房・柔らかな唇・手を触れると壊れてしまいそうな細い手指・怪しく濡れて光輝く瞳・まるで羽根を広げた蝶のように広がる下着や寝衣。 (妄想はリアルであればあるほど純度が高くなり圧力が強まります) さらにそのすべてを独占するために彼女に太い鎖が付いた鉄の首輪をはめ、その鎖の一端を床にボルトで固定します。 あるいは強化ガラスで囲まれた小部屋を用意しますか? それともやや陳腐ですが、鉄格子の小部屋中ですか? 彼女に与えられる食料はほんのわずかな水と聖液だけ・・・汗と聖液にまみれた彼女の身体を優しく洗うのもいいでしょう。 女性の読者から見たら監禁と飼育は恐怖でしかないと思います。 でも大衆にとって究極の愛とは相手を殺してでも独占したいと思い詰めることなのです。 そしてその女性を蝶の標本のように美しい「はりつけ」にして保存する・・・ こうした監禁と飼育・標本化は一般男性のごく純粋な恋情表現であり、実はこうした男性の欲望をすでに商品化した女性が出現しています。 この女性は自ら監禁と飼育の条件を検討したうえで「お金がもらえるのであれば監禁・飼育・調教を受け入れてもいい」と掲示板に書いています。 しかし、できれば金銭が介在しないで、合意のうえで監禁・飼育・調教したいと切望する男性と、暴力と恐怖心で女性を監禁・飼育・調教したいと切望する男性がいるはずです。 いずれにせよ、監禁・飼育は奥深い性愛のテーマなのです。 アニメ・オタク文化からの恫喝 2006-08-10 22:45:57 このブログの読者は6月4日の時点で53名(IPアドレスの数)でした。 それが最近120余のIPアドレスに増加しています。 ブログには編集と管理用の専用ページがあり、個々の氏名やアドレスは判りませんが毎日のアクセス数やページの閲覧状況が把握できるようになっています。 このブログを開設したとき、著者は「判る人にわかればいい、判らない人には判らなくていい、大衆がけっして入ることができない例外者や至高性の領域を語るためにはハードルを下げるわけにはいかない、ほんの一握りの人物に伝わればいいのだ」と決意していました。 もちろん上記読者のなかには興味半分・冷やかし半分・監視目的の人もいるはずです。 しかしどう考えても50名以上の寡黙で熱心な読者がいることになるのです。 実は例外者の系譜をたどって見ると火刑される以前の15年間のジル・ド・レ(ジャンヌダルクの影の指揮官)・切り裂きジャック(100年前にイギリスで起きた連続切り裂き魔未解決事件)・サド・ニーチェ・バタイユ・比叡山を焼き討ちした頃の信長・盾の会結成以前の三島由紀夫など「例外者として至高性に到達した人物」は10指にも満たない人数に限られます。 それもこれらの人物は過去400〜500年の間に登場して「例外者としてのメッセージを残した人物」だけなので、沈黙したままこの世を去った例外者はもう少し多かったかもしれません。 しかし例外者は大衆社会にとって「やっかいな存在」であり、上記の例外者はいずれも処刑されたり、発狂したり、投獄されたり、誤解されたまま死ぬなど災難続きの人生であり、人生を「まっとうした人物」は皆無と言うべき生涯を送っています。 このため単純に計算すると例外者はおよそ100年に一人くらいの確立で登場し、大衆社会を混乱させたことになります。 したがってこのブログの沈黙せる50名以上の読者は、著者からみると「これでも多すぎる」という状況なのです・・・ でも本物の例外者は安心してください。インターネットとこのブログを活用すれば大衆社会から攻撃されることなく、また犯罪者に落ちこぼれることなく安全な「アジール」(避難所)に身を寄せることができます。 「飾り窓の天使」という店舗は、その領域の入口であり、暗闇に怪しく光を放つある種の「誘蛾灯」なのです。 もし大衆が「アジール」に紛れ込もうとしたら誘蛾灯はたちまち大衆を溺れさせるでしょう。 でも本物の例外者であればやすやすと通過できるはずです。 なにしろ「とびきり魅力的な魔女」がにこやかに待ち構えていますから。 ところで大衆社会から「飾り窓の天使」やこのブログが注目されるようになると、思いがけないところから妨害するものが現れてきました。 著者は6月5日のブログ「官能領域の自己拡張」のなかで「『オタク』と呼ばれる人たちがいます。著者から見ると彼らも他者によって企画され、商品化された物欲や性欲・官能にふりまわされたあわれな人たちにすぎません。現代は、他者によって企画され商品化されたエロティシズムが氾濫しすぎていて、自己の固有の純粋な性欲が衰退・退化してしまっています。実は、これほど快楽をめぐる情報があふれていても、大衆がけっして立ち入ることのできない私秘的が領域があるのです」と記述し、さらに「他者によって企画され商品化された性欲に・・・振り回されたあわれな人たち」とオタク世代を一刀両断しました。 ところがまさに性欲を商品化し、それらに振り回されたあわれな人たちを顧客として囲い込むことで急成長してきたアニメ・オタク文化の仕掛け人でもある某大手企業がこの指摘に憤慨し、「飾り窓の天使」の業務である街頭でのチラシの配布の停止や、ホームページにおける記述の削除等を求める威圧的要求を有名弁護士弁理士事務所を通じて「飾り窓の天使」の本社宛てに内容証明郵便で送って来たそうです。 調べてみるとこの会社はアニメやDVD等を販売する店舗が全国に36件もあり、「飾り窓の天使」がある福岡市天神地区にもその支店がありました。 実はこの会社の要求は、表向きは「アニメ○ト」というネーミングを使うなというものなのですが、むしろ真の狙いは「性欲の商品化」を鋭く批判する「飾り窓の天使」と、「他者によって企画され商品化された性欲に振り回されたあわれな人たち」とオタク世代を一刀両断したこのブログを叩き潰すことにあることは歴然としています。 それほど「飾り窓の天使」と、このブログは大衆オタク文化の根底を揺るがしかねないメッセージを連発しているのあり、そこには計り知れないインパクトがあったことを裏付けています。 もちろん「飾り窓の天使」の業務とこのブログは今後も活動を継続しますが、某大手企業の横暴ともいえる公然たる業務妨害および憲法が保障する「信教の自由」および「表現の自由」に対する不当弾圧に対して「飾り窓の天使」と著者はあくまでも毅然とした対応を貫く覚悟です。 言論弾圧には、マスメディアにおける「議論」と知的レベルの高い言論人による「ツブテ」の応酬が一番です。 これからは時々この話題もブログに取り上げる予定ですので、読者の皆さんもどうかこの某大手企業の動向に注目していてください。 蟻と象の戦い? 2006-08-12 00:03:30 「はるひ」さんコメントありがとう。「蟻の会社が象の会社とどう戦うのか」? もちろん詳細な戦略は公表できませんし、それはこのブログで言えることではありません。 しかしかつて北ベトナムという小国が、巨額な戦費を投入していたアメリカを撤退させた例もあり、アフガニスタンではロシアが同様に惨敗しています。 たとえば巨大な象も、耳の周りをうるさく飛び回る蜂やハエを叩き落す「すべ」がありません。 また一部の掲示板を覗いてみると、象の会社はいろいろの問題を抱えているようです。 もし言論弾圧騒動が拡大したとき、どちらの会社の知名度が上がるか考えてみてください。 大仰な弁護団を編成し、組織の巨大さと資金力を背景に横暴な要求を突きつけ、ちっぽけな会社を捻りつぶそうとする構図は、大衆やマスコミが好む題材であり、判官びいきという言葉があるように大衆社会では弱者であるほうが戦いやすいのです。 なにしろ大衆社会の仕組みそのものが弱者に有利にできているのです。 また万が一敗訴してもこちらには失うものがほとんどありません。 おそらくこれが最大の強みでしょう。 さらに利益のためならアダルトDVDやエロ・ゲームまでオンライン通販している大企業グループの実態と、福岡の小学校の正門前に店舗を持つ公序良俗に反したことがない堅実なミニ企業と、どちらが「まっとうな商売」なのか多くの人に議論してもらうことで、蟻の会社は注目され逆に象の会社はキズ付くはずです。 なにしろアニメ・オタク世代にマトを絞って事業を特化してきた企業にとって、アニメ・オタク世代を「他者によって企画された性欲に振り回された、あわれな世代」と公然と批判されたことは、その大企業の存立基盤を揺るがしかねない大問題なのです。 象の会社のなりふり構わぬ横暴さの真の動機も、このあたりにあるのではありませんか? まだ戦いのゴングすら鳴っていないのに、この件について関心を抱いてくださって本当にありがとうございました。 嘘でもいいから・・・ 2006-08-13 01:39:32 数ヶ月前、元AV女優黒木香さんが結婚後の近況を雑誌に報じられプライバシー侵害されたとして、出版社等に損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こし、220万円の賠償を命じる勝訴判決を受けたという報道がありました。 判決によると「黒木さんは一般人として生活しており、女優当時の私的な事柄の公表を望む理由は見当たらない。かつて女優だったからといって、包括的にプライバシーを放棄したとは認められない」と出版社等に賠償を命じています。 この記事を見たとき、著者は黒木香さんについては「脇毛のAV女優」とか、村西とおる監督による一連のアダルトビデオ出演し、さらにはNHKのある番組の対談に出演したり、さらに「朝まで生TV」で数々の大胆発言をした女性としての記憶がよみがえりました。 特にある対談の中で彼女は「異質なものを故意に脳の中でシャッフルする」というニュアンスの発言をしたことがありました。 この発言こそ彼女が一時的に例外者のレベルに近づいていたことを物語る重要な手がかりなのですが、その後彼女の自殺未遂が報じられたりして、遂には大衆の前から姿を消してしまいました。 彼女はまさに他者(村西監督)が企画した「アダルトビデオ」という商品化された性欲に加担し、これを大衆に広める側にいた人物であったのですが、その人物が自己のオリジナルな性欲に気付き、それを語りだしたまさにその瞬間、彼女は大衆社会から隠遁してしまったのです。 著者からみると黒木香さんという人物はあの時点で例外者のレベルに到達し、さらにそこから官能的快楽の純度を高めることで、至高性という領域に到達した人物なのか、そうでないのか、とても気になる存在なのです。 もし純度の高いオリジナルな性欲や高いレベルの官能的快楽を、他者に利用させたり商品化しようとすると、すぐさま不純物が混入して一気に堕落してしまいます。 黒木香さんはいったい、どのレベルまで到達したのでしょうか?著者はとても興味を抱いています・・・ そして著者はこのような興味深い人物に出会ったとき、いつも相手の方に「嘘でもいいから本当のことを言ってごらん」と「そそのかす」ことにしています。 「本当のこと」や「真実」など例外者にとってどうでもいいことなのであり、官能的快楽やファンタジーの世界では、フィクションやノイズ・とりとめのない断片的なイメージ・妄想などの中にしか鮮明な至高性は現れないからです。 (実は「さとり」「解脱」「啓示」「預言」などの「聖なるもの」の正体は、まさにこの至高性のなかにあります)読者の皆さんもぜひ「異質なものを故意に脳の中でシャッフルする」ことを練習してみてください。 下着泥棒について 2006-08-14 01:08:07 12,000点の女性の下着を盗み屋根裏部屋に隠していた男が最近逮捕されたそうです。 あまり詳しく解説するとブログが下品になりかねませんし、著者が「下着ドロボー」の趣味があると思われる危惧もあります。 しかし性愛懐疑派として避けて通れない興味深いテーマでもあるので、知的に格調高く(?)論じてみたいと思います。 まず下着ドロボーの特徴と動機を考察してみましょう。 1.下着ボロボーは女性の下着という「女性器の代用品」に囚われたフェティシズムである。 2.下着ボロボーは泥棒であり、盗癖という「こころの病」にも深く関係している。 3.女性の下着を集めるということはある種のコレクターであり、「収集癖」(切手の蒐集やごみ屋敷の主など)のひとつでもある。 4.女性の下着は女性が「見られたくない」と感じているものであることから、ある種の「覗き趣味」という要素もある。 5.女性の下着を盗むことで下着ドロボーは女性の性器を想像し、その妄想でマスターベーションするのであれば、この過程は直接性交することなく自己の性欲を昇華せ、バーチャルな世界で性欲を発散させるという多少高度な官能的快楽の手法と解釈することができ、ここから下着ドロボー固有のマニアックなプライドが生じる可能性がある。 6.女性の下着というモノを盗むスリル、たとえば万引きのようなスリリングな興奮や、狙った獲物を追うハンターのような高揚感が得られる。 7.女性の下着にまつわる「匂い」「汚れ」などの関する匂いフェチや汚物嗜好の混在。 8.女性の下着は女性器のラッピングであり、中身の価値を高めたり、「もったいぶる」ための包装紙でもある。このため中身よりも包装紙の方に価値感が移行する可能性があり、たとえば若い女性が高級ブランドの紙袋に別のものを容れて大切そうに持ち歩く心理に似たブランド神話とか包装紙神話(同じ洗剤でも有名百貨店の包装紙に包んだほうが「アリガタク」思えるなど)と隣接した心理世界が含まれる。 つまり女性の読者にとっては、はなはだ「おぞましい」ことなのですが、女性の下着は下着ボロボーにとって実に魅力的な要素がふんだんに含まれているのであり、その潜在的な需要の多さに対して女性が無防備すぎることが自体を悪化させているのではないかと思います。 女性の読者の皆さん、どうかくれぐれも下着ドロボーにはご注意ください・・・ と、ここまでは恰好いいのですが、しかし実はここで困ったパラドックスに突き当たるのです。 女性が下着を盗まれないように注意すればするほど、つまり禁じられたものは禁じられるほど「怪しい魅力」をもって輝きだすのであり、下着ドロボーが防犯グッズの普及等により、盗みにくくなればなるほど「怪しい魅力」をもって輝きだすのであり、下着を盗みたくなる可能性が高まるのです。 たとえば10年前に比べて公立小中学校の教諭によるワイセツ事件が2倍に増加しているという事実があります。 教師によるワイセツ事件が続発したため、見せしめ的に懲戒処分され、さらに性犯罪者が出所したら地域のコミュニティー全体で監視しようという意識(メーガン法)が高まり、さらに防犯カメラをいたるところに取り付け監視しようとしているというのに、事件は逆に増加しているのです。 そう考えると大衆社会において下着ドロボーを減少させるためには、かつてオランダがアムステルダムで麻薬撲滅のために、あえて市当局が無料で麻薬を麻薬常習者に配ることでエイズの蔓延を食い止め、麻薬組織を壊滅させ、麻薬常習者を減少させたように、女性が安心して下着をベランダに干せるようにするためには、下着ドロボーを封じ込めるのではなく、NPOが希望する成人男性には好みの女性の下着を無料で配布したり、欲しい下着を盗みやすくするという「お手伝い」を行う必要があるかもしれません。 (今回はこんなネタで脳内写生をしてみました。女性の読者の皆さんには顰蹙を買うかもしれませんが、少しは読者の脳がマッサージされ、脳の凝りが解消されると幸いです) なお下着ドロボーに関しては「sexual crime 下着泥棒」というキワードでネット検索してみてください。 面白いといったら不謹慎ですが、興味は尽きません・・・ でも下着を盗んだり、覗きをするよりも「飾り窓の天使」でたっぷり目の保養をすることをお進めします。 エロティック・ファンタジーの探究 :空山 基氏 2006-08-15 00:01:44 秘美さんから 「嘘でもいいから本当のことを言ってごらん」とは、「恥ずかしい事、言いにくい事でも嘘のように話すのかしら・・・それができたら心は楽だわね・・・」というコメントをいただきました。 この「嘘でもいいから本当のことを言ってごらん」というブログの言葉に反応した方は他にも何人かいて、直接著者にその意味を確認してきた人物もおりました。 でもこれは禅問答のように直感的に把握して欲しいメッセージなので、ひとつだけヒントをさしあげます。 大衆的道徳規範のもとでは「嘘をついてはいけない」と思い込まされていますが、大衆が好む小説やドラマ・映画・お芝居・宗教等はフィクションであり、端的に言えばすべて「うそ」なのです。しかし大衆はそのストーリーに感動して泣いたり笑ったりしながら、日常生活では体験できない「なにか大切なこと」を心のなかに感じるのです。 この「日常生活では体験できないなにか大切なこと」は、どうしてもフィクションや雑音(ノイズ)を媒介しなければ他者に真意が伝わらないという特徴があります。 「嘘でもいいから本当のことを言ってごらん」という言葉には、例外者にしか判らない重要なメッセージが込められていますので、これ以上ハードルを下げて判りやすく説明することはできません。 あしからず m(_ _)m レモンさんからは「(下着泥棒のことを)想像したら、意外に感じるよ。下着泥棒は許さないけどさ。(私)の下着に燃える泥棒がどんな奴か(興味はある)。可愛い年下(の男)なら(いいな)とか、隣の家の素敵な旦那さんなら(いいな)とか・・・」というコメントが届きました。 そうでしたか・・・ 「下着泥棒は許さない!」と言いつつ、可愛い年下の男や隣の家の素敵な旦那さんだったら下着を盗んでも許せるかもしれない、その可能性があるのですね。 女性は下着泥棒に対してさえ情愛の念を抱けるのであれば、やっぱりレモンさんのような女性に「NPO法人下着泥棒支援協会」を設立していただきましょう! さて本題に入ります。実は8月5日のブログに「どうして『飾り窓の天使』にアニメのイラストやエロティックなフィギュアが置いてあるのですか?」と同店のキャストさんに聞かれたことを記述し、その回答として8月6日の2回目のブログで「オタクと呼ばれる文化とアニメ文化は曖昧な部分を想像力で補うという部分で共通性があり、さらにオタク文化とアニメ文化は、性愛の描写や表現の領域でもかなり重なり合う部分がある・・・脳内写生の入口である『飾り窓の天使』に、アニメのイラストやエロティックなフィギュアが置いてあるのは、こうしたファンタジーを誘発しやすくする意味があります」(要旨)と回答したのですが、著者はあれ以来アニメ以外の手段で「飾り窓の天使」のイメージを外部の方に伝える方法がないものかと繰り返し思案しておりました。 なぜなら8月3日のブログで「『飾り窓の天使』という店舗は、この世に出現した『ありえない世界・この世のものではない世界』(異次元の世界・天国・楽園・異界・魔界)なのであり、『飾り窓の天使』のキャストさんたちは『手に触れることができる四次元美少女』ともいうべき存在であって、彼女たちはむしろ(成熟したオトナの妖精や天使・天女というべき存在であると思います」と著者の見解をまとめていたからです。 その後あれこれネット検索をしているうちに偶然イラストレーターである空山 基(そらやま はじめ)氏の公式サイトにたどり着きました。 著者は以前、空山氏が海外で出版したメタリックなロボットをイメージした官能的的なイラストや肉感的なボンデージ(束縛・拘束の意味:性的興奮を得るための拘束行為もしくは拘束を行うための道具のこと)をテーマにした作品集を購入したことがありました。 今回久しぶりに同氏の公式サイトのギャラリーを拝見してみて、著者が求めている「成熟したオトナの妖精や天使のイメージ」(写真上:http://www.tssplaza.co.jp/sakuhinsha/book/geijyutsu-etc/gazou/naga5.jpgより引用・参照)や、著者の脳内写生に出現する「この世のものではない官能的快楽のパートナー」に類似したイラストもあり、少々びっくりしました。 ちなみに空山 基氏は1969年中央美術学園卒業、最近では「アイボ」のデザインでも有名です。また「空山 基作品集:ガイノイド/ザ・ストレージ・ボックス」(トレヴィル刊)のなかに以下のような「あとがき」があります。(要旨) 「20世紀は良かれ悪しかれエロティックな視覚表現が大きな変容を迫られた時代だった。マス・メディアの普及による地球規模の性情報の氾濫は、エロスをある種の偏見やタブーから解放し表現活動に自由を与えたが、多くの場合、それらはあまりにも日常的で俗悪な消費財と化しそのオーラを喪失していった。エロスは今日ほとんどポルノと同義語かジャンクフードのような扱いを受けており、もはや創造性も未来の可能性も期待されてはいないように思われる。 さらにヒト・ゲノムの解読によって・・・エロティックなイマジネーションを排除してしまう危険性すらある。果たしてそれはエロスの観念化への道を開くのか、衰退を促すのか。にもかかわらず、私が目指すのはエロスの失地回復である。ポルノグラフィが持つ実験的側面や性倒錯が孕む精神活動の深淵、アングラ・カルチャーに内在する革新性を汲み上げながら、それらを精製し再構築することで、以前とはまったく次元の異なった21世紀のエロティック・ファンタジーを探究すること・・・。 (そのために)異形の女性像・超女性の探求こそ「女モドキ」を意味する「ガイノイド」が目指すものとなったのである。動物、昆虫、様々な機械や工業用マテリアル、ビザールなコスチュームやSM小道具等々。 イノベーティヴな官能性と既存の類型に属さない未知なる人造美女の創造のために、容赦なく異素材が身体に組み入れられ、加工される。 こうしたコラージュの作業は私にとってラジカルなまったく新しいエキゾチズム発見の旅でもあった。 (以下略) できれば空山 基氏の承諾をいただき、今後はこれらのイラストを「飾り窓の天使」のギャラリーに展示したいと考えています。 ニート・フリーター対策 2006-08-16 00:32:29 厚生労働省は働きたがらない若者(64万人)や定職に就きたがらない若者(200万人)いわゆる「ニート・フリーター世代」のための対策をあれこれ実施しています。また文部科学省の調査では小中高生の30日以上の不登校生徒数が全国で12万人以上と発表しています。 また各省庁はそれぞれニート・フリーター対策を打ち出していますが、いまだ解決策となる政策や制度が定着しておりません。 この結果20代30代の就職希望者が履歴書を書こうとすると学歴の欄が「高校中退・専門学校中退・大学中退」とならざるを得ず、さらに職歴の欄も「○○○にてアルバイト・△△△にてパート就労・□□□にて派遣勤務」といった経歴になってしまいます。 実は会社の経営側から見ると、学歴が中途半端だと将来職務上必要な公的資格を取得することが困難であると判断しますし、仕事が転々としていると「はたしてわが社で腰を据えて働いてくれるのだろか・・・」と不信感を抱くことになります。 そして、こうした瑕疵がニート・フリーター世代の就業率を悪くしているのです。 今年4月に福岡市中央区大名にオープンした「飾り窓の天使」と言うフット・リフレクソロジーのお店は、上記のような経歴を持つ女性でも容易に定職に就くことができ、特別な技術や才能・経験がなくても3ヶ月の実習研修期間を経ると本人が希望すれば雇用契約を締結して正式な社員として働くことができるシステムになっています。 さらに汚れる仕事や危険な仕事・辛い仕事はさせない、フット・リフレクソロジーの仕事であっても腰痛や腱鞘炎にならないようなソフトなボディタッチを取り入れるなど「働きやすい・定着しやすい・安定した収入を得やすい職場を提供すること」を通じて女性の自立を応援することを経営理念にしています(オープンの際の挨拶文より引用)。 しかし、特技や充分な経験がない若い女性がいきなりフット・リフレクソロジーのお店に勤めても、あるいはこのような経験がない女性を集めてフット・リフレクソロジーのお店をオープンさせても目立ちませんし、お客様も来てくれません。 そこで同店の店長JunJunさんや他のブレーンとオーナーがディスカッションを重ねた結果、「コスプレ」と新たに考案した「ファンタジー気功」という未知の誰もが経験しえない療術法を考え出し、さらに話題づくりのために著者に対して「どこにもない異質なブログ」をHPの中に開設するよう協力要請がありました。 以上が「飾り窓の天使」店の開業と、このブログの公開に至る経緯です。 「飾り窓の天使」は民間企業が開設し、運営する店舗ですが、金儲けだが目的ではなく、あくまでも「行政まかせではない、女性の自立の応援」が第一の目的であり、この前代未聞の店舗で得た経験を生かして、将来全国に同様の店舗をFC展開することで行政が解決できないことを民間企業として担いたい、そして「そこに新たなビジネスチャンスがあるのではないか」と同店の関係者は期待しているそうです。 (マスメディア向け広報資料より引用)。 福岡県および福岡市・九州地区の雇用問題に関わる行政官もしくは企業経営者で、「ニート・フリーター問題」や「女性の自立支援」に関心をお持ちの方はぜひ一度「飾り窓の天使」という実験的フィールドを視察してみてください。 また上記の地区にお住まいの皆さんの「飾り窓の天使」で働くキャストさんに対するご支援・ご理解をこのブログを通じてお願い申し上げます。 なお、「飾り窓の天使」の真向かいにある「大名小学校」の校長・教頭両先生(共に女性です)、並びに教諭の皆さん、PTAの皆さん、開店以来本当に冷静に対処してくださり、関係者一同深く感謝しております。 この場を借りて「飾り窓の天使」のスタッフになり代わり、関係各位の皆様に厚く御礼申し上げます。 m(_ _)m 女性の特権 ヒモと玉の輿 2006-08-17 01:31:52 「ニート・フリーター対策」のブログについて「店の内容もわからないが、自立の応援・支援などさらにわからない。どう進むのか観察します」というコメントと、「赤字経営なのに応援、支援できるの?」と言うふたつのコメントをいただきました。 「飾り窓の天使」を単独の事業と見れば確かにまだ赤字です。しかしこの店舗は企業グループの中の一事業部ですので女性やニート世代への継続的支援・応援は可能です。 またイラストレーター「空山 基氏」のエロティック・ファンタジーに関して「展示してほしい」というご要望がありました。 ぜひ同氏の承諾を得て、ギャラリーを併設したいと思っています。 さて本日のテーマです。 いわゆるヒモと呼ばれる男性が増えており、ヒモであることを副業としている男性も増加しているそうです。 確かに「ニート・フリーター世代」が増え、働かずに楽をしようとすれば女性に寄生してヒモになることも男性の選択肢のひとつであることは容易に推測できます。 テレビの受け売りですが・・・若い男性のなかには、ホストをめざして本気で修行する人もいるそうです。ホストをめざす男性も以下のテーマを是非一読してみてください。男女を入れ替えて読むと判りやすいと思います。 「飾り窓の天使」は「男の世話にならない生き方」「女性の自立」を応援する民間プロジェクトですが、今回はこのブログを通じてあえて男に養ってもらう女性について論じてみます。 ただし著者は安易な寄生関係、棚ボタ式玉の輿を賞賛するものではありません。 性愛懐疑派は「愛と恋と性別に依存しない親密な関係」を例外者の理想的なパートナーとして定義していますが、このブログでは自立だけを論じたのでは、片手落ちになると考え、あえて女性の「公然たる迷惑のかけ方」や「大胆な依存の仕方」についても著者の見解を述べておきます。 かつて著者のパートナーであった女性は、特に「生意気」という訳ではないのですが気高くて、まるでペルシャ猫のように気品があり、たとえ男性と同居していても決して男性に「なびかない人」でした。 そしてその凛とした姿勢が、その女性のとてつもない魅力になっていたのです。 たとえば映画「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンが演じた主人公が、参考になるかもしれません。 「可愛い」ことは悪いことではありません。 「女らしさ」を表に出すことを嫌う女性もおりますが、「ローマの休日」の主人公のように思わず男性が手を差し伸べたくなる「かわいらしさ」や「美しさ」は天性の魅力であり、ある種の武器にもなります。 つまり女性は「女の特権」を放棄してはならないのです。 オシャレを楽しむこと・甘ったれること・天性の無責任さ・自由奔放のわがままさ・無邪気な依存心・とろけるような優しさ・でも深く愛し合ったかと思うと、次の瞬間冷酷な鋭い爪で襲いかかって来る・・・ まるで猫の眼のように気まぐれで、それでいて憎めない女性、しかも困った事態に直面すると彼女はさっさと逃げ出し男に平然と尻拭いさせ、しかも悪びれることもありません。 このような女性にめぐりあった男性は完全に「お手上げ」状態になります。 女性の読者の皆さん、どうか自分を安売りしないでください。 才能があり素晴らしい女性が、どうしてこんなつまらない男に関わっているのかと思うようなカップルに著者はよく出会うからです。 さて突然ですが、ここで著者から女性の読者に貴重なプレゼントをいたします。 「わがままに生きたいけど、世の中自分の思い通りにならない・・・」多くの女性はそう考えています、確かにその通りです。 しかし男性は上記のような不思議な魅力を持つ女性にめぐりあうと、混乱してしまいほぼ女性の意のままになってしまいます。 当時の著者にはまだ「ダブルバインド」という知識がなかったため、その女性に恋をしながら彼女に振り回される毎日でしたが、ずっと後になってダブルバインド(double bind theory:二重拘束)とは、このことなのかと愕然としたことがありました。 このダブルバインドは、家族内で生じるコミュニケーションの類型のひとつであり、2人以上の人間の間で相矛盾する否定的な命令が繰り返し出され、しかもその矛盾する状況から逃げ出せないような狭い世界が両者の間に成立する状態をいいます。 たとえば「あなたを愛している」と女性も言い、パートナーである男性も「すごく愛している」という関係のなかで、突然女性が気まぐれに他の男と夜遊びに出かけてしまったとします。 すると残された男性は「愛されている」のに「嫌われた」という矛盾した状況に放り出され、しかも泥酔して朝帰りした彼女が「どうして昨夜、夜遊びを止めてくれなかったのか」と泣き崩れます。 ところがその夜また彼女が夜遊びに出かけようとするので男性が彼女を引きとめようとすると、今度は「愛しているけど束縛しないで欲しい」と怒り出します・・・ 実はこうした矛盾した状況が何ヶ月も続くと男性はボロボロになり、ある種のパニックに陥り、完全に無抵抗状態になります。 危険ですから安易に模倣することは避けるべきですが、女性は「女の特権」を活用しつつ、ダブルバインドを活用すると男性に対して公然たる暴君となることや、大胆な寄生が可能となるのです。 ただの「玉の輿」よりスリリングだと思いませんか? 男を喰い物にする仕組み 2006-08-18 00:50:03 激励のコメントをいただきましたので紹介させていただきます。 「あなたの書く文章、ほんとに面白いですね。毎日楽しく読ませてもらってます。これからもがんばって下さい」 「実話ほどおもろいもんないわ」このように著者の難解な文章や、揶揄(「やゆ」ではなく、大衆社会を「オチョクッテル」と言われているようですが)もしくは隠喩を楽しんで読んでくださるとは、このブログの読者のレベルは本当に高いのですね。 これからもこの知的ハードルを維持しながら、様々なテーマを論じて行きたいと思います。 ただ、その時々の事件やレアな話題は極力避けさせていただきます。 レアな話題は「ナマモノ」だけに変質しやすいからです。 もうひとつ、ある読者から「このブログの読者にとって脇道でしかないコメント」を何度かいただいています。 たとえば今回は「企業グループの中の一事業部って靴屋さん?」という質問がそれです。 「飾り窓の天使」は、民間で女性の自立支援を試みようとするささやかな事業であり、その事業を縁の下で支えてくれる企業グループが存在します。 またその中には高齢社会に必要な歩行用具を開発している法人等も存在しますが、いわゆる「街の靴屋さん」ではありません。 なお著者とその企業グループは別の人格ですし、このブログは何度か前置きしたように「性愛懐疑派と例外者のための専用サロン」です ので、この目的にそぐわないコメントや「脇道」の質問は他の読者の「めざわり」となりますので、今後一切回答せず、削除いたします。 また、昨日のブログを読み返したところ、細部に手直ししたい部分がありましたので、本日一部加筆訂正しました。 -------------------------------------------------------- 「女性の特権」について論じたところ、「あれは私のことなの?」とか「あれは誰のこと?」「私が知ってる女性ですか?」等々様々な問い合わせがありました。 著者にも大切な思い出がありますので、あまり詳しく特定しないほうが、平和(?)かもしれませんし、どこまでが事実でどこまでがフィクションなのか判然としないほうが解釈が多様化し、事例として当てはまりやすいというメリットもあります。 さて著者が「女性の特権」について論じたのは、歴史的に見ると世界中に「女性が男性を喰い物にする仕組み」が存在することを改めて強調したかったからです。 たとえばわが国にはかつて「花柳界」があり、芸者さん・芸妓さん・舞妓さんが所属する「置屋・御茶屋・検番」というシステムを総称して「三業地」と呼んでいた時代がありました。 このシステムはあきらかに「弱い女性たちが結託して男性を喰い物にする仕組み」なのであり、ひとたび「ごひいきさん」として認められると、事あるごとに金品をむしりとられているのに、当人は「旦那さん」として「三業地」の中では丁重に扱われるというパラドクスが見られました。 つまり鷹揚に金品を浪費して見せることが、ある種のステータスであったのです。 同様に欧米にも、たとえば「マダム○○の館」と呼ばれるような高級娼婦のサロンがあり、「女性たちが結託して男性を喰い物にする仕組み」が厳然と存在していました。 欧米では貴族が美形の高級娼婦に入れ込み、大金を費やして愛人にして近隣諸国に別荘を買い、さらにその国の社交界に愛人を貴婦人としてデビューさせることが最高の道楽とみなされた時代もありました。 念のため申し上げますが、著者は男性としてこうしたシステムを断罪するつもりはありません。 むしろ女性たちが協力しあって「合法的に男性を喰い物にする仕組み」を復活させ、こうしたシステムを活用することで女性の自立支援に役立てることができるのではないかと考えています。 6月22日のブログで「女性は『生身の価値ある財産』であり『劇性通貨』(ドラマティックなマネー)と定義することができます」と記述し、「飾り窓の天使」が「劇性通貨」をまとめてある種の模擬証券を発行し、さらにフィクションとしての証券市場を創設し、毎月一定の比率で値上がりするようにしたいと提案しました。 ちなみに、この模擬証券の投資対象は「飾り窓の天使」のキャストさんたちであり、投資家はコスチュームでラッピングされ、次第に美しく磨かれていく若いキャストさんの将来性に期待して「模擬証券」を購入します。 そしてインサイダー取引をフィクションのなかで公認してしまうことで、だれも損をしない、だれもだまされない先物取引を完成させます。 これはあくまでも私案であり賛否両論あると思いますが、大事な点は、男性はいつになっても女性に対して幻想を抱いているという事実なのです。 株式や債券が値上がりすると思い込むのはある種の幻想なのであり、眼に見えない「含み資産」や「企業の将来性」に金銭を賭けているにすぎません。 女性たちは男性が抱く幻想を打ち壊すのではなく、女体をめぐる男たちのメルヘンやファンタジーをむしろ膨らましつつ、恥じらいや慎しみ深さ・優しさ・女らしい潤いなどで男性たちを幻惑・眩惑させ続けるという「ソフトな悪女の戦略」にぜひ気付いて欲しいと願っています。 ただし、悲しいことに軽薄なギャルは増えていても、オトナのオンナの品質が確実に低下していることもまた事実なのです。 「飾り窓の天使」は質の高いオトナのオンナの育成にも尽力しております。 フェミニズム考 2006-08-19 00:53:42 「蹂躙さん」から「素晴らしい・・・貴殿の思考力には驚きました。あとほんの少しの努力で貴殿は人類の少数しか得られない至高の魂を得られます。ぜひ貴殿の魂を成長させたい。興味があったら当方のセミナーに参加しませんか?ほんの暇つぶし程度のつもりで結構です。ほとんどもう席は残っていませんが貴殿のためならご用意致します」とのコメントをいただきました。 「至高の魂が得られる」というお誘い、ありがとうございます。 しかしそのような重要なセミナーに「暇つぶし程度のつもり」で参加することは到底できません。 実は性愛懐疑派の最後の生き残りとして愛や恋を懐疑し、さらに大衆が信奉してやまない道徳・宗教・常識・民主主義・ヒューマニズム等にもとらわれない「例外者」のための「アジール」という世界を確立し、そこで純度の高いオリジナルな官能的快楽の圧力を高め、その爆発的エネルギーを活用して神仏抜きの至高性(ある種の解脱・ある種の天国)を目指してきた著者には、様々な分野からの様々なお誘いがあり、講演依頼やセミナー等の開催の要請も来ております。 ただし、大衆的な思想・言説にはまったく関心がありませんので、これまではべてお断りしている次第です。 余談ですが著者に対して敵意を抱く宗教家や政治団体の構成員、あるいは著者から見ると「言われなき妬み」を抱き続ける個人、ストーカーまがいの偏執的人物、もしくはプロの観察者(学術目的・治安目的・報道目的等)、あるいは著者を利用しようとする「やから」等、著者は本当に多様な「とりまき」に囲まれており、著者のスタンスが大衆によって「蹂躙」されかねない立場にありますので慎重に行動せざるを得ません。 もしそれほど魅力あるセミナーが実在するのであれば、資料と案内状を「飾り窓の天使」あてにメール・封書・FAX等でお送りください、お待ちしております。 インターネットの世界はウィルスメールを例にするまでもなく、「物陰に隠れて石を投げつけること」がたやすくできる仕組みが備わっています。 したがってブログでこのようなスリリングな言説を3ヶ月も公開していると、読者の皆さんの気付かない部分で様々な妨害や中傷が渦を巻き始めます。 それでもなお「判る人に判ればいい、判らない人には判らなくていい、誤解されることは名誉なことだ」とリスク覚悟で確信をもって主張を貫くからには、著者は始めからそれ相応の覚悟と不屈の闘志を抱いているのです。 ちなみに著者が受ける一番多い質問は「男性であるあなたが、なぜ女性の自立支援を熱心に行うのか」と言うものです。 女性にモテるから?女性をだまして安くコキ使えるから?女性を金儲けのネタに使えるから?昔、女性にひどいことをした罪滅ぼし?(苦笑) では真面目にお答えしましょう。 田島陽子さんの立場は要するに「男社会は女性の敵!」であり「男は女を搾取している」というものなのですが、著者の考えは違います。 フェミニズムには二つの方向があり、男性を常に敵視するグループと、ごく少数ですが「男性は女性自主自立の応援団に徹することで、女性と手を組んでフェミニズムを推進できる」と考える立場があります。 しかしこの立場は多くのフェミニストから「それは真のフェミニズムではない」と批判されてきましたが、実は後者のシステムのほうが実際に女性が自主自立した実例が多いのです。 ではひとつだけ参考になるデーターを示します。 戦後、多くの労働組合がボーナスや賃金の引上げのための団体交渉、あるいは待遇改善を求めてのストライキや遵法闘争等を通じて、労働者の権利の擁護や拡大を進めて来ましたが、実はストライキなどまったくやらずに経営側と一致協力して合理化や生産性の向上に努めたほうが、労働者が受け取る報酬の総額等がより大きかったと主張する学説があります。どうやらフェミニズムにも同じことが言えるのではないでしょうか? なお、所要のため数日間このブログをお休みいたします。 必要な情報は向こうからやってくる 2006-08-21 23:58:54 まず出張中の出来事から整理しましょう。 ブログは毎日書かないと、てきめんにアクセス数が激減するということが良く判りました。 さあ、がんばって再開しましょう。不在中に頂いたコメントを紹介します。 「フェミニズムを推進するのは、報酬の総額等がより大きくなるから・・・つまり事業家なら儲かるから・・・政治家なら支持者数獲得や世論造りのため・・・こういう内幕を大衆に言っちゃうとヤバイんとちゃうかな。これまで色んな宗教が、これでつぶれたよ」 フェミニズムを推進して一番得をするのは女性です。高学歴で勤勉で責任ある仕事に就きたいと願う女性という人的資源を活用しないことは事業家としては落第です。 「こういう内幕を大衆に言っちゃうとヤバイんとちゃうかな」 いいえ、フェミニズムに関する出版物を見ると、こうした事実はすでに指摘されていることです。 ところでよく判らないのは「これまで色んな宗教が、これでつぶれたよ」というコメントです。 できればどこの教団が、どれだけの教団がフェミニズムを推進してつぶれたのでしょうか? 学術的に大変興味があることなので、ぜひ御教授ください。真剣に調査させていただき、このブログで読者の皆さんに報告したいと思います。 今回の出張で、何度か感じたことは「必要な情報は必ず向こうからやってくる」ということでした。 通常何か情報を得ようとすると、こちらが努力して情報を集めたり、集まった情報を分析すると言う作業が必要になるのですが、著者の場合例外者としての論説を調べたり、至高性に関する文献を探していると、必ず探していた資料があたかも自ら進んで現前したかのように著者の前に出現するという不思議な体験をしてきました。 今回も出張中であるにもかかわらず、偶然スイッチを入れたホテルのテレビで、最近気にかけていた話題が取り上げられていてびっくりしました。 しかも著者がもっとも意外だったのは、ローカル局の番組としては「ヒマネタ」にすぎない番組であるはずなのに、その解説が実に丁寧でゲストも適任者であったことです。 しかもその日、あるところで講演していると参加者がちょうどそのテーマに関する質問をしてきたのです。 そして著者がその質問に対して回答しているうちに、そのテーマにはもうひとつの側面が隠れていることに気付かされたのです・・・ かつて著者が例外者の系譜について調査していたとき、1冊の本を見つけるとその本の中に別の例外者のヒントが記述されていたり、本の末尾にある参考文献の中に見落としていた重要なキーワードが隠れていたなど、実は15年から20年におよぶ著者のライフワークのすべてが「いつも必要な情報は必ず向こうからやってくる」という状況の連続で、毎日資料の整理に追いまくられておりました。 ちなみに著者は超能力や霊能力を一切信じません。 奇跡はいくつもの偶然が重なり合った結果であり、災厄もいくつもの偶然が重なり合った結果にすぎません。 それを奇跡と捉えるのか、災厄と捉えるかは人間の解釈の違いなのです。 しかしあの長期間の不思議な体験だけは「隠れていた例外者の系譜」を発掘しようとする著者に「この世のものではない例外者」たちから日々プレゼントが届いたのだと思っています。 「例外者の系譜」に関してはすでに一部記述しましたが、後日改めてまとめて説明いたします。 コメントにお答えします。 2006-08-22 23:50:00 コメント? 【あなたの言ってることに矛盾を感じました。あなたのような「例外者」の存在も、ただの偶然にすぎないのでしたら、あなたの存在自体が、はかないものだから、信じても仕方ないですね。あと数ヶ月もするとあなたは、ただの人になってるかもしれないということでしょうか?偶然を意志のエネルギーで、あなたしか起こし得ない必然的奇跡に変えてるのがあなたなのではないでしょうか?それができる人は超越した存在なのです。凡人から見ると、まさに「例外者」です。もしそうなら、あなたを信じるばかりか、感謝の念や畏敬の念を感じてしまうのですが。もしあなたを信じてはいけないなら、あなたの言葉も信じることはできないし、あなたを目ざして修行することもできません。矛盾しています】 「懐疑すること」は大切ですが、少なくとも3つの視点からものごとを見つめてください。 著者は一度も著者を「信じて欲しい」とか「付いてきなさい」と言ったことはありません。 また「例外者」は確かに大衆の中から偶発的にドロップアウトした異質な人格ですが、著者の調査ではほぼ百年に一人の確率で「例外者」が登場し、大衆社会を混乱させ、大衆から見るとすべて「不幸」な生涯を終えるのであり、しかしそこには脈々たる系譜が残っています。 そして言うまでもなく例外者は常に大衆社会から排斥される宿命にありますので、当然大衆にとって「はかない存在」にすぎません(と言うよりは至高性は一瞬であり、そこに留まることはできませんし、至高性をめざすと覚悟した時点で「生き延びよう・生きて帰ろう」と思っておりません) また著者は奇跡を起こす者ではありません。むしろ大衆にとって「不条理を行使する」、神仏以上にコントロールしがたいある種の「悪魔」ないし無慈悲な独裁者と写るのではないでしょうか? 大衆の祈りなど一切通じませんから・・・ あえて申し上げます。 許可なく著者を信じてはなりません。許可なく著者を理解してはなりません。 また修行には、何ら意味がありません。 修行は修行という大衆的目的に従属しており、悟りや解脱の手段や道具にすぎないからです。 修行や苦行をしなければ到達しない信仰は「大衆のための阿片のような宗教」です。 もし著者の言説が矛盾していると感じるのであれば、もうこれ以上このブログを読まないでください。混乱するだけ無駄です。何度も言いますが「判らない人は判らなくていい」のです。 表面的にしか例外者を把握していない読者、安易に他者を信じていまい、あとで「だまされた」と騒ぐ読者はいずれも「懐疑」という知的な営みに「なじめない」人たちです。 著者は毎日このブログを見つめ、繰り返し「懐疑(こころの奥で深く考えること)」し続けている大勢の沈黙せる読者に向かって「ここまでおいで」挑発しているのです。 なぜそのようなことをするのか?とお尋ねであれば端的に申し上げます。 それは大衆の反感を買うためにです・・・。 このブログに紛れ込んできた読者が例外者としてふさわしいのか、そうでないのか、それを識別するためには暴言を吐き、あえて挑発することでどのような反応をするのか、その反応で読者の資質を問うことができるのです。 コメント? 【それじゃ、ニートって至高の例外者じゃんか、ニートのオレはうれしくなっちゃうな】 うん、よかったね(苦笑)、このようなコメントはこのブログでは「伝説的な質問・伝説的なコメント」として末永く保存することにしています。コメント本当にありがとうございました! ちなみに「至高の例外者」とは、ニートのことじゃないからね。 自殺について 2006-08-24 01:13:29 このところコメントが増えて肝心の「懐疑」がなかなか進みません・・・ でもコメントが二つ届きましたので回答します。 【貴方の事、信じようとした読者がいたなんて驚いた。「(深く)考えよう」と言いながら、読者に謎カケしてると思うよ。だから毎回面白いし役にたつのさ。私、貴方の事信じない】 実はこれが「懐疑」するということでもあるのです。懐疑しながら懐疑することを懐疑する・・・あなたには例外者の素養があるのかもしれません。 【何から生き延びるのか、何処から生き帰るのか、教えて下さいませ】 なるほど、これが把握できるか、できないか、実はそこが超えなければならない高いハードルでもあるのです。ですからあえて教えてあげません、でもヒントを差し上げましょう。 DNAの中には生き延びようとする遺伝子が組み込まれています。 この利己的な遺伝子の「生き延びようとする強い意志」を封じ込めてでも至高性を求めようと自己陶冶(じことうや:自己教育の可能性のこと)すること、そして至高性の領域に到達したら生きて帰ろうとしない覚悟と例外者の美学を貫くことです。 このブログは「暴言を吐くブログ」として読者が期待しているそうですので、「利己的な遺伝子の生き延びようとする強い意志」について、あえて「自殺」を例に説明しましょう。 仮に失恋・心中・絶望・鬱等の動機で「死にたい・死んでしまいたい・生きていたくない」と思い詰めたとします。 その際、人間は様々な理由を見つけて、必ず死を「ためらい」ます。 これが「利己的な遺伝子の生き延びようとする強い意志」なのであり、死を決意した瞬間から「死ぬな・生きろ・生きていたい」という本能的な生命の叫びが湧き上がってきます。 しかしその叫びは「死にたい人」の真の心の叫びではなく、人間を乗り物として利用してきたDNAの「生き延びたい」という利己的な叫びなのです。 したがってここで死ぬことを断念すれば、それは利己的な遺伝子に屈服したことになるのであり、それからあとの人生はDNAの容れもの・DNAの乗り物としての副次的人生であることになります。 例外者は「なにものにも従属しない」生き方を貫くわけですから、こうした状況ではDNAに従属するよりもあえて非従属を選ぶことになります。 「自殺者が増加している」「潜在的自殺希望者が20%以上」等、自殺に関する様々な情報がありますが、延命治療を拒否して尊厳死を選ぶ人がいるように、熟慮のうえで死にたい人は自ら死を選ぶ権利があるのであり、著者はいかなる理由にせよ死にたい人は他人に迷惑をかけない方法で一人で死ぬべきであると確信しています。 もともと自殺することで残された家族の心情や苦悩を思いやる能力がない人や、傷つきやすい人、ストレスに弱い人はおのずと淘汰されるのが自然界の原理であり、強い遺伝子の乗り物としてふさわしくない個体は滅びることで動植物は生きながらえて来たのです。 利己的な遺伝子に支配され、従属して生きるくらいなら、利己的遺伝子を強い意志でコントロールしつつ、「やりたいことをやり尽くし、自分らしく生き抜いた」という確信を抱けるのであれば、余命いくばくの最期を迎えた時、利己的遺伝子を自らの意志で断絶させるような「いさぎよさ」を著者は大切にしたいと思っています。 自殺について・続 2006-08-25 00:51:06 深刻なコメントを頂きましたので性愛懐疑派から真摯に回答いたします。コメントの内容は以下の通りです。 【僕も死について良く考えるんですが、死をためらう願望とは何もDNAからの要請だけじゃないと思います。死を選ぶ人の多くは、死をあらゆるものからの解放と考えています。あらゆる従属からの解放とも考えています。しかしこの思い込みははたして正しいのでしょうか?これこそ懐疑すべきです。いわゆる自分の死後は、ひょっとして現世よりも、もっと辛いかもしれません。死後は極楽と決まってません。何千万年もぬけられない無限地獄の可能性も十分あります。ならば現世で向精神薬を飲んで正気を保ってる方がずっとましかもしれません。僕はいわゆる精神病患者として、このように考えています】 このコメントは自作自演のものではありませんし、著者は自作自演するほど暇ではありません。 もし「このブログには自作自演コメントが含まれている」と疑うレベルの読者が存在するのであれば、その読者は閲読をやめてください。 繰り返しますがこのブログは選ばれた少数の異質な読者を対象に記述されており、「判らない者は判らなくてもいい」というスタンスを貫いています。また著者には読者を選ぶ権利があり、例外者として生死の区別なく常に大衆社会からの決別を目差しています。 本題に戻ります。リクエストにお答えして「死と自殺」を懐疑しましょう。 実は「死はあらゆるものからの解放・・・あらゆる従属からの解放」ではありません。この認識は幻想です。 自然死の場合、死は単なる終焉であり、「なにものでもない完了」、人生のENDマークです。 また病や飢餓・戦争等の苦しみにもとづく死は、安らぎであり苦痛を和らげるアヘン(モルヒネ)です。 したがって病や生活上の苦しみを慰めてくれる「(大衆)宗教はアヘンである」(マルクス)というこの部分の指摘は正しいのです。 しかしこの死が「解放」ではないのは、大衆宗教という「乗り物」に依存従属しているからです。 一方、自殺は現実逃避・自己逃避・敵前逃亡・責任放棄です。 著者は熟慮のうえで自殺したいのであれば、止めるべきではないと確信しています。 昨日記述したとおり「自殺することで残された家族の心情や苦悩を思いやる能力がない人や、傷つきやすい人、ストレスに弱い人はおのずと淘汰されるのが自然界の原理であり、強い遺伝子の乗り物としてふさわしくない個体は滅びることで動植物は生きながらえて来たのです」 もし、「利己的な遺伝子に支配され、おのれの劣悪な遺伝子を後世に残したくない」と心底思うのであれば、強い意志の力で利己的遺伝子を自殺することで抹殺してください。これは人類に貢献する栄誉ある自決です。 ところで死=死後の世界と短絡的に考えないでください。 宗教や信仰にとらわれている人は、天国や地獄・神による審判・輪廻転生を信じようとしますが、死の本質はバックアップ電源のないパソコンがデータを保存する前に突然停電してシステムダウンした状態と同じであり、死のあとには何も残りません。 また仮に停電が解消されてもCPU(頭脳)が復活するだけで、入力されたデータは取り戻すことができません。つまり、これまで一人として天国に行った人はなく、地獄に堕ちた人もおりません。 無論、輪廻も転生も天罰も神の奇跡もありません。 「ならば現世で向精神薬を飲んで正気を保ってる方がずっとましかもしれません。僕はいわゆる精神病患者として、このように考えています」 このブログはあなたのようなナイーブな読者を対象としておりません。いつ頃からこのブログを閲読しているか不明ですが正直いって、「このブログはあなたが一番読んではならないブログ」なのです。 熟慮のうえで「やりたい」のであれば、自殺であろうと、犯罪であろうと、聖なるテロルもやるべきなのです、だれも止められませんから・・・ 例外者はなにごとも試されるべきであり、なにごとも断念してはなりません。 でも見てはならないものを見てしまったからには「見たなあ〜」と怨みを言う代わりに、「パンドラの玉手箱」を差し上げましょう。 ただ一度だけの人生とただひとつの生命を、死ぬ気で豪奢に焼尽してみないか、死んだつもりで人生を自分だけの快楽と祝祭と陶酔と蕩尽のために贅沢に浪費してみませんか? 激励ありがとうございます! 2006-08-25 15:17:27 このブログは議論する場ではなく、性愛懐疑派ならびに大衆社会における例外者、さらに神仏抜きの至高性をめざす読者のための案内板でありたいと思っており、「飾り窓の天使」はその世界を求める一部の知的で少数の異質な人のための入口も兼ねています。 このところ向精神薬を服用している方や本日紹介する性的アイデンティティに悩む方の真面目なコメントを頂いているのですが、著者は専門知識を有しておりますが、治療家ではないことをまずご承知おきください。 またネットの世界では「なりすまし」や「ひやかし」あるいは「誹謗中傷のための掲示板」等が多数あり、あたかも物陰に隠れて背中に石をなげるような行為が日常的になされています。 したがって向精神薬を服用している方や、性的アイデンティティに悩む方から相談があった場合、著者はまっ先に「このコメントは他のサイト等からコピーしてきた文章を貼り付けて、何らかの『なりすまし』が行われているのではないか」と一応疑ってかからなければなりません。 そうでないと時間をかけて丁寧に回答したあとで、他の掲示板を検索してみたらかなり前に同じ書き込みが複数の掲示板にあり、多くの回答者がその質問に振り回されていたという事態になりかねません。 また、これまでのこのブログの感想として「ワシはアンタのファンやで」氏より、下記のようなコメントを頂戴いたしました。 【死のあとに何も残らんと断定もできんのとちゃうんか?平気で断定できるところがアンタの浅はかな所やな。アンタは、どの読者もことごとくバカにする傾向があるな。ホンマにアンタはへんなヤツや。そんなやり方しとったら、だれもアンタについてこんよ。アンタの言うように、「誰にも理解されん」よ。それに、人がついてこんかったら、当然経営も成立せんよ。他者不在の一人よがりの信念に固執して大事なこと忘れとるんとちゃうか。アンタは「無知の知」が必要や。それほどレベルの高い文章書いてないのに、天才気取りやな。低学歴丸出しやで。自分ではスゴイと思っているかもしれんが、井の蛙や。アンタの文章、どこかの本で拾った単語の寄せ集めや。アンタの言う「ごく少数」の、アンタと同じレベルだけを相手にしていれば、 安泰かもしれんけどな。だから、たてつく読者をことごとく跳ね除けてるんとちゃうんか?ホンマに知的な読者は、アンタの文章なんてコミックとしか思っとらんで。だからワシもおもしろ半分読ませてもろてます。エライすんませんけど。不完全なもん見ると優越感感じますワ。ホンマ、アンタはカワイイのぉ〜。だからワシはアンタのファンなんやで】 ちなみに言論の場では、他者と同じことを発言していたのでは議論になりませんし、議論を白熱させ大胆な発想を導き出すためには「あえて異論を唱える」ことで新たなフィールドを開くのです。 誤解されることをおそれたり、(よくあることなのですが)相手の発言に反対したとたん、相手は自己の人格まで否定されたと錯覚して逆上することが多々ありますが、こうしたことを恐れていたのでは大衆社会と例外者の間の境界線を鮮明にさせることができません。 大衆は常に物事を曖昧に済ませようとしますが、大衆からみて例外者は災いをもたらす「やっかいもの」であることが多く、大衆は宗教や芸術までことごとく大衆化してしまう(「大衆への反逆」カイヨワ)「聖なるもの」への侵略者なのですから、例外者はあえて大衆と離反せざるをえません。 ひよりよがり・他者不在・誰にも理解されない・人がついて来ない・経営も成立たない・・・著者はそれでもいいのです。 著者はだれの「ものまね」でもない著者だけの生き方を、ただ一度だけの人生・ただひとつの生命なのだから死ぬ気で豪奢に焼尽してみよう、死んだつもりで人生を自分だけの快楽と祝祭と陶酔と蕩尽のために贅沢に浪費してみようと決意しているのですから。 したがって「不完全なもん見ると優越感感じますワ。ホンマ、アンタはカワイイのぉ〜。だからワシはアンタのファンなんやで」という一文は、著者にとってまさに感涙のハナムケなのであります。 なお、【「このブログは(向精神薬を服用するような)ナイーブな読者を対象としておりません。いつ頃からこのブログを閲読しているか不明ですが正直いって、このブログはあなたが一番読んではならないブログなのです」・・・こんなこと良く平気でいうね。自分の気の入らない物を見ると暴言はいてすぐ逃げる。無責任極まりない臆病な人格異常者だね。心を患った人の気持ちも考えろよ。一番心を患ってるのはブログ主かもしれんが。大衆に暴言はいて自らのトラウマ解消って所だな】と言うコメントを頂きましたがこのコメントについても上記の記述でほぼお答えしたことになりますので、回答を省略いたします。 著者は「無責任極まりない・臆病な人格・異常者・トラウマ解消・自己満足」等なんと批判されようと、いな・大衆的批判を浴びれば浴びるほど大いなる「やりがい」を感じております。 大衆が何を悩もうと、何を信じようと、何を患おうと著者にはどうでもいいことなのです。このことはこのブログのなかで何度も述べてまいりました。有史以来、大衆は虫けらですから。 性的アイデンティティに悩む方のご相談は、上記の議論とは切り離して回答したいのでブログの章を改めます。(つづく) ワシはアンタのファンやで。 2006-08-25 20:23:47 【アンタ意外と潔いやんけ。ますますファンになったで。おケツにキスしたいぐらいや。ホンマ、がんばってや。応援してるさかいな。またオモロイ話聞かせてや〜】 性同一性障害とは 2006-08-26 01:35:01 性的アイデンティティに悩む美紀さん(仮名)のコメントについて性愛懐疑派のスタンスを説明いたします。 あらかじめ申し上げておきますが、美紀さんは著者にとって「可能性を秘めた」存在なのです。 美紀さんは22歳、1ヶ月ほど前からデリヘルで働いており性病等の感染が怖いので辞めたいと思っているのですが、性的アイデンティティに関する悩みがあって辞められずにいます。 彼女は5歳の頃からバレエを始め、小学高学年から体操をやり大学二年まで続けオリンピックの強化選手になった経歴があるのだそうです。 そして彼女はホルモン異常を感じており、性別的・心的には女性なのに、肉体的には男性に近いと自覚しています。その後大学二年のときに膝の靭帯を損傷し、体操を断念。 部活の練習ではレオタードを着て、競技大会も「女子」に出場しており、その頃は自分のことをハッキリ女性と意識できたのですが、体操を辞めてから自分が男性化していくようで悩んでいます。 彼女は精神的には間違いなく女性なのであり、可愛い洋服が好きだし男の人のことが好きです。 しかし肩幅はあるので高校生ぐらいの男の子に間違われたりもします。 その後、事情があってデリヘルに勤めることになり、そこで会うお客さんは彼女を女性として扱ってくれるので、たまらなく嬉しいのだそうです。 そして体操を辞めてから彼氏もでき、その彼氏も彼女を女性として扱ってくれるのですが、彼女は一人の男性に女性として扱われるよりも、デリヘルで毎日5〜6人の男性に女性として扱ってもらうことでたまらなく安心できると同時に、単に女性として扱ってもらうだけではなく具体的に射精されないと納得できないし、またそうでないと自分が男性じゃないかという不安に襲われるのだそうです。 「私は一体どうすればいいのでしょうか。こんなことはやめて、ちゃんと病院に通院するべきなのでしょうか(要旨)でも、病院に行って女性ホルモンとかを注射してもらったりするのは男性化してる自分を認めるようでたまらなくつらいのです」引用が長くなりましたが著者のライフワークに関わるテーマですので、文脈を損なわないように論点を整理し、そのうえで真摯に回答させていただきます。 美紀さん(仮名)がこれから述べる「ジェンダー・アイデンティティ」についてどこまで知識があるのか判然としませんので、このブログではまず用語の定義から始めましょう。 (あとで判りやすく説明しますので、あまりむずかしく悩まないでください) 人間の性別は男性と女性のふたつしかないと信じられていますが、実は身体解剖学的性別(セックス:♂と♀)と心理的脳内的社会的な性別(ジェンダー)が存在します。 この「ジェンダー」という用語はきわめて多義的であり、この用語の使用にあたっては、心理的・行動的・社会的側面等のどの側面で用いられているかのか、慎重に解釈する必要があります。 (あまりにも複雑なため混乱を避け「ジェンダー」という用語を使わない論者もいます) そして「セックス」と「ジェンダー」が不一致なもの、つまり身体的性別と心理的性別(脳内性別)が一致していないと認識しているものが「性同一性障害」であり、当人が身体的性別か心理的脳内的社会的性別かのどちらかの性別をより強く意識するか、さらに精神的・脳的立場から見て自分自身の身体的もしくは社会的性別に違和感を抱き、(あるいは間違った性別に属していると感じ)、それにより強い精神的な葛藤をおぼえ、身体的もしくは社会的な性別や与えられた性役割を脳や精神の性別に合わせようとする、心理的脳内性別と生まれつきの性別との間に生ずる適応の障害」のことを言います。 (著者は、美紀さんが「性同一性障害」であるとか「性別適応障害」であるかどうかは問題にしていません。これはまだ用語の解説です)つまり「ジェンダー・アイデンティティ」とは、「一人の人間が男性・女性もしくは両性具有として持っている性愛の個性の統一性・一貫性・持続性」のことであり、この個性が「ゆらいで」統一性等が保てなくなる状況を「性同一性障害」と分類しています。 ただしこの「同一性」とは、「身体的性別と心理的性別が一致して同じであること」との意味ではなく、「自己の性愛に関する個性(性意識)が継続的に同一であること」を意味するのであり、身体的性別と心理的社会的な性別の一致を意味しているわけではありません。 (換言すれば、この「自己の性愛に関する個性(性意識)が継続的に同一ではない」ことに自ら気付くことを部外者が「性同一性障害」と呼んでいるのです)したがって判りやすく言うと「性同一性障害」とは「脳内性別」と「解剖学的性別・遺伝子上、染色体上の性別・外形や外性器の特徴にもとづく性別・戸籍上の性別」等が食い違いを起こした状態を指しているのあり、この食い違いを治したいと願う人達の心の葛藤や 障害を表していることになります。 そのうえ人間の性別には解剖学的性別・遺伝子上、染色体上の性別・外形や外性器の特徴にもとづく性別・戸籍上の性別・恋愛の対象となる性別・心理および精神の性別・社会的性役割に関係する性別・男っぽい、女っぽいと言う見掛けや仕草の性別等があり、さらにこれらの性別に「性交を強く求める傾向」とか、「性交にあまり関心がない傾向」といった性欲の強弱が組み合わされますので「ジェンダー・アイデンティティ」の問題は相当難解になってきます。 しかもこの問題の根底には「男女いずれかの典型的な身体的特徴にもとづく性別と、その性別と一致した心理的脳内性別を有するものが正常であり、そうでないものは精神異常であり、一致するように治療が必要である」という決め付けが内在しています。 著者は「n個の人格・n個の性・n個の性欲」(6月10日)のブログで【強烈なエクスタシーによって魂の浄化をめざす至高の例外者は、脳内に以下のような多様なファンタジーを有しています。 ?社会的人格を着脱したあとの、コントロール可能なn個の人格 ?ジェンダーとしての男性性・女性性・男女いずれでもない無性性・両性具有性・人間以外の存在(動物・ 植物・妖怪)等のn個の性 ?商品化されていないオリジナルなn個の性欲 「n個」の「n」とは説明するまでもなく「1以外の任意の数値」のことであり、その数値は各自異なり ます。 したがって計算上「nの3乗」のファンタジーが可能となり、これが例外者が体験する脳内写生の数値モデルとなります。 「nの3乗」と言う豊かなファンタジー・枯れないファンタジー・尽きない妄想・あふれ出る妄想、これが例外者の創造力や活力の源泉なのです】と記述しました。 さらに「六つの性別について」(8月5日)のブログでは、より詳細に以下のように論じています(長文ですがあえて全文を引用します)。 【通常、人間は出生の時点で他者によって判定された戸籍上の性別を違和感なく受入れていて、自己の性別にことさら疑問を抱くことはありません。 たとえば出生時に男性と判定されたものは男性として育てられ、当然のこととして女性を愛し女性と結婚します。女性の場合も、女性差別を受けたとき「男性として生まれれば良かった」と思うときがあっても、基本的には女性と判定されたら女性として育てられ、当然のこととして男性を愛し男性と結婚します。 そしてこのシステムに疑問を抱くこともなければ、このシステムから逸脱しようとも思いません。ところが最近、他者によって判定された戸籍上の性別と自己の心的性別(ジェンダー)が一致せず、ときには「性転換」を求める「性同一性障害」と呼ばれる症例が増加しています。確かに、心が女性であるのに男性であることを周囲から強制されたり、心が男性であるのに女性であることを周囲から強制される苦痛は察するに余りあります。しかし良く考えて見ると、「性同一性障害」は、いわゆる「男らしさ」や「女らしさ」という社会的類型にとらわれているのであり、性別にとらわれているのではないかという疑問が次々と浮かんできます。 たとえば、人間には六つの性別があると考えることが可能です。まず他者によって判定された「戸籍上の性別」と、自己選択した「心的性別」と「外見上の性別」、「部分的性別」および「医学上の性別」と例外者としての「両性具有性」です。なお、この「外見上の性別」とはあくまでも「見た目」の印象であり、その外見によって周囲から与えられた性別です。また「部分的性別」とは性器を除外した身体上の特徴のことであり、身体や衣服の一部および所持品・生活様式の一部が異性の特徴を示すとき適用されます。 たとえば、戸籍も心も外見も医学上も男性であるのに、話し方や仕種・物腰がほんの少し女性的であるために、周囲から「おかまっぽい人」と見られがちな男性や「ボーイッシュな女性」をここではひとつのカテゴリーと見なしています。世の中には戸籍が男性であっても、心が女性であるために女装する者もいれば、戸籍も心も男性なのにファッションとして女装するタレントもいます。カラオケを女装して楽しむとか、女装して街を歩くことを楽しむ男性も決して少なくありません。しかしこの場合、両方とも女装しているために、一般的に「ゲイ」や「おかま」とみなされますが、実は「心から女装している者」と「外見だけ女装している者」という、決定的な違いがあります。また、ファッションとして女装していてもその完成度によって「おかま」と見なされることもあれば、本物の女性として通用することもあり、本人の意識と周囲の認識が一致しているとは限りません。さらに、心が女性であっても必ずしも女装するとは限らないし、女装していても外出しなかったり、下着だけ女装していれば周囲に気付かれることはないでしょう。一方、戸籍も心も男性であるのに性転換手術によって職業としての「ニューハーフ」を選択する者もいるし、「性同一性障害」を克服するために、戸籍以外はすべて女性化した者もいます。従って、女装しているから「ゲイ」とか「おかま」と特定できる訳ではありませんし、見た目が女性だからといって子宮があるとは限らない時代なのです。 同様にペニスを有するから男性とは限りませんし、ヴァギナを有するから女性とは限りません。 なぜなら、ペニスを有しても、心も外見も女性であることは可能だし、性転換手術によってヴァギナを作ることも可能だからです。さらに、ごくまれですが戸籍も心も外見も男性であるのに、染色体を調べたら医学上は女性であったという事例もありますし、戸籍も心も外見も男性なのにペニスとヴァギナを両方所有する「ふたなり」という事例もあります。さらに戸籍も心も外見も男性なのに、官能を求めるときだけ女性として扱われたいと思う者もいるし、戸籍も心も外見も男性である者が、戸籍も心も外見も男性である者に官能を求めることもあると思います。そしてこのように多様な性別の可能性は、やがてバイセクシャルと「両性具有性」の混同という問題に直面します。バイセクシャルとは、あくまでも官能の対象として同性でも異性でも区別することなく無差別に選択することですが、パートナーがいなければ官能的快楽はえられません。 これに対し「両性具有性」とは、内奥の分身に気付くことが不可欠で、しかもその分身が性別を自在に転換しうる者であり、「なにものにも依存しない」例外者のことです。複雑すぎますか?むずかしいですか? 自己の性別になんの疑問も抱かない大衆には、こうした議論は生涯無縁のことかもしれませんが、人間の官能領域はこれほど広大であり、さらに拡張される可能性を秘めているのです】 前置きが長くなりました。 美紀さん(仮名)のコメントを拝見して、まず気になったのはデリヘルという「性欲を商品化した仕事」に就いている点です。 この問題は「飾り窓の天使」のHPに詳しい説明がありますのでそちらを参照してください。 また美紀さんは「女性はレオタードを着るような華奢な体形で、可愛らしい服装を着て射精されなければならない」という「女性らしさ」にまつわる固定観念がとても強いようです。 今回はブログが長くなりすぎましたので用語の定義と論点の整理にとどめ、次回に性愛懐疑派の独自のスタンスを申し上げます。 女性らしさにまつわる固定観念 2006-08-27 01:12:26 他の大勢の読者の美紀さんのコメントに対する「心暖かい沈黙」本当にありがとうございます。 美紀さんが抱えている問題はきわめてデリケートな内容なので、読者の皆さんが静かに見守っていてくださることが、美紀さんにとってなによりの励ましなのです・・・ 著者は美紀さんの独白を拝見して「女性らしさにまつわる固定観念がとても強いようです」とお答えしました。 その著者の回答に対し美紀さんは【そうです、やはりわかりましたか。私には二人の兄がいて私と8つ離れています。小さい頃から母や祖母に言われてきましたが、二人とも女の子が欲しかったそうなんです。家系的にも男が多く、特に祖母は父も四人兄弟なので女の孫を希望していたようで、孫が二人とも男だったことで何となく嫁姑の仲も悪かったそうです。 兄達に手がかからなくなり、経済的にも余裕ができ、もう一人というところで待望の女の子である私が産まれました。何かというと「女の子は手がかからない」「女の子はおとなしい」と兄達に比べ褒められてましたので、私も「女の子っぽくすること」で今日まで育ってきました。男の子と遊んでいると怒られたり、青とか黒の男の子っぽい色の服は買ってもらえず、赤とかピンクばかりでした。それこそ部活帰りのジャージ姿では居間におれず、わざわざスカートに履き替えてくるぐらいのことをしていました。でないと、母や祖母がうるさいのです。「家に帰ってきたんだから着替えなさい」とか、ですから「女らしさ」への固定観念と言っても私だけの問題ではなく、周りの環境からしてそうだったと言えます】 実は改めて指摘するまでもなく「女性らしさにまつわる固定観念がとても強い」のは、ほとんどの場合、幼児期における家庭環境、特に母親の期待が主な原因なのです。 今回期せずして美紀さんがその原因を明らかにしてくれましたので、今日は「謎解き」をはじめから行う必要がなくなり、著者もちょっと安堵しています。 そしてここまで原因が判れば、美紀さんは「女性らしさにまつわる固定観念を強く美紀さんに植えつけたお母さん」を許せるのではありませんか? お母さんは美紀さんを憎くて「女らしく育てようとした」のではなく、女として幸せになって欲しいからこそ「女らしく育てようとした」のです。 しかし、そのやり方が少し強すぎたために美紀さんは「女らしくならなければ、お母さんの期待に沿えない」と思い込み、自分で自分を厳しくいましめ、「女性らしさ」という脅迫観念に自分を追い詰めてしまったのです。 でも視点を変えてみてください。美紀さんのお母さんには罪はありません。でもしいて言えば、お母さんはたった一人授かった美紀さんという女の子を大切に育てるあまり、男の子の子育てには慣れていても、女の子の子育ては初めてだったので、干渉しすぎてしまい女の子の「子育てにちょっと失敗」していまったのです。 これはどこにでもある問題であり、「お母さんの子育ての失敗作」は、おそらく全人口の99%を占めていると思います。 したがって美紀さんが「お母さんの子育ての失敗作」だからと言って悲観することはありません。 むしろ美紀さんの場合、デリヘルで働ける容姿もあり健康な身体と自分を見つめることができるバランス感覚や思考力を持ち、自分の悩みを文章にして理路整然と説明できる表現力や、それを告白できる勇気、さらに著者のブログを見つけ出し、相談すべきか否か判断する賢明さを持っていたのです。 次に美紀さんの性別を昨日述べた論点から整理・検討してみましょう。 ?美紀さんは戸籍上も身体解剖学的特徴(子宮や卵巣があり性交器官が存在すること)においても、遺伝子 上もしくは染色体上の性別も、体形や外性器の特徴にもとづく性別も「完全なる女性」である ?恋愛の対象に男性を選んでいること・心理的精神的脳内的性別も女性であり社会的性役割(ジェンダー) も女性である ?服装・髪型・装身具等も女性である(いずれも美紀さんの独白から推論しました) しかし美紀さんはこれだけ「完全なる女性」であるのに、ホルモン異常のためなのか自己の身体が少しづ つ男性化しており、「自分が男性じゃないかという不安に襲われる」のだそうです。 世の中には男性っぽい印象を受ける女性もいれば、ホモセクシャルでもないのに、どことなく女性っぽい印象を受ける男性もいます。 こうした人たちが自己の性別に関して迷いや揺らぎを抱いているかと言うと、案外そうではなくて、そうした特長を逆手にとって時にはオシャレやファッション等の場面で個性として利用している人も少なくありません。 まず美紀さんも「女性らしさにまつわる固定観念」を自分に向けて集中するのではなく、周囲を見回して「世の中には自分だけでなく案外男性っぽい印象を受ける女性もいて、それを個性として表現している人もいるものだ」と外に目線を向けて見回して下さい。 美紀さんには、とにかくデリヘルで働けるだけの容姿があるのです。 人並みの容姿があると言うだけでも「うらやましい」と感じる女性がたくさんいるはずです。 (ここで次のテーマに移りたいので、ブログのページを新しくします)なお誤字脱字は後日訂正いたします。 性別自己選択権と両性具有性について 2006-08-27 02:29:53 さて、美紀さんに対する性愛懐疑派のアドバイスを申し上げます。 結論を先に言えば、それは美紀さんが「性別自己選択権と両性具有性に目覚めるべきである」ということなのです。 たとえば信仰を通じて自我(エゴ)を抑制することに目覚め、自己の内奥に関心を集中させたとき、そこに「もうひとりの自分」を発見するとか、深い内省・内観によって「新たな自己にめぐりあう」ということは、多くの宗教書や心理学の本に記述されていることです。 また右ききの人は右脳に「沈黙せる分身」が潜んでいると主張する大脳学者もいます。 ところがこれらの記述は、いずれも「もうひとりの自分」にめぐりあったところで、もはや目的を達したと軽率にも即断し、それ以上の探求を放棄してしまうのです。 本物の至高性は、そのように簡単に到達できるものではありませんが、しかし問題はもっと別のところにあるのです。 それは、「もうひとりの自分」にめぐりあったとき、その分身がそれまでの自分と同じ外見であるとは限らないし、同じ性別であるとは限らないという驚愕の事実なのです。 通常、人間は出生の時点で他者によって判定された戸籍上の性別を違和感なく受入れていて、自己の性別にことさら疑問を抱くことはありません。 たとえば出生時に男性と判定されたものは男性として育てられ、当然のこととして女性を愛し女性と結婚します。 女性の場合も、女性差別を受けたとき「男性として生まれれば良かった」と思うときがあっても、基本的には出生時に女性と判定されたら女性として育てられ、当然のこととして男性を愛し男性と結婚します。 そして大衆はこのシステムに疑問を抱くこともなければ、このシステムから逸脱しようとも思いません。 従って「もうひとりの自分」にめぐりあったときも、当然自分とおなじ性別であると思い込んでしまうし、あえてそれを怪しんだり確認することもなかったのです。 つまり宗教の「さとり」や解脱・心理学的自己邂逅も、結局この「性別システム」から一歩も踏み出すものではなかったわけです。 もちろん大衆は、大衆によって作られた大衆のシステムの中に安住していればいいのですが、至高性の獲得をめざす例外者は、他者によって判定された性別を懐疑することなく受け入れることはできませんし、社会制度に拘束されたまま例外者を志向することはありえないことなのです。 むしろ例外者は自己の固有の性欲を純化していく過程で、同性や人間以外の異形の官能的イメージが出現しても決して否定せず、あえてそのイメージに耽溺すべきなのです。 そうすることで真にオリジナルな官能領域は拡張されるのであり、ファンタジーは強化されます。 そして、もはや商品化された性欲にもペニスやヴァギナ、性交や射精、パートナーにもとらわれぬ自在な官能的快楽を獲得したからには、同性との快楽(同性愛)や女性の衣服を身にまとうこと(異性装)も、サドのように苦痛や暴力を利用することも、フェティシズムもなんらためらう理由はないことに気付くのです。 もはや何事も断念すべきではなく、何事も試されるべきであり、何事も躊躇すべきではありません。 また社会的人格を脱ぎ捨てた後で、新たに着用するイメージは異性でなくてもかまわないし、ときには動物や怪物でもかまわないことになります。 男性が社会的人格を脱ぎ捨てた瞬間、「さなぎ」から美しい蝶が現れるようにエロティックな女性の裸体が出現する貴重な「変態」だって起こり得るのです。 このように、あらゆる官能は留保なく即座に開花させるべきであり、あるゆる快楽は躊躇なく即座に満たされなければなりません。 それはすべて、至高性をめざす例外者の特権なのです。 もし快楽が先送りされるとしたら、それはより強いエクスタシーのために、自己や他者をじらしているときだけです。 ところで他者によって判定された戸籍上の性別や自己の心的性別(ジェンダー)と肉体的性別が一致せず、ときには「性転換」を求める「性同一性障害」と呼ばれる症例が増加しています。 確かに、心が女性であるのに男性であることを周囲から強制されたり、心が男性であるのに女性であることを周囲から強制されるとか、美紀さんのようにあらゆる点で「完全なる女性」が肉体的に少しづつ男性化していく苦痛は一般的大衆には想像を超えるものです。 しかし良く考えて見ると、これらの苦痛は肉体と人格が分離できないことが前提になっており、さらに性器や性交・射精・生理にとらわれているために生じる苦悩ではないかと思います。 むしろ肉体と人格が分離できないと思い込み、さらにいわゆる「男らしさ」や「女らしさ」という社会的類型にとらわれたために生じた二重苦なのです。ところで皆さん、性別は不変のものと思い込んでいませんか? たとえば、人間には六つの性別があると考えることが可能です。 それは他者によって判定された「戸籍上の性別」と、自己選択した「心的性別」と「外見上の性別」、「部分的性別」および「医学上の性別」と例外者としての「両性具有性」です。 なお、この「外見上の性別」とはあくまでも「見た目」の印象であり、その外見によって周囲から与えられた性別を意味します。 また「部分的性別」とは性器を除外した身体上の特徴のことであり、身体や衣服の一部および所持品・生活様式の一部が異性の特徴を示すときに適用されます。 たとえば、戸籍も心も外見も医学上も男性であるのに、話し方や仕種・物腰がほんの少し女性的であるために、周囲から「おかまっぽい人」と見られがちな男性や「ボーイッシュな女性」をここではひとつのカテゴリーと見なしています。 世の中には戸籍が男性であっても、心が女性であるために女装する者もいれば、戸籍も心も男性なのにファッションとして女装するタレントもいます。 カラオケを女装して楽しむとか、女装して街を歩くことを楽しむ男性も最近は少なくありません。 だがこの場合、両方とも女装しているために、一般的に「ゲイ」や「おかま」とみなされますが、実は「心から女装している者」と「外見だけ女装している者」という、決定的な違いがそこにあります。 また、ファッションとして女装していてもその完成度によって「おかま」と見なされることもあれば、本物の女性として通用することもあり本人の意識と周囲の認識が一致しているとは限りません。 さらに、心が女性であっても必ずしも女装するとは限らないし、女装していても外出しなかったり、下着だけ女装していれば周囲に気付かれることもありません。 一方、戸籍も心も男性であるのに性転換手術によって職業としての「ニューハーフ」を選択する者もいるし、「性同一性障害」を克服するために、戸籍以外はすべて女性化した者もいます。 従って、女装しているから「ゲイ」とか「おかま」と特定できる訳ではないし、見た目が女性だからといって子宮があるとは限りません。 また、ペニスを有するから男性とは限らないし、ヴァギナを有するから女性とは限らないのです。 なぜなら、ペニスを有しても、心も外見も女性であることは可能だし、性転換手術によってヴァギナを作ることも可能なのです。 さらに、ごくまれに戸籍も心も外見も男性であるのに、染色体を調べたら医学上は女性であったという事例もあるし、戸籍も心も外見も男性なのにペニスとヴァギナを両方所有する「ふたなり」という事例もあります。 それだけではありません。戸籍も心も外見も男性なのに、官能を求めるときだけ女性として扱われたいと思う者もいるし、戸籍も心も外見も男性である者が、戸籍も心も外見も男性である者に官能を求めることもあります。 そしてこのように多様な性別の可能性は、やがてバイセクシャルと「両性具有性」の混同という問題に直面します。 バイセクシャルとは、あくまでも官能の対象として同性でも異性でも区別することなく無差別に選択するが、パートナーに依存している者をいいます。 これに対し「両性具有性」とは、内奥の分身に気付くことが不可欠で、しかもその分身が性別を転換しうる者にのみ与えられる「なにものにも依存しない」官能的快楽に関する特権のことです。 残念なことに、これまでに述べてきた事例の中には、自己の意志で心の性別を選択した者は一人もいません。 しかし例外者として内奥の分身の存在に気付き、その分身の性別が戸籍上の性別と一致していないことに気付いた者は多いのです。 あとはそれを肯定し、さらに男性としての身体と女性の心を総動員して官能領域を拡張していけば至高性はその先に出現します。 ただし、官能的快楽によって至高性の獲得をめざす例外者は、社会的人格や性別・善悪にとらわれることなく自在に人格を着脱することで、いかなるものにも変化(へんげ)し得るのであり、男性でありながら女性の官能に浸り、女性でありながら男性の官能に浸るという、両義的かつ「両性具有性」に到達する必要があります。 つまり内奥で「異質なものを激しくシェイクする」(黒木香)のであり、性別は普遍のものではなく、自分で選択し、自分で決定すべきであり、美紀さんが気付きはじめた両性具有性こそが例外者の特権なのです。 そして、パートナーを選ぶ必要があるときは相手の性器や性別・外見にこだわらず、相手の官能の豊かさと至高性の確かさを基準にパートナーを選ぶのであり、そのパートナーもまた、両義的かつ「両性具有性」を求めてください。 このような「至高の例外者」と「至高の例外者」が官能的快楽を求め合うとき、初めて「もはやこの世のものではない」存在としてのエクスタシーと陶酔・酩酊が出現します。 そしてこの視点から見ると、「性同一性障害」は必ずしも性転換に固執する必要はなく、肉体と心の性別の不一致を戦略的に活用して至高性と「両性具有性」を目指したほうが、より豊かな官能が獲得できるのではないかと思います。 なぜなら「両性具有性」を獲得してみると、例外者である自分が「性同一性障害」を楽しんでいることに気付くからです。 著者が美紀さんに、是非気付いて欲しいのが、この「楽しむ」ということなのです。 豊かな両性具有性を「楽しむ」ことは性別にとらわれた大衆にはできないことであり、「悩むこと」ではなく例外者の特権なのです。美紀さんには大いなる可能性があります。 どうかデリヘルで貴重な人生を消耗するのではなく、あなたの、あなただけの人生を自分らしく生きてください。著者および「飾り窓の天使」の店長が必ず「ちからにになれる」ことがあるはずです。(つづく) ひとつの人格・ひとつの性別しかない窮屈さ 2006-08-27 14:54:35 前回のブログの「つづき」を論じようとしたら、また「伝説的質問」が届いていることに気付きました。 「(美紀さんは)デリヘルで貴重な人生を楽しんでもいいんでは?男も女も。「消耗」ってのもねえ〜。フリーセックスを肯定的に楽しんでる女性もたくさんいますよ。ところで、ブログ主さんに質問です。あなたの女性経験について教えて下さい。性愛懐疑派の方は、実際のセックスをどのようにお考えか興味があります」 性愛懐疑派は、他者が企んだ商品化された性欲を「楽しむ」ことはできません。大衆の性欲は消耗品であり、「すべての男(女)は消耗品」(村上龍)にすぎないのです。 ちなみに「フリーセックス」の本当の意味は、男女の性差を開放することであり乱交や野合のことではありません。 仮に「フリーセックスを肯定的に楽しんでる女性もたくさんい」としてもその性欲はその女性のオリジナルな性欲ではないのです(5月29日のブログ参照)。 「あなたの女性経験・・・実際のセックスに興味があります」とありますが、このブログは「脳内写生」という知的な官能的快楽をテーマにしており、著者のプライバシーを公表することが目的ではありません。「興味」本位の質問は遠慮させていただきます。 ただし、他の読者のために著者の悦楽のためのプロセスを述べておきます。 まず自己に固有のオリジナルな純度の高い性欲を脳の中の「圧力釜」で爆発寸前まで煮詰め、さらにこれをあえて急冷し、善悪・美醜が渾然と溶け合った官能の泥沼を作ります。そして著者の分身をその不気味な泥沼に鎮め、泥沼が沸騰するまで身を潜め、その間広大な性欲の世界を巡礼しながら官能が醗酵するのを待ちます。 あとは泥沼から飛び出すタイミングを測り、ファンタジーと現実のシュチエーションの融合、つまり虚構と現実を独裁的にないまぜにした陶酔と酩酊の中で至高性に到達する官能的快楽を味わいます。 したがって思いつきの性交や他者が企画した性欲に振り回されることはありませんし、パートナーに依存することもありません。できれば同じレベルノのパートナー(性別不問・動物・植物・昆虫・怪物・化け物・フィギュア等でもOK)がいるといいのですが。 --------------------------------------------------------- さて前回の「つづき」です。 美紀さんにとって、以下の記述はかなり難解なテーマであると思いますが、このブログの重要なテーマでもありますので、引き続き性愛懐疑派の論旨を説明します。 自己の性別を自己決定し得るという問題を論じていると、一般に同性愛と呼ばれている現象が、実は異性愛の側からの一方的命名であって、同性愛の世界はもはや同性愛という単一の用語くくることができない、きわめて広範囲な現象であることが判ってきます。 むしろ同性愛とは、単に官能のパートナーを同性に求めるという単純なものではなく、むしろ「性別自己選択権」というべき、きわめて高度な概念ではないのでしょうか。 つまり、自分で自分の性別を決定すべきであると気付いた人たちが、そのことに気付かない人たちから同性愛者という偏見を受けてきた可能性が高いのです。 なお、著者が唱える「性別自己選択権」という用語は、以下に述べる概念ときわめて紛らわしく、混同される可能性が高いので注意してください。 たとえば援助交際に関する議論が高まったとき、ただ善悪論で片付けるのではなく、各自が自分で官能のあり方を考えるための「性的自己決定能力の向上を育成すべきである」という主張がなされました。 これは判りやすくいえば、売春の善悪を考えるのではなく、売春するか否かを各自が決断する勇気を育成すること、もしくは自分を粗末に扱うか、大切に扱うかを自己決定する教育の必要性を意味しています。 それはちょうど美紀さんがデリヘルで働くか、やめようか迷っている状況と符号します。 そしてこの決定能力にもとづき、「したいときに、したい相手とセックスする自由を。したくないときに、したくない相手とセックスしない自由を」(「発情装置」 上野千鶴子)という「性の自己決定権」の確立を求めるという立場が生まれます。 しかしこの「性的自己決定権」や「性の自己決定権」には、自己の性別の選択権は含まれておりませんでした。 著者がこのブログで述べている「性別自己選択権」とは、「性別の自己決定は個人のアイデンティティの核である」(「性の署名」マネー&タッカー・要旨)という概念を発展させたものであり、さらに一度自己決定しても性別は状況により変容しうるから「決定」ではなく「選択権」と改める必要があると思います。 いずれにせよ、現実的には男女の性別の境界自体が曖昧なのであり、これからは自分がどの性別に属するかは成人たる本人が選択すべきものであって、その決定もあとで随意に変更し得るものでなければなりません。 性愛懐疑派は、法律による「性別自己選択権」の確立をすみやかに実現すべきであると主張いたします。 また、性転換を希望する者にいかなる制約も付与すべきではなく、性転換した者の戸籍上の氏名・性別の変更はもちろんのこと性転換者の婚姻も制限してはならないのです。 婚姻も異性・同性に関わりなく認めるべきであり、重婚・多夫多妻を含む、いかなる婚姻形態も禁止すべきではなく、個人のセクシュアリティやエロティシズムに国家が介入すること自体、基本的人権やプライバシーの侵害にあたることを指摘します。 美紀さんが直面した、男らしさのイメージや女らしさのイメージは幻想でしかなく、男性は女性を、女性は男性を愛するのが自然だという常識も外部から押しつけられたシステムであり、異性愛も結婚制度も所有と支配に従属していることに早く気付くべきです。 そして、習慣として男性が女性と性交し、女性が男性と性交するのではなく、性別を超えた新しい官能のあり方を探求する必要があるのです。 「そのときはじめて異性愛の退屈さや窮屈さに気付くことでしょう」(「発情装置」上野千鶴子・要旨)。 飾り窓の天使は「ひとつの人格・ひとつの性別しかない窮屈さ」を感じた方の「アジール」であり、女性の自立支援を行いながら「性別自己選択権」の確立をめざす情報発信基地でありたいと思っています。 愛は地球を救うのか? 2006-08-29 01:22:05 ふたつのコメントありがとうございました。 【「セックスフリー」と「フリーセックス」を混同してるな、全然違うぜ】 「セックスフリー」と「フリーセックス」は欧米ではもともと「性差の解放」の意味で用いられたものであり、わが国では「性交の解放」の意味に使われてきました。「セックスフリー」と「フリーセックス」をネットで検索してみるとほぼ同じ意味であることが判ります。 ちなみに欧米では「セックス」を「性別」の意味に用いることが多く、「性交」の意味に用いることはあまりありません。 【ワシはアンタのファンやで・・・よっしゃ。ワシゃもう年じゃから、他者が企画した性欲に振り回されずに、ワシと同じレベルのパートナー「仏像」で官能的快楽を味おうたろかいな】 たしかに仏像は偶像であり人間の形に似せた一種のフィギュアです。でも仏像は大衆道徳や無用の教団や戒律のシンボルであり、その伝承には多くの曲解と伝説が彩られていて「脳内写生」には不向きでしょう。 もし仏像で発情・ボッキするほど豊かな妄想が得られたら是非リポートをください(微笑) --------------------------------------------------------- ちょっと難解なテーマが続いたので、今日は「大衆&衆愚」を論じてみます。 性愛懐疑派として以前から気になっていたのが、24時間TVのテーマです。 簡潔に申し上げます、はたして「愛は地球を救う」のでしょうか? 愛は独占やエゴを伴い、排他的で時に凶暴ですらあります。 また愛ははかなくて、気まぐれで、変質しやすく、愛ほどあてにならぬものはありません。 愛は幻想・愛は夢・愛は恋そして恋は熱病・愛は小説やドラマやラブソングの中にしかないもの・・・ さらに愛を唱える宗教や教団が何をしてきたと思いますか? 数々の侵略戦争・布教活動という名の略奪や遠征・魔女狩り・異端審問・修道女の虐待・・・ どう考えても「愛は地球を救う」とは思えないし、愛は空腹の足しにすらならないのです。 --------------------------------------------------------- 東京都石原都知事のVサインについて。 高校野球の夏の大会で早稲田実業高校が優勝し、都庁を表敬訪問した際の記念写真を拝見しました。 なんと石原都知事が優勝した野球チームの中央に座って笑顔でVサインしていました。 「Vサイン」の由来を石原都知事はご存知ではなかったのですね・・・ 太平洋戦争の最中、アメリカでは軍国同盟を締結した日本・ドイツ・イタリアを倒し、勝利を祈願するために学校や企業あるいは市町村単位でV字型の大きな人文字(victoryの頭文字)を作り、これを航空機から撮影して戦地で戦っている兵士に送ったり、新聞各社もこぞってこの人文字Vサインを新聞紙面に掲載して戦意の高揚を図った時期があったのです。 したがって連合国側から見ると敗戦国である日本人がVサインをすることは「噴飯もの」の行為なのです。 アメリカで宇宙飛行士として堂々とパレードを行った際の毛利さん・向井さんの当時のビデオ等を改めて見てください。この両宇宙飛行士はVサインを送るアメリカ市民に対して右手の親指を立てて差し出すことで声援に応えたのです・・・立派ですね。 --------------------------------------------------------- 先ごろ世界の天文学者の集まりがあり、銀河系の惑星の数をいくつにするかという議論を行ったという報道がありました。 その結論はすでに報道されたとおりなので、蒸し返すことはしませんが、その議論のなかで明確になったことは天文学という科学の世界では1000年もの間「惑星の定義」をしてこなかったという呆れた事実なのです。 惑星とは何かという定義を一切せずに惑星を研究してきたため、新しい惑星が発見されても評価されなかったり、有名な「冥王星」が惑星ではなかったと排除されたりしています。 「ものごと」を議論する前には、必ず用いる用語の定義をしっかりしておくこと、これが科学の大前提なのだということを世界の優秀な天文学者が気付くのに1000年の歳月と数日間の大議論が必要であったというわけです。 閑話休題 2006-08-30 02:21:05 【こう見えても、若いころは近所の寺のお堂の中で、弁天さん見て千ずりコケたもんや。実話やで、わろたらいかんで】 あははッ、つい懐かしくて笑ってしまいました。著者も幼少のみぎり、江ノ島の弁天さんをまじかで見て「どうして裸なんだろう」と不思議に思う半面、確かにエロティックな姿だなと感じたことがあります。 ところが最近の女性は胸の谷間は見せるは、ヘソは出すは、尾底骨を見せるは、半裸のようなファッションで通勤電車に乗ってくるは、短すぎるミニスカートでエスカレーターに乗るはで、「秘すれば花」という奥ゆかしさがありません。 著者は女性は適度にラッピングすることでその価値が高まると思っているのですが、でもそうした「あられもない」ファッションを見ると眼の保養になることもまた事実なのです・・・ 【永久不変の定義など存在しませんよ。なぜなら、新たな発見のせいで、これまでの定義で説明不可能になることが追加され、定義を変えざるを得なくなり、いままでの定義が使い物にならなくなる・・・定義とは使うためにあるのですから使えなければ変えなくてはなりません。 またうまく使うためには、時代によっても、場所によっても変えなければなりません。惑星の定義はこれまで何度も変わりました。また今回の定義も、この先の新発見により、また変わるでしょう。何年先かは分かりません。特に天文学は、研究予算等の理由で、観測技術の進歩が遅いですから、新発見のペースも遅く、定義の変化も遅いです、天文学者の頭のせいではありません】(要旨) 貴重なご意見拝読させていただきました。 実はくだんの天文学会の記者会見でどこかの国の代表が「1000年ぶりに惑星の定義が行われた・・・」と興奮ぎみにコメントしていたので「そりゃ、ひどいな」と思ってしまいました。実は性愛に関する議論も定義が曖昧な文献が多いのです。そちらも研究予算がネックでしたか。 【なんだよこのブログ、天文学者も立ち寄るんかよ】 このブログは著者が故意に性愛に関する難解な話題を取り上げるので、この4ヶ月の間にかなり知的レベルが高くなりました。 こうした状況で著者がもっとも意識しているのは「約50名」の沈黙せる読者です。 この数ヶ月間、著者が仕掛ける様々な暴言を「冷ややかに見ている」のか「興味深く見ている」のか判然としませんので、実は時折ブログにこっそり「地雷」を仕掛けて、「発言の場」に読者を誘いだそうとしたりしています。そのせいかこのところとてもスリリングな展開なのです。 著者は若い世代が「漢字を知らない」とか「本を読まない・活字放れ」といわれ、しかも知的な会話がまったくできないことを残念に思っています。スリリングな議論は官能的ですらあるのですが・・・ 緊縛・責め絵 2006-08-31 01:26:40 あいかわらず下着泥棒等のニュースが跡を絶たちません。 のぞき・痴漢・ワイセツ行為・・・大人が「どうしてもやりたい」と思いつめ、熟慮のうえでリスク覚悟で実行するのであれば、著者は何事も止め立てしません。 性愛懐疑派は犯罪者になるよりも、豊かな妄想や鮮明なファンタジーを脳の中に蓄えることで官能的快楽の強大なパワーを創造力や活力に生かそうとします。ここが性犯罪者と性愛懐疑派の明確な違いなのです。 ところで性犯罪に関するニュースを見聞きしていて、著者はいつも気になる用語があるのです。 最近、あるストーカー事件で警察が被疑者の自宅等を家宅捜査したらロープと「縛り方ビデオ」が押収されたという報道がありました。 こうした報道を見聞きすると、ほとんどの大衆は「縛り=SM」と短絡的に解釈してしまいますが、厳密にいえば女性を「美的に緊縛する」ことと、それを絵画等で鑑賞することと、商品化された「SM」の間には互いに微妙な違いがあるのです。 たとえば責め絵や縛り絵の錦絵画家 伊藤晴雨 (いとう せいう 1882年〜1961年)は、美しい女囚が縛り上げられた「責め絵」を描くことで、芸術的要素を引き出すと共にそれを見るものが性的興奮を覚えるという絵画趣味があることを明らかにしました。 一方、女性を実際に「美的に緊縛する」様子を鑑賞するという嗜好は、団鬼六(だん おにろく)の小説に代表されるように、縛られていく女性が次第に自由を失っていく過程を凝視することが目的であり、緊縛された女性の肌に食い込む縄や流れる汗と涙と嗚咽に性的興奮を覚えるのであり、マニアは様々な縛り方を工夫したり「縄師」と呼ばれる緊縛の専門家を招いて鑑賞会を開催したりしています。 ただし緊縛の実技はかなり難しく、縛りを承諾してくれるパートナーがいないと実践も鑑賞もできないため愛好家の数はかなり限られています。 著者は「緊縛の過程を凝視する」という嗜好には「手加減をしながら拷問を加える快楽」が潜んでいると見ているのですが、いかがでしょうか? 複雑なのは「SM」です。 一般に「SM」と呼ばれるプレイは、軽度の苦痛によって脳内にアドレナリンを分泌させるための単なるゲーム・前戯・手順もしくは「なれあい的演技」のことです。 なぜなら「SM」は、宗教を否定する訳ではないし、重大な罪を犯す訳でもないからです。 「SM」には主人と奴隷という役柄があり、もっぱら主人が奴隷を拷問するか調教し、奴隷はひたすら主人に服従します。特に女主人は「女王様」とみなされ、男性奴隷から珍重されるのです。 そして「S}の役柄は、パートナーの人格や生命をまったく無視して、自己がひたすら偏愛する加虐癖をどこまでも追求するサドの小説の主人公をモデルとしており、「M」の役柄は、主人の意志に全面的にわが身を委ねる奴隷の幸せを描いた「O嬢の物語」(レアージュ)や、マゾッホの「毛皮を着たヴィナス」という小説から派生したキャラクターがモデルとなっています。 ちなみに「SM」の語源は、クラフト・エビングや、ハブロック・エリス等が、サドやマゾッホの小説に登場する架空の人物と小説の作者の人格を明確に区別しないまま、攻撃的に快楽を求める者を「サディスト」と命名し、その攻撃を快楽として甘受する者を「マゾヒスト」と命名したことに由来します。 そしてフロイトが、この命名をなんら検証することなく踏襲したため、あたかもこのふたつの概念は表裏をなすものとして一般に流布してしまったのです。 (参考文献「マゾッホとサド」 ジル・ゥルーズ・要旨) 次回は、まずサドとマゾッホに関する誤解と名誉回復から始めます。 サドの名誉回復について 2006-09-01 22:08:26 大衆がイメージするサドの人物像は、女性を手荒くいたぶることで己の性欲を満たす変質者で卑劣なフランス貴族という印象を抱いてる人がほとんどでしょう。 しかし性愛懐疑派から見るとサドは至高性(神仏および宗教抜きの官能的快楽による解脱・さとり)に到達し、生還した数少ない人物であり、しかもその体験を淫蕩な小説という形で残した比類ない偉人・異人なのであり、サドの名誉回復は性愛懐疑派最期の生き残りである著者のライフワークであると確信しています。 しかしサドは、自ら1000年たっても「大衆に誤解されることを望んだ例外者」なのです。 したがって著者もここで「大衆が理解できるようにサドを解説する」つもりはまったくありません。 何度も強調しますが「判る人に判ればいい、判らない人は判らなくていい」のです。 さて、実在のサドは74年の生涯において27年間を獄中で暮らし、およそ50冊という膨大な量の書物に彼固有の性的妄想を書き綴りました。 のちにピエール・クロソウスキーやジョルジュ・バタイユ、シモーヌ・ド・ボーヴォワールは、これらの書物を検討し、これらはフランス大革命が産み落とした驚くべき(怪物的)哲学であるとの見解を著しています。 ちなみに8世紀後半から19世紀初頭におけるフランスは、啓蒙思想とポンパドゥール様式が広がり、そのうちにフランス革命が勃発して宮廷文化が一瞬で崩壊し、その後ナポレオンが登場してヨーロッパを席巻した時代であり、ありとあらゆる矛盾が一気に噴出し、露呈したのフランス革命までの最期の激動の時代をサドは生き抜いたことになります。 サドが投獄された理由を一言で言えば、貴族の特権を振りかざし、金銭の力で日々淫蕩な生活に耽り、やがて娼婦や乞食の少女を館に連れ込んでは鞭でめった打ちし、下僕と計らって何人もの女性に肛門性交(鶏姦)を強要したことにあります。 ここまで書くと読者の多くは「ああ、やっぱり・・・」と納得してしまうのですが、封建時代において貴族階級の者がささいなことで庶民に暴行したり、武士の刀に触れただけで「切り捨て御免」と私的に処刑することはわが国でも実際に行われたことであり、男色や肛門性交も「戦場のならい」であったわけです。 また封建領主は常に領民の中ら美形の娘を渉猟し、有無を言わさず拉致し強姦する等の逸話は洋の東西を問わずに行われていたことであり、サドだけがとり立てて異常な行動をしていたとみなすことは、むしろ後世の「偏見」にあたるような時代でもあったのです。 むしろサドが自己の性欲の「いけにえ」として、娼婦や乞食の少女を選んだことは他の封建領主から見れば少々「良心的」であったのかもしれません。 さらにサドは若い頃から「リベルタン」を標榜しており、17世紀には「リベルタンとは信仰や宗教的行為に従うことを拒否する者」というニュアンスが定着していて、「リベルタン」とは貴族的遊蕩のことを意味していました。 中世ヨーロッパのキリスト教社会においてアウグスティヌスやトマス・アクィナス以来、愛欲や性交は子孫繁栄のための生殖と出産に限定された夫婦間の行為であって、そのことを厳格に守るのがカトリック教徒にとって「自然な法則」と信じられていました。こうした状況の中で「リベルタン」が台頭し、キリスト教による性的抑圧を打破して、性欲の解放こそが「自然な法則」であると主張し始めたのです。 特にサドは官能的快楽において、「なにものにもとらわれない、なにものにも従属しない」ことを実践することはあきらかな知的な行為であることに気付いた初めての人物であり、著者が唱える「脳内写生」という知的作業も、こうしたサドの業績を受け継ぐために生まれたものです。 ところでやがて封建貴族社会を打倒し、マリー・アントワネットを処刑するフランスの大衆にとって一連のサドの眼に余る所業は、もはや「貴族の特権」として許されざる事態になっていました。 しかし、そうした大衆の変化に気付かなかったフランスの貴族社会は、ますます堕落し怠惰になって行ったのです。 当時のフランス貴族の実態は、このころ書かれた宮廷小説や宮廷絵画にあるように男性貴族は高級娼婦や女優と放蕩にふけり、その反動として退屈な貴族の夫人達は知的なサロンに生きがいを見出していたのです。 しかし男性貴族がいかなる淫蕩にふけろうとも、それは上品に隠された上流社会の慣習の中で密かに行われる快楽だったのです。 ところがサドのようにスキャンダルを起こし、ことが公になってしまうと大衆だけでなく貴族たちの中にもサドを告発する者が現れ、サドは妻ルネの母親であるモントルイユ夫人の計略にはめられる形で投獄されてしまったのです。 実は「飾り窓の天使」は「自分だけのオリジナルな官能と快楽の発見のために、合法的かつ知的に、しかも上品に脳の中で妄想を充溢・発散させていただくためのアジール(隠れ家)」でもあります(同店のHPより引用)。 サドが残した教訓は「例外者は大衆の中で脳内写生という知的な作業を行ってはならない」という戒めであり、まさに「飾り窓の天使」はそうした例外者のための「よりどころ」をめざしています。 (つづく) サド復活:本物のサディストとは 2006-09-02 00:15:59 サドといえば「鞭打ち」を連想するかもしれませんが、これはのちにクラフト・エビングによって「サディズム」と命名され、ひとつの性倒錯の病状として定義されたことに由来します。 しかし、サドは「鞭打ち」によって快感を得ていた(鞭打ち=射精)のではなく、恐怖心を煽ることや、おどろおどろしい状況や鞭といった小道具がサドを興奮させたと見るのが正当な見解なのです。 むしろサドの倒錯はごく初歩的なものであるとか、サドの加虐性愛は表象愛にすぎないとか、長期におよぶ拘禁状態における鬱積した反社会的な恨みだったという見解もあるのです。 また、サドの官能嗜好は「鞭打ちによって快感を得ていた」と一言で片付くほど単純なものではありません。 サドは、他者に苦痛を加えることで快楽を感じるのではなく、固有の性欲を強引に満たそうとする過程で攻撃や暴力が二次的に発生するのであり、時には自己もしくは他者に苦痛を加えつつ、自己の残虐さにあきれながらも、さらに苦痛を与え続ける自分を被虐的に讃えることすらあったのです。 いわばサドの快楽は、蕩尽によって傲慢を獲得し、屈辱や侮蔑によって自己の矜持を強化していたのです。 そのうえサドは、肛門性交を実行すれば死刑を宣告される時代にあえてそのタブーを犯し、キリスト教と道徳を全面的に否定した上で、キリスト教が恐れる罪こそ官能的快楽にとって不可欠な要素であることを実証しました。 そして、これこそエロティシズムによって至高性をめざす例外者に必然的に生じる「リスク」なのですが、サドによるその高度な知的作業が大衆から見てことさら奇異に見えたのです。 しかし奇異に見られること自体、例外者にとって名誉なことであり、大衆から理解されることを拒否するとここそ例外者の特権なのです。 サドの「鞭打ち」をそのまま「サディズム」と命名したラフト・エビングやその「サディズム」にこだわったフロイト等の単純さは、「自ら1000年たっても大衆に誤解されることを望んだ例外者」たるサドにとってまさに好都合な大衆的研究者だったと言えます。 ちなみにわが国におけるサドの著作の多くは澁澤龍彦によって翻訳されました。このため澁澤龍彦が「サディスト」の「教祖」と思われているフシがありますが、真の「サディスト」は至高性をめざす例外者でなければなりません。 あえて誤解を恐れずに告白すれば、サドの知的遺産の相続者は著者意外になく、著者こそ筋金入りの本物の「サディスト」であると確信しています。 そしてあとは、大衆が誤解してくれることを願うのみです・・・ なお今回サドに関する記述は下記の書籍を参考にしました。 『わが隣人サド』ピエール・クロソウスキー 『ロートレアモンとサド』モーリス・ブランショ 『サド侯爵・その生涯と作品の研究』ジルベール・レリー 『サド侯爵の生涯』澁澤龍彦 『サド侯爵の生涯』ジャン・ジャック・ポーヴェール 『サド、フーリエ、ロヨラ』ロラン・バルト 『サドとマゾッホ』ジル・ドゥルーズ 『サド裁判』 ニーチェの著作のすべて ジュルジュ・バタイユの著作のすべて マゾヒズムについて 2006-09-03 00:53:54 サディズムに関する懐疑を進めていくと、おのずとマゾヒズムにも大きな誤解が存在することが判ってきます。 「実在のマゾッホ」は、「毛皮を着たヴィーナス」という小説の中で、奴隷に甘んじていた女性を説得と契約と訓育によって主人に仕立てあげ、本来主人公であるべき男性が自らその女性の奴隷となることで彼固有のエロティシズムを描きだした人物です。 この手法は性愛懐疑派から見ると、契約やパートナーに依存しているため、厳密には至高性の獲得にあたりませんが、そこには苦痛による自己破壊・自己消尽さらには民俗学上の供犠(読み方:きょうぎ・くぎ)や神聖売春という原始宗教の核心に触れる重要なテーマが多く潜んでいます。 (供犠や神聖売春については別の機会に論じる予定です) しかし結局、「実在のサド」と「実在のマゾッホ」の間にはいかなる関係もなく、サドの小説が実話であるという事実もなければ、サディストの裏返しがマゾヒストであるとか、サディストにとって理想のパートナーがマゾヒストであるといった大衆的俗説には、いかなる根拠もないことが明確になってきます。 また、大衆が認識している「SM」と言う概念と、「実在のサド」と「実在のマゾッホ」の思想には明確な乖離があり、実在の人物の希有な思想と、大衆化され商品化された「SM」を混同することは、その人物の功績を著しく害するだけでなく、至高性を探求する例外者にとって貴重な手掛かりを見落とす煙幕となりかねません。 むしろ大衆が想像する「SM」の世界と、サドとマゾッホの性愛の世界の落差の大きさは、大衆化されたエロティシズムの言説が、実に多くの誤解と無知によって支えられていることを如実に示す最適な資料なのだと理解すべきなのです。 しかも無知なのは、大衆ばかりではなかったのです。 実は、高名な心理学者もエロティシズムの研究者も、大衆が想像する「SM」の世界とサドとマゾッホの性愛の世界の落差の大きさをまったく理解しておらず、小説の作風や主人公の性格とその作者の本当の人格を混同するという、きわめて稚拙な錯誤を改めることなく100年近くも放置してきたのです。 そればかりか、著名な作家たちも知ったかぶりをしてサディズムやマゾヒズムを捏造し、「SM小説」なる分野をせっせと開拓してきました。 もはやエロティシズムを探求しようとする者は、安易に「SM」とか「サディズム」 「マゾヒズム」という用語を使用すべきではありません。 「SM」は、倒錯でもなければ変態でもなく、ただ役柄にあわせた芝居であり、商品化されたプレイなのです。 そのことは「SMの女王様」たちが、「男をひっぱたいてこんなにお金がもらえるんなら、OLなんかするんじゃなかった」と雑誌等で告白している事実でも充分証明されるでしょう。 むしろサドがしたことは、オリジナルな性欲の圧力を高めることで官能的快楽の強烈なエネルギーを引き出し、この爆発力によって宗教を凌駕しようとした至高な試みであり、彼はただ脳内麻薬を大量に分泌させるため、苦痛や暴力が有効であることを実証したにすぎなかったのです。 そして今日まで、その独特の手法が誰にも理解されなかっただけなのであり、この視点に立てばフロイトの言説など、「たわごと」でしかなかったことがより鮮明になってきます。 もはや「サディズム」「マゾヒズム」「SM」の呼称は、至高性の探求者たるサドおよびマゾッホに対して誠に無礼であり、特に名門サド家に対する名誉毀損に他なりません。 例外者は、至高性のためなら「なにをしてもかまわない」のです。そしてこのことを生涯貫いたのが、「アルフォンス ドナチアン フランソワ ド サド」なのあって、その過酷な生き様の外見だけを見て、凡庸な大衆は恐れを抱き、大衆が理解できるレベルであれこれ解釈し議論したにすぎなかったのです。 呪われた領域 2006-09-04 01:21:34 強烈な官能的快楽によって魂を浄化するというサドの手法は、大衆から見るとまさしく「呪われた領域」であり、特にキリスト教にとって神を否定するリベルタンが、さらにオリジナルな官能的快楽を通じて神仏抜きの至高性をめざすというサドのやり方は、神を凌駕するものだけに断じて許せないものであったことは容易に推測できます。 実際に官能的快楽によって至高性を目指した多くの例外者が、キリスト教によって断罪され投獄され処刑されているのです。 しかし、もはや宗教に官能的快楽を断罪する力がありません。 むしろ宗教や道徳が官能的快楽を否定した結果、罪の意識ばかり強調されて性欲が歪み、性倒錯や性犯罪を増加させ、それがまた新たな罪を生み出すという悪循環すら起きているのであり、(ここが問題なのですが)2000年も性欲を否定してきた宗教や道徳によって官能的快楽そのものが絶滅した訳でもなかったのです。 そして「大衆による大衆のための大衆の性欲」がおおらかに謳歌されている今こそ、大衆が決して入るとができないサドが発見した「宗教を凌駕した聖なるエクスタシー」を獲得する絶好のチャンスでもあるのです。 高純度の性欲と自在に飛翔するファンタジーが結合したときの荒々しい陶酔や酩酊は、官能を否定し続けてきた道徳家や宗教家にはとても制御できない爆発的なインパクトがあり、だからこそ道徳も宗教も性欲の根絶をめざしてきたのです。 しかもこのエクスタシーは、宗教的解脱でもなかなか獲得できない死の恐怖を簡単に超越してしまいます。 だからこそサドは、死にとらわれることなく至高のエクスタシーに没頭できたのです。 しかも宗教家等が説く天国とか来世・彼岸・救済なるものがいかにまやかしか、その瞬間明確に鮮明に認識できるのです。 人間は死を体験できません。死の瞬間、自己の死を認識できないからです。 従って死や死後のことを思い悩むことは単なる恐怖心でしかなく、それは大衆と弱者が関わるテーマにすぎません。 サドには死の恐怖がなかったからこそ、27年におよぶ劣悪な獄中生活のなかで官能的快楽の探求に専念できたのです。 「飾り窓の天使」はサドが27年かかって到達した「呪われた領域」を、洗練された上品な方法で垣間見ることができる世界で唯一の官能的快楽スポットです。 E D について 2006-09-05 01:15:35 EDとは、Erectile Dysfunctionの略で「勃起機能の低下」もしくは「勃起機能障害」のことであり、ペニスが勃起できない、または勃起しても持続しない症状を言います。 以前は「インポテンス」(通称:インポ)という用語が使われていましたが、「インポテンス」は「性的不能」と翻訳されていたために勃起機能の低下に悩む患者さん達をむしろ傷つけることが多く、たまたま体調不良や飲酒等で勃起不全に陥った男性に向かって心ないパートナーが何気なく言った「あなたインポになったの?」の一言で、その男性が本当にインポテンスになってしまったという嘘のような本当の話もありました。 1998年のデータによれば、わが国にはおよそ1000万人のEDに悩む男性がおり、50歳代は約50%が、30〜70歳の男性のうち平均すると約30%がEDであると言われているそうです。 ところで製薬会社のHPを覗いてみると、バイアグラ等のED治療薬というのは飲めばすぐ勃起するという薬ではなく、性的刺激を感じたときに服用すると薬の成分が脳の勃起中枢に働いて効果を発揮するのだそうです。 要するに妄想がなければED治療薬を服用しても意味がないのであり、妄想さえ枯渇しなければEDにならない可能性がかなり高いことになります。 そして妄想を強化するなら「飾り窓の天使」のファンタジー気功や脳内写生のほうが絶対お進めだと著者は思います。 ちなみに同店の店長JUN JUNに聞いたところ、開店当初はオタク系の若いお客様が目立ったそうですが、開店から5ヶ月たった最近は30代前後から60歳くらいの、落ち着いた知的なお客様がほとんどということでした。やはり、判る人は判っているのです。 ところで性愛懐疑派からEDの問題を「懐疑」(深く考えること)してみると、とても興味深い事実が見つかりました。 男性は自分が満足できる性交が行えないと、男性としての自信を失うと信じられていますが、こうした見解はいわゆる「男の誇り」は股間にぶら下がっている排泄機関に集約されるという意味なのであり、女性が満足したかどうかは二の次という誠に「情けない話」であることに気付きます。 換言すれば「ED=もはや男性ではない」ことになり、さらに「性交=自分だけ満足すればいいと言う女性器を借りたオナニー」ということになるのです。 そしてこうした思い込みがはびこるのも、男性の性欲が「外部からの性的刺激→勃起→性交→射精」という一連の行為にとらわれているためなのであり、実はこれこそ「商品化された性欲」がもたらした誤謬のひとつなのです。 アダルトビデオに限らず、映画・ドラマ・小説等のありとあらゆる氾濫する官能的描写を冷静に観察してみてください。 そうすると男性の性欲は「五感を通じての外部からの性的刺激→勃起→性交→射精」という決まりきったパターンがあり、しかもそれが他者によって企画されたストーリーであることが判ると同時に、それらの性欲はすべて商品化されていることに気付くはずです。 そしてこうした男性の単純極まりない性欲の特性を、女性たちはすでに見抜いてしまっており、男性は五感を通じて外部から性的刺激を与え、性交をエサにすれば、援助交際であれ愛人契約であれブランドバックであれ、男はいくらでも女性にお金を使うことをしたたかに見抜いており、さらに「男の誇り」を文字通り「もてあそべば、男なんてイチコロ」というテクニックを戦略的に活用し始めているのです。 ところがこの事実にまったく気付いていないのが「誇り高き男性たち」と言う訳なのであります・・・ 蟻の会社と象の会社の戦い・続報? 2006-09-06 00:17:28 8月10日のブログで述べました「○ニメ○ト」という大手企業による「飾り窓の天使」に対する業務妨害が一応終結いたしましたので読者の皆さんに御報告いたします。 ことの始まりは著者がこのブログで「現代は、他者によって企画され商品化されたエロティシズムが氾濫しすぎていて、自己の固有の純粋な性欲が衰退・退化してしまっている・・・(このためオタク世代は)他者によって企画され商品化された性欲に・・・振り回された『あわれな人たち』と一刀両断たことにあります。 ところがまさに性欲を商品化し、それらに振り回されたあわれな人たちを顧客として囲い込むことで急成長してきたアニメ・オタク文化の仕掛け人でもある「○ニメ○ト」という大手企業がこの指摘に憤慨し、表向きは「○ニメ○ト」というネーミングを使うなという理由で「飾り窓の天使」の業務の一部である街頭でのチラシの配布の停止や、ホームページにおける記述の削除等を求める非常に威圧的な要求を有名弁護士・弁理士事務所を通じて「飾り窓の天使」の本社宛てに内容証明郵便で送って来たのです。 ちなみにこの会社は、アニメやDVD等を販売する店舗を全国に36件も持ち、「飾り窓の天使」がある福岡市天神地区にもその店舗がありました。 たぶん「飾り窓の天使」とこのブログが、大衆オタク文化の根底を揺るがしかねないメッセージを連発しているので、その内容には上記企業が脅威を感じたのかもしれません。 もちろん「飾り窓の天使」の業務とこのブログはその後も活動を続けてきましたが、実はその後も「○ニメ○ト」という大手企業は代理人を通じて横暴ともいえる公然たる業務妨害および憲法が保障する「信教の自由」および「表現の自由」に対する不当な弾圧を継続していたのです。 このため8月10日のブログでは、こうした弾圧には知的レベルの高い言論による「言葉のツブテ」の応酬が一番有効であり、「読者の皆さんもどうかこの大手企業の動向に注目していてください」と訴えました。 以下は「飾り窓の天使」の本社が「○ニメ○ト」という大手企業はの代理人である有名弁護士・弁理士事務所宛てに送った内容証明郵便のあらましです。 有名弁護士・弁理士事務所からの内容証明郵便に対する「飾り窓の天使」側の反論の要旨(その1) 【?代理人らは「飾り窓の天使」店における「○ニメ○ト」という商標の使用に関して「不正競争防止法 第2条第1項第1号および同項第2号に該当する違法な行為」である旨主張しておりますが、同法第2条第1項第1号および同項第2号における「不正競争」とは、「需要者の間に広く認識されているものと同一若しくは類似の商品等表示を使用し・・・」(第1項)「他人の著名な商品等表示と同一若しくは類似のものを使用し・・・」(第2項)という場合にのみ「不正競争」となるのであって、「○ニメ○ト」という商標が「需要者の間に広く認識されているもの」ではなく、「著名な商品等表示」に該当する商標ではないと当社は考えます。 そもそも当社の行為が「違法な行為」であるか否かの最終的判断は、裁判所が下すことであって代理人らが判断することではありません。 ちなみに「○ニメ○ト」社および「○ニメ○ト」なる商標は一部の世代、一部のアニメマニアの間で周知・著名なのであって、全国39都道府県に店舗展開していても、幅広い世代に認識され「需要者の間に広く認識されている商品名」等として定着しているわけではありません。 そうではなくて「○ニメ○ト」社の企業戦略そのものが、特定の世代や特定の嗜好を有する一部の需要者に限定して事業を展開していると合理的に推測できる根拠が多数あります。 こうした状況のもとで、当該店舗においてホームページや街頭配布チラシに「○ニメ○ト」という用語を用いたからといって、即座に「違法な行為」であると決め付けるのは法律と商標の両方の分野の専門家として粗雑であり、この言い分は失当です。 ?代理人らは「飾り窓の天使」店における「○ニメ○ト」という商標の使用に関して「商標法第4条第1項第19号」に該当するので当社が出願中である「商願2006−26××9」を取り下げるよう要求しておりますが、同法第4条第1項第19号は「日本国内又は外国における需要者の間に広く認識されている商標と同一」のものは「商標登録を受けることができない商標」として定義しているのであり、上記?で指摘したとおり「○ニメ○ト」という社名はその社名に象徴されるように、「○ニメ○ト」社自体の企業戦略そのものが一部のアニメファンや特定の需要者に対して明らかに「特化」されており、「需要者の間に広く認識されている商品名」等として定着していると断定するのは軽率です。 従いまして「商願2006−26××9を取り下げよ」との要求には応じられません。 また当社が出願中である「商願2006−26××9」の指定役務が「○ニメ○ト」社の役務とまったく異なる分野であり、同法第4条第1項第19号の「不正の利益を得る目的、他人に損害を与える目的、その他の不正の目的」という明確な意図も当社にはありません。 代理人らが「不正の利益を得る目的、他人に損害を与える目的、その他の不正の目的」が当社にあると考えるのであれば、その合理的かつ明確な証拠を文書により14日以内に告知してください。 また、もし指定役務が異なる分野における同一商標の使用が「違法な行為」であり、不正競争防止法もしくは「商標法第4条第1項第19号」に該当し、取り下げるべき事案であると代理人らが主張するのであれば、専門家としてその詳細な根拠・判例等を14日以内に当社に書面で告知してください。 当該店舗はアニメやコミックの販売とは関係がなく、メイド系のリフレクソロジーのサービスを提供する小学校の前にある健全な店舗であり、「紛らわしい」「いかがわしい」という認識は代理人らもしくは「○ニメ○ト」社の誤った先入観でしかありません。 ちなみに当該店舗におけるアニメ系のコスチュームの着用もスタッフの自主的判断に委ねており、当該店舗におけるコスチュームの着用は憲法で保障された「表現の自由」にもとづく自己表現ととらえております。 ?当社が「○ニメ○ト」と称する商標について調査したところ下記の「イ〜ヘ」の通り、実に多くの同一社名・同一商標が存在することが判明しました。 代理人らおよび「○ニメ○ト」社は下記の事業者に対しても当社に行ったような「違法な行為」と決めつける通告や、「ただちに回収されるよう求める」「取り下げるよう求める」等の要求を過去にも行った事実があるのでしょうか? そのような事実があったのか否か、その顛末およびその詳細な経緯を文書にて14日以内に回答するよう要求いたします。 また下記の企業に対し、代理人ら当社に行ったような「違法な行為」と決めつける通告や、「ただちに回収されるよう求める」「取り下げるよう求める」等の要求が全く行われていない場合は、なぜ当社にのみこのような理不尽な要求を行ったのか、その理由もしくは謝罪を14日以内に文書で回答してください。 イ:社名 有限会社 アニ○イト 彩(インターネット検索より判明) 飲む酸素や浄水器等のミネラルウォーター関連商品等の健康食品等の販売 本店所在地 〒509-×5×1 岐阜県土岐市土○○町○○6番地−8 TEL:0572-53-3○0○2 FAX:0572-53-3○2○2 ロ:商標 アニ○イト\ANIMATE 【権利者】アイシン精機株式会社 【住所又は居所】 愛知県刈谷市○○町○丁目1番地 商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】 20 家具 ハ:商標 アニ○イト\ANIMATE 【権利者】小○澤○夫 【住所又は居所】 神奈川県茅ヶ崎市○○4丁目○番27号 【商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】 29 DHAを含む魚油を主材料とするカプセル状・・・なる加工食品 30 プロポリス・ローヤルゼリー・蜂蜜その他の・・・なる加工食品 ニ:商標 ANIMATE\アニ○イト 【権利者】有限会社○上○房 【住所又は居所】 徳島県板野郡○○町○○字○○71番地の16 【商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】 25 ガーター,靴下止め,スボンつり,バンド,ベルト ホ:【出願番号】 商標出願2005−9×42×3 【出願日】 平成17年(2005)10月7日 【商標】 アニ○イトエッセンス\Animate Essence 【出願人】株式会社アシュラン 【住所又は居所】 福岡県大野城市○○2丁目○○番18号 【商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】 3 化粧品,せっけん類,歯磨き,香料類,家庭用帯電防止剤・・・等 ヘ:【商標登録番号】 第27×2×2号 【登録日】 平成6年(1994)12月22日 【商標】 アニ○メ−ト\ANIMATE 【氏名又は名称】 旭化○ファ○マ株式会社 【住所又は居所】 東京都千代田区神田○○町○番地1 【商品及び役務の区分並びに指定商品又は指定役務】 5 薬剤,医療用油脂,衛生マスク,オブラート,ガーゼ・・・等 ?他者に「○ニメ○ト」という商標を使用されたくないのであれば、事前に他の役務にも商標を出願しておくのが「○ニメ○ト」社および代理人らの責務であると思います。 自らの責務をおろそかにしておいて、当社に「○ニメ○ト」という商標の使用停止と出願の取り下げを強要するのは筋違いです。 当社はこうした理不尽な要求に大変憤慨しており、今回の要求は「○ニメ○ト」社なる大手企業と有名法律特許事務所および日本商標協会の会員らが「ちからづく」で当社のような弱小企業に対し「○ニメ○ト」という商標の使用を禁止せよと集団を形成して脅しをかけてきたと解釈しています。 もし今後もこうした要求を継続するのであれば、当社は「威力業務妨害行為」と解釈せざるを得ず、当社こそ「○ニメ○ト」社および代理人に対し法的対抗手段を講じなければなりません。 複数の弁護士および弁理士という法律と商標の専門家らが合理的な根拠なく当社の業務を「違法な行為」と決めつけ、「ただちに回収されるよう求める」ことを内容証明郵便にて強要し、さもなくば「法的手段を採らざるを得ない」と堂々と恫喝してくることは「脅迫行為」もしくは「威力業務妨害」とみなす必要があります。 もしこれ以上代理人らが弱小企業である当社に不当な圧力をかけるのであれば、当社は一切の顛末を特許庁および日弁連および弁理士会および日本商標協会に持ち込み紛争の解決を求めると共に、当該店舗のホームページおよびインターネットの掲示板等を利用して、大手企業と著名法律特許事務所の横暴を広く世論に訴えかける等の手段で不当な圧力に対抗する所存です。 なぜなら「○ニメ○ト」社および代理人らが当社に要求していることは「○ニメ○ト」という単語を一切使うなという「言葉狩り」もしくは「言論弾圧」であり、こうした行為は「表現の自由」を保障した憲法に違反する行為であり、言論界およびジャーナリズムおよびマスメディアにとっても由々しき事態であるからです。(中略) 以上の内容証明郵便に対する「○ニメ○ト」社および代理人らの回答を、本内容証明郵便受領後14日以内に文書にて当社に回答してください。 回答なき場合は当社に対する一切の要求を「○ニメ○ト」社および代理人らは断念・放棄したものと見なします。( 以 上 )】 以上の反論に対し「○ニメ○ト」社および代理人は、さらなる威圧的要求を「飾り窓の天使」側に突きつけてきました。その反論は次回紹介いたします。 蟻の会社と象の会社の戦い・続報? 2006-09-07 00:48:58 有名弁護士・弁理士事務所からの内容証明郵便に対する「飾り窓の天使」側の反論の要旨(その2) 【1.代理人らは「飾り窓の天使」店における「ア○メ○イト」という商標の使用に関して「不正競争防止法 第2条第1項第1号および同項第2号に該当する違法な行為であり・・・一部地域や特定の需要者の間で周知な場合を含む」と今回主張していますが、引用している判例が「大阪地裁平成8年(ワ)第8935号」と10年も前の古い判例であり、最近あいついで報道される商標をめぐる訴訟の結末と逆行している判例をあえて引用しています。 また代理人らは「不正競争防止法」について「出所の混同や信用のただ乗り、或いは希釈化を生じされる恐れがある行為を規制する」ものと述べていますが、当社には「出所の混同や信用のただ乗り、或いは希釈化を生じされる恐れがある行為」を行った事実はなく、ただチラシや電光看板に「ア○メ○イトの新しいトレンド」と表記したにすぎません。 当社は「ア○メ○イト」なる文字列を商号もしくは店名として使用したのではなく、「ア○メ○イトの新しいトレンド」という文字列を使うことで健康産業を「活気づける新しいトレンド」という意味で英単語の「ア○メ○イト」を使用したにすぎません。 したがって「大阪地裁平成8年(ワ)第8935号」を判例として引用するのは失当です。 専門家に相談するまでもなく、最近の商標をめぐる裁判は大きく判断が揺れていることは当社でも把握しており、本件に関しては貴殿らによる当社に対する威力業務妨害も含めて最終的には裁判所の判断を仰ぐべき事例であると考えています。 なお、代理人らが「出所の混同や信用のただ乗り、或いは希釈化を生じされる恐れがある行為」を当社が行っていると主張するのであれば、その確たる根拠および損害額等を受領後14日以内に文書で回答されたい。 2.代理人らは「飾り窓の天使」店における「ア○メ○イトの新しいトレンド」という文字列について「需要者層が接近した貴社の業務に(ア○メ○イトという商標が)使用されています」と主張していますが、「飾り窓の天使」店はフットリフレクソロジーの店舗であり、さらにフットリフレクソロジーの店舗としては福岡市内では故意にやや高めの価格設定をしているため、ア○メ○イト社のいわゆる「アニメオタク世代」という需要者層と競合することはなく、利用者の平均年齢も40代前後です。 代理人らがいかなる根拠にもとづいて「需要者層が接近した貴社の業務に(ア○メ○イトという商標が)使用されています」と主張しているのか、その根拠を受領後14日以内に回答されたい。 正当かつ合理的な根拠もなく「需要者層が接近しているから不正競争にあたる」旨、専門家らが一方的に通告することは職務を逸脱した脅迫にあたるはずです。 3.代理人らは前回当社が求めた下記の要求に対してまったく回答しておらず、代理人らの態度はきわめて横暴であり、誠意が認められません。 (以下の?〜?は前回の内容証明郵便の項目番号です) ?代理人らが「不正の利益を得る目的、他人に損害を与える目的、その他の不正の目的」が当社にあると考えるのであれば、その合理的かつ明確な証拠を文書により14日以内に告知されたい。 また、もし指定役務が異なる分野における同一商標の使用が「違法な行為」であり、不正競争防止法もしくは「商標法第4条第1項第19号」に該当し、取り下げるべき事案であると代理人らが主張するのであれば、専門家としてその詳細な根拠・判例等を14日以内に当社に書面で告知されたい。 ?当社が「ア○メ○イト」と称する商標について調査したところ下記の「イ〜ヘ」の通り、実に多くの同一社名・同一商標が存在することが判明しました。 代理人らおよび「ア○メ○イト」社は下記の事業者に対しても当社に行ったような「違法な行為」と決めつける通告や、「ただちに回収されるよう求める」「取り下げるよう求める」等の要求を過去にも行った事実があるのか? そのような事実があったのか否か、その顛末およびその詳細な経緯を文書にて14日以内に回答されたい。 また下記の企業に対し、代理人ら当社に行ったような「違法な行為」と決めつける通告や、「ただちに回収されるよう求める」「取り下げるよう求める」等の要求が全く行われていない場合は、なぜ当社にのみこのような理不尽な要求を行ったのか、その理由もしくは謝罪を14日以内に文書で回答されたい。 (前回の書面の「イ〜ヘ」の社名・商標を省略します) 当社は以上の項目に関して再度詳細な回答を強く求めます。 本内容証明郵便到達後14日以内に当社宛に書面で回答されたい。 ?「ア○メ○イト」社および代理人らが当社に要求していることは「ア○メ○イト」という単語を一切使うなという「言葉狩り」もしくは「言論弾圧」であり、こうした行為は「表現の自由」を保障した憲法に違反する行為であることを再度警告します。 出版やマスメディアに関わる業務を行っている「ア○メ○イト」社が、このような弾圧や暴挙を公然と行っていることを「ア○メ○イト」社の経営陣は本当に容認しているのか。 その容認の有無を本内容証明郵便到達後14日以内に当社宛に書面で回答されたい。 もしそうであるならば当社はあらゆる手段を駆使して「ア○メ○イト」社の所業を暴き、全力で不当な「言葉狩り」と戦う所存です。 ?当社は「商願2006−2×5×9」に関して、この出願を特許庁がどのように扱うかしばらく静観することとします。 このため「飾り窓の天使」店のチラシに使用していた「ア○メ○イトの新しいトレンド」という文字列はすでに印刷済みの残り約800枚のチラシを配布終了次第、遅くとも8月末日までに自主的にこの文字列の使用を一時中止します。 また電光看板の「ア○メ○イトの新しいトレンド」という文字列についても、看板メーカーより「ア○メ○イトの新しいトレンド」という文字列を削除した新しいメモリーカードが到着次第、遅くとも8月末日までに自主的にこの文字列の使用を一時中止します。 なお「商願2006−2×5×9」について、その登録が認められた場合当社はその時点で再度この商標の使用を開始する予定です。( 以 上 )】 以上が「飾り窓の天使」側の2回目の反論です。 ところが「ア○メ○イト」社および代理人は「14日以内」という期限を過ぎても、なんら回答を行いませんでした。 たぶん、蟻の会社は象の会社に画鋲を踏ませることに成功したのだと思います。 それはさておき、著者は「ア○メ○イト」社および代理人が送ってきた内容証明郵便を一読してみて、そのあまりに一方的で威圧的かつ恫喝的な態度に唖然とし、怒りを覚えました。 それと同時に全国に36店舗もある「ア○メ○イト」社が、福岡市にある「飾り窓の天使」という店舗をここまで気にしていたのかと思うと、少々誇らしくも感じました。 そしてあれほど強引だった「ア○メ○イト」社側の突然の沈黙なのです・・・。 「ア○メ○イト」社および代理人(弁護士・弁理士)がとうとう回答してこなかったと言うことは、飾り窓の天使側が主張した「威力業務妨害」という公然たる犯罪行為にようやく気付いたのではないのかと思います。 飾り窓の天使側の反撃は、実は相手の攻撃が止まったところから始まります。 何しろ弁護士と弁理士が5人も名前を連ねて内容証明郵便で威力業務妨害を2回も行ったのです。 この問題はこれからも時折、読者の皆さんに御報告いたします。 自立とは:京都市の不祥事考(同和問題) 2006-09-08 01:16:37 まず始めにコメントを紹介いたします。 【たいしたもんやな。 (ワシはあんたのファンやで)細かいことはよぉ知らんが、大企業に一人立ち向かった、あんたはホンマ、たいしたもんや。ワシゃ久しぶりに感動したで(略)まだまだ油断禁物やで。あんたの言うようなことになっとるんやったらあんたが逆に訴訟できるぐらいや】 ホント、代理人である著名な弁護士や複数の弁理士が何を考えているのか・・・油断大敵なのです。でも、このところこのブログのアクセス数が急増しているので、かなりの読者が注目してくれており、著者は勇気づけられました。 【(ひろし) 故意にに高い値段設定にして「アニメオタク世代」が来ないようにしてるから顧客層は40歳前後だそうですが、じゃあ、アニメの動きを取り入れる意味は何なんでしょうか?故意に高く(値段設定)してると言われては、お客様にまた来てもらおうと頑張ってるスタッフの方が聞いたら、疑問に思うんじゃないでしょうかね。それから貴店は35歳以下の客は来るな!と宣言されたわけですよね】 アニメオタクのブームはすでに20年近く続いています。したがって当時15歳〜20歳のアニメオタク世代は現在35歳〜40歳を迎えており、飾り窓の天使はこのワンランク上のシニア・アニメオタク世代を主な対象として想定しております。 35歳以下は来るなと言う意味ではありません。 【アニメの動きを取り入れる意味は何なんでしょうか?】とのお尋ねですが、なにしろ前代未聞の企画ですので少しでも業態を判りやすくするためにアニメやコスプレを取り入れたりしています。 しかし、近日中にもう一度お店のコンセプトを煮詰めて、少し軌道修正する予定です。このことはいずれこのブログで詳しくお知らせいたします。 【でも実際はメイセンさんや福岡市内の他リフレクソロジー店より安い価格設定なんですが、具体的にどの店より高いんですか?】 具体的に店舗名を挙げることは差し障りがあるかもしれませんので、実名は挙げませんが、福岡地区の整体やリフレクソロジーの料金はおよそ10分800円〜1000円が相場(30分のリフレクソロジーで2500円〜3000円ほどが平均的相場)であると言われています。(飾り窓の天使の開業事前調査でも、この相場を確認しています)。ところが「飾り窓の天使」では、一応サービスメニュー毎に所要時間を「めやす」として表示していますが、この「めやすの時間」をもとに「飾り窓の天使」の料金表を見た場合、福岡地区の類似業種の約1.5倍位に料金が設定されていると思います。これは店舗の品格を高める目的もあるのですが、一方でキャストさんを指名したり、何度も来店してくださるお客様には、ときおり「めやすの時間」を超えて接客しているそうです。 --------------------------------------------------------------- 今回のテーマは「自立とは:京都市の不祥事考」です。 今年6月、京都市の「同和奨学金返済肩代わり問題」について、京都で活動する市民オンブズマングループ「市民ウォッチャー・京都」のメンバー4人(弁護士3人、司法書士1人)が、京都市監査委員に、住民監査請求を行いました。 請求の内容は、同和奨学金に関するものであり、京都市では、20年にわたり同和奨学金貸与者全員を「返還困難者」と何の審査もなく一律認定し、貸与者に「自立促進援助金」を支給する形で、全員の返済金額全額を市がすべて肩代わりしてきました。 このため同和奨学金が「給付制」から「貸与制」に変わってすでに20年以上経つというのに、京都市では自主返済した貸与者はいまだ1人もいないという異常事態が続いています。 京都市市民文化局が今年3月の市議会に提出した資料によると、自立促進援助金制度がこのままつづくと、2029(平成41)年度までに約51億円が支出されることになるのだそうです。 仮に、本当に返済が困難な者であれば返済を猶予したり、減免することはむしろ当然なことです。 しかし無審査で一律に「返済が困難」ということにして、行政が肩代わりを続けることは別の問題であり、こうした制度に「自立促進援助金」という名称まで付与していたことに「女性の自立支援」に協力している者として怒りを覚えるのです。 「自立」とは過保護にして依存させることではなく、あくまでも本人の自助自立の自覚が基本なのです。 京都市はこれまで同和地区住民の生活基盤の脆弱さを指摘し、奨学金貸与を受け付ける時点において同和地区住民に対しては、「これは給付制の奨学金なので、返済の義務は一切ありません」と虚偽の説明を続けてきたのだそうです。 そしてこうした説明のすり替えは京都市によれば「同和地区住民からも強く求められてきたため」と主張していますが、むしろ部落解放団体からの隠然たる圧力があったというのが真相だと思いますし、こうした状態は「自立」ではなく、「癒着」や「依存」と言うべきであると思います。 ところで京都市は市職員の採用に関しても、平成14年度までは同和地区の人々に対し職業の機会均等を保障するとの理由で、なんと同和団体が推薦する者を優先的に現業職へ採用してきた事実もあります。 そしてこの甘い採用方法が京都市の一連の不祥事の大きな要因になっているのです。 京都市では今年4月以降、「覚せい剤使用」「児童買春」「傷害罪」「窃盗未遂容疑」「生活保護費詐取」等で職員5人が逮捕(うち1人は釈放)され、さらに最近では詐欺や覚せい剤取締法違反容疑などで職員3人が逮捕される有様なのです。 それだけではありません。 京都市では過去4年間に、不祥事で懲戒処分を受けた職員数は平成15年度で28人、同16年度では16人、同17年度では20人、同18年度では8人もおり、10年間で懲戒処分は242人・逮捕者は89人・その半数が優先採用された環境局の職員でした。 かつて京都市の同和行政は、全国の模範とみなされ部落問題の解決に大きな役割を果たしてきたと賞賛された時代がありました。 しかし同和対策事業が長期・固定化したことで同和対策が既得権益と化し、「同和団体幹部」との癒着を生み出し、市職員に無力感が蔓延し、集団的責任回避をもたらしたのです。 人権擁護や差別の撤廃を目指す「同和」に甘い京都市政を、「同和団体」が圧力を掛けて「「自立促進援助金」という名目に「すり替え」させ、さらに京都市政を「食いもの」にして来たのです。 2002年に同和対策基本法が消滅しました。これによりわが国には「もはや同和問題は存在しない」ことになっています。 しかし「同和問題」は隠然たる伏流となり、最近では人権問題に取り組む革新系の人権擁護団体と連携して「人権擁護法案」として装いを変えて復活の機会を覗っています。 ちなみに「自立」は決して「お金」がかかるものではありません。 ぜひ「飾り窓の天使」で行われている民間自立支援プログラムをご覧ください。 商標について 2006-09-09 00:03:44 「同和問題」という、大衆社会にとってタブー視されているテーマを公然と取り上げたので、このテーマに関する様々なコメントが届くだろうと予想していたら、「ア○メ○ト」の商標に関するコメントだけが来ていました・・・どうやら「明治は遠くなりにけり」なのかもしれませんね。 このブログは、当然「ア○メ○ト」側がチェックしていると容易に予測できますので、いわば係争中の問題の核心をここで詳しく述べることは差し控えます。 でも著者からみて「このぐらいは言ってもいいかな・・・」という範囲で極力読者の皆さんに回答したいと思います。 【ブログ主、いつものハッタリ節だな。勝ち誇ったように書いてるけど、よく読むと、自主的にこの文字列の使用を一時中止ってことは、結局、ア○メ○トの要求をのんでるわけだな。登録が認められるわけないしな。要求をのんだんだから、そりゃ攻撃やむワナ。明らかにアンタの負け】 もし、ブログの読者にハッタリをかませる意図が著者にあれば「自主的にこの文字列の使用を一時中止する」うんぬんの文章は削除してから公表します。 実は飾り窓の天使の戦略は、「ア○メ○ト」側に送る内容証明郵便に「自主的にこの文字列の使用を一時中止する」と記載することで、「ア○メ○ト」側の一方的かつ威圧的な要求のために「恐れをなして自主的に『ア○メ○ト』という文字列の使用を中止せざるを得なくなった」という飾り窓の天使側の実情を伝えたものであり、こうした状況に追い込まれたことを内容証明郵便に記載することで、逆に「ア○メ○ト」側による威力業務妨害を成立させやくし、同時に飾り窓の天使側にとって「ア○メ○ト側による威力業務妨害による実害があったからには損害賠償請求も辞さないぞ」という意図が含まれています。 もし「ア○メ○ト」側がこの意図に気付いていたら、返答期限までに「当該文字列の一時使用中止はあくまでも飾り窓の天使側が自主的に使用を中止したのであり、この対応には「ア○メ○ト」側は関知していない」とあえて内容証明郵便で通告しなければ代理人の落度となります。 重要なポイントは、「ア○メ○ト」側が一方的かつ威圧的な要求を繰り返し、飾り窓の天使側がほんの少し譲歩して見せたそのあとに、一切のフォローもせずに突如沈黙した事実にあるのです。 なぜなら、この事実から「ア○メ○ト」側の本来の意図が容易に推測できるからです。 【 (ひろし)商標に関してですが、顧客層の違いは全く関係しないみたいですよ。 例えば、「一蘭」てラーメン屋がありますが、価格を高くして顧客層を変えても他人が同じ「一蘭」という店は出せないでしょう。 「パンパース」というオムツがありますが、別の会社が成人用オムツで「パンパース」は出せないでしょう。 顧客層が違えば同じ商標を使えるなんてのは我田引水の勝手な論理です】 同様の指摘は上記のコメントの中にもあり、【登録が認められるわけないしな。要求をのんだんだから、そりゃ攻撃やむワナ、明らかにアンタの負け】と皆さんお考えのようですが、飾り窓の天使側は「ア○メ○ト」側に対して「顧客層の違い」のみを指摘しているのではありません。「指定役務」がまったく違うと主張しているのです。 確かに「一蘭」というラーメン店やオムツの「パンパース」を例にすれば商標として使用することはできません。 しかし、文房具や書籍・DVD等の販売を主な「役務」とする「ア○メ○ト」側が、まったく「業種」も「役務」も異なるリフレクソロジーの店舗である「飾り窓の天使」に対して、どのような法的根拠に基づいて「ア○メ○トの新しいトレンド」という単なるキャッチコピーを「使用するな」と強要するのか詳しく説明して欲しいと要求してきました。 しかし「ア○メ○ト」側は、飾り窓の天使側の2回におよぶ説明要求を完全に無視して、「一時的に使用を中止する」と回答するや否やそれっきり「なしのツブテ」なのです。 これではあたかも、「大きな象なんだから小さな蟻など踏み潰してもかまわない、蟻は蟻らしく要求に従えばいのだ」と言っているのも同然と受け取るほかありません。しかしこうした大企業の暴挙が通用する時代ではないのです。 さらに「飾り窓の天使」は、店名として「ア○メ○ト」という文字列を使用したのではありません。 ホームページやチラシの一部に「ア○メ○トの新しいトレンド」という単なるキャッチコピーを用いただけであり、それを正当な根拠もなく「使用するな、訴えるぞ」と弁護士と弁理士が連名で内容証明郵便を2度も出し恫喝し続けたら「脅迫」や「表現の自由」を侵害するばかりか、企業に対して正当な理由もなく「使用するな・配布するな」と要求すれば「威力業務妨害」になるのです。 【あなたは「按摩、マッサージ、針、灸、カイロテック」でアニメイトを申請してますが、これらは医療行為であり、国家資格がないとできない役務です。貴店はリフレクソロジー店ですから「美容」で取らないと何の権利もありませんね。むしろ普通のリフレクソロジー店ではなくコスプレに特化してる点で、仮装衣装でアニメイトを取得してるアニメイト社の商標を侵害してるのではないでしょうか】 率直いえばこのコメントには大変な誤りがあります。 総務省発行の「日本産業分類」によれば「医療・医業」以外は「医業類似行為」というカテゴリーに分類され、さらに「医業類似行為」は公的資格が必要な「柔道整復師(骨接ぎ)・鍼灸師・あんま等」と、民間資格である「整体・カイロプラクティック・アロマテラピー・マッサージ・フットリフレクソロジー・日焼けサロン・視力回復センター・各種民間療法等」に区分されています。 特許庁の「指定役務」もこの「日本産業分類」に基づいており、飾り窓の天使側が出願している「相互リフレクソロジー・飾り窓の天使・3次元美少女・アニメイト」という商標はこの「医業類似行為」というカテゴリー(公的資格と民間資格の両方を含む)に出願されています。 特許庁の指定役務における「美容」はあくまでも美容・理容・美容術のことであり飾り窓の天使には該当いたしません。 また特許庁の指定役務における「仮装衣装」は「仮装衣装の販売・レンタル等」のことであり、「仮装衣装」を着用したサービスのことではありません、念のため。 【貴殿の論理からすると、価格を安くして十代をターゲットにしたならば、「窓の中の天使」というコスプレリフレクソロジー店を他人が出しても文句は言わないのですね?】 誤解しないでください、著者は「価格帯が異なれば同じ業種でも他者の登録商標が使える」などと一度も記述しておりません。 世の中そんなに甘くないのです。「窓の中の天使」がわざわざ登録商標を出願したのは、他者にこの分野でこの店名を使わせたくないからであり、さらに今後「ア○メ○ト」側と指定役務に関して争い続けるのは、むしろ「医業類似行為」という指定役務の中では内容証明郵便で公然と恫喝してくる横暴な「ア○メ○ト」側に「ア○メ○ト」を使わせたくないからなのです。 【ブログ主の代理人・・・「顧客層が違えば同じ商標を使える」というのは「我田引水の勝手な論理」でなくて、「××には理解できない至高の理論」だそうです】ちなみに著者には「代理人」はおりません。 冗談としては「至高の理論だ」というのも「白猫」(尾も白い→面白いの意味)ですね。 実は商標に関しては弁理士の間でも混乱があり、さらに裁判所も判例のなかで商標権と不正競争防止法のはざまで「適用認定」が揺れていて、むしろ時代と共に古い判例が覆されています。 したがって「我田引水」の自己満足に留まるのではなく、飾り窓の天使側はあくまでも裁判で新しい判例を獲得する必要があると思っています。 帝王切開とは? 2006-09-10 01:07:25 最近、よく見聞きする「帝王切開」の意味をネットで調べてみました。 実はドイツ語で「切開切除」を意味する「Kaiserschnitt」を和訳した際に、この単語を「Kaiser」と「Schnitt」のふたつに分割し、「Kaiser」を「帝王」と意訳し、「Schnitt」を「切開」と誤訳してしまったのだそうです。 また市販の国語辞典でも誤った説明が多く、それが原因で誤訳が定着してしまったのだそうです。 「帝王切開」に関する代表的な俗説として、 1.ラテン語の「sectio caesarea」をドイツ語に訳す際、「caesarea」を古代ローマの将軍「ガイウス・ユリウス・カエサル(シーザー)」と間違えてしまったとする説。 たしかに「Kaiser」はカエサルの名前から派生して「皇帝」を意味するようになった語だが、カエサルの名前の「Caesar」は「分家」を意味し、「Kaiser」も同様に「切る」といった意味があることから間違いといえる。 2.ガイウス・ユリウス・カエサルが、開腹法で産まれたことから「帝王切開」と言われるようになったとする説。 しかし古代ローマの開腹出産は、分娩時に妊婦が死亡した場合、胎児を助ける目的で行われたものであり、カエサルの母はカエサルが40歳を過ぎるまで生きているためこの説も間違いである。 3.中国では占星術によって皇帝の誕生日が決められており、誕生日を守るために開腹法で出産していたからという説。しかし「帝王切開」の語は、中国語にはないのでこれも誤りである。 わが国の未来の天皇になられるかもしれない親王の出産に際し、担当医師もマスメディアも評論家も宮内庁もこぞって誤訳である「帝王切開」という用語を終始使い続けてきました。 41年ぶりの親王の出産は、海外でも大きく報道されたようであり、同時にわが国の国際化もずいぶんと進展したものだと思いつつ報道をながめていたら、なんと「世紀の出産」も誤訳で堂々と報道しておりました。 医学界もマスメディアもずいぶんと頑固な世界だなと改めて感じました。 ところで性愛懐疑派の立場から「帝王切開」報道見ていると、出産にまつわる用語が誤訳であり、それが誤訳と判っていながら公然と使うことは、女性に対する差別や侮蔑が背景にあるのではないかと一応疑ってみたくなりました。 なぜなら「分娩」という言葉の「娩」は例によって「女扁」の漢字であり、何度もこのブログで指摘したように「女扁」の漢字にはろくな文字がないからです。(例)嫁・妊・娠・嫌・姑・婦・奸・姦・娯・・・等々 著者は帝王切開に代わるべき用語として「開腹出産」という呼称が親王にはふさわしいのではないかと宮内庁と医学界に提案したいと思います。秋篠宮妃の早い「ご回復」のためにも。 なお、「開腹出産」は著者の造語です、商標登録しとこうかな・・・(笑) 親指ラーメン 2006-09-11 00:41:04 再度コメントが届きましたので回答します。 【ひろし: じゃあ、お宅の隣に「飾り窓の天使 ア○メ○トの新しいトレンド」ってコスプレラーメン屋(二十代向け)を出しても文句は言わないということでいいんですよね?役務も需要層も違うし】 専門家である弁理士や「飾り窓の天使」の店長等は別の回答をするでしょうが、著者に向けられた質問ですので、このブログらしく「例外者」として回答します。 たしかに「飾り窓の天使」の隣に、「飾り窓の天使 ア○メ○トの新しいトレンド コスプレラーメン」が出来たら超愉快ですね。 鳴門巻に「ア○メ○ト」とネーミングをいれるとか、メイド服の少女がドンブリの中のスープに親指を突っ込み「生ユビ味付け」しながら「お帰りなさいませ、ご主人様ッ。親指ラーメン、一丁ッでござます」なんて差し出すとかね。 客はスープが付いたメイドの親指を舐めてからラーメンを食べるのが「ツウ」とかね。 これいいアイデアだなぁー。「ひろしさん」いかがですか、出店してみたら?プロデュースしてあげますよ。それにはまず「商標登録」しないと・・・ ついでに「飾り窓の天使 ア○メ○ト オタク餃子」「飾り窓の天使 ア○メ○ト ピザ」「飾り窓の天使 ア○メ○ト 回転寿司」なんてどうでしょうか? あの通りにたくさんの異業種の「飾り窓の天使 ア○メ○ト △△△店」がオープンしたらきっと注目され、たくさんの人たちが集まると思います。 そこまで有名になる可能性があれば、「飾り窓の天使」側は喜んで歓迎すると思います。 そうなったら大企業「ア○メ○ト」も西通りから移転してくるかもしれませんね。 ジーンズの穴 2006-09-12 00:02:41 街には擦り切れたジーンズや、膝や太腿が穴だらけのジーンズを穿いている若い男女が目立ちますが、古着のジーンズかと思っていたら、実は人為的に穿きふるしたように加工されたものがほとんどで、剃刀でわざと切り裂いたものや、ガスバーナーで生地を焦がしたもの、あるいはグラインダー等で布地を削りほつれ穴を作ったもの、わざとペンキで汚したものが多いのだそうです。 なぜ新しいジーンズをわざと穴を開け、着古したようにみせかけるのでしょうか? かつて「バンカラ」と呼ばれ、学生が新しい学帽や詰襟(ガクラン)を、わざとボロボロにして着ていた時代がありました。 中には風呂に入らないため臭くて近づけない学生や、3年〜4年間学生服を一度も洗わずに汗と垢で布地がテラテラに光ったガクランもありました。 こうした「バンカラ」は、上級生から「なめられないため」とか、同級生から一目置かれたいとか、目立ちたいとか、女を寄せ付けない等、強がりが主な動機であったと思います。 しかし、わざと穴を開け着古したようにみせかけるジーンズや「汚ギャル」と呼ばれる少女たちの出現は、「バンカラ」とは似ていても、少し違ったメッセージがそこに含まれているように思えます。 たとえば、豊な時代になると「どこにでもある真新しいもの」が氾濫し過ぎており、古いくさい物(古着や和服・骨董品・昭和時代の家電製品等)や、伝統を感じさせるもの、あるいは穴あきジーンズのように新しいものをわざと汚して使うなど、贅沢さの裏返しとしての懐古趣味が見受けられるようになりました。 またスカートではなく、パンツスタイルが女性のファッションの主流になると、脚を隠しすぎることになり、その反動で破れたジーンズを穿くようになったのではなかと見ることも可能です。 女性たちはミニスカートで脚を露出しすぎた反動で、むしろ脚を隠し、次に隠しすぎた反動で破れたジーンズの穴からチラリと覗く膝・太腿・ふくらはぎにエロティシズムを集中させ男性の視線を集めようとしているのかもしれません。 破れたジーンズの穴の奥に虫刺されの痕があると、この女性がどんな姿で寝ているのか想像できて、案外面白いのですよ。 いずれにせよ、多くの女性は同性や異性である男性の視線を常に意識して、あたかも周囲の視線をカガミのように見立ててオシャレをしたり、ダイエットをしたりします。 端的に言えばもはや若い女性には個性など発揮する余地などないのです。 女性は皆、どこかの雑誌で見たファッションを見にまとい、あるいは有名タレントと同じブランドかテレビ等で紹介されたショップのマヌカンがコーディネートしてくれた衣装を着てようやく自分が「イケテル」と安心するのです。 つまり若い女性は同じ世代の女性と同じレベルのファッションであることが、唯一の安心感となっているのです。同様に破れたジーンズも一言でいえば同世代の「ものまね」なのかもしれません。 若い女性は、いつも他者の視線によって評価され、比較され、値踏みされることで自己の存在感を獲得しています。 そして彼女たちは、いつかその心の中で自分の顔形や身長・体形等と妥協しなければならない日を迎えます。 このような女性に残された可能性はダイエットと化粧品と美容整形だけであり、これが彼女に与えられた容姿・容貌に関する可変抵抗値なのであります。 例外者は「自分らしく生き抜くこと」に専念します。大衆に評価されたり、値踏みされることは恥でしかありません。 女性が例外者をめざすなら、他者に評価されるという身に染み付いた習性を脱却しなければならないのです。 電車の中でメイクする女性 2006-09-13 11:54:54 以前から電車の中でメイクする女性を「はしたない」とか「めざわりだ」「外国では人前で髪をとかしたり、化粧する女は売春婦とみなされる」とか、様々な批判がありました。 しかし、依然として電車の中等でメイクする女性が後を絶ちません。 あれこれ批判されているのに、なぜ女性たちは人前でお化粧するのでしょうか。 この社会現象を性愛懐疑派の立場から考察してみました。 ?お化粧の時間がない。 それは判ります。でも本当に5分10分の時間がないのでしょうか? 自分を美しくしたいと思うのであれば、人知れず努力するところから始めるべきであり、外見だけ塗りたくっても、すぐ化けの皮ははがれてしまいます。 美しくあるためには外見だけではでなく、品性や知性・マナー・所作仕草等も重要なファクターなのです。 ?電車の中でのメイクは時間つぶしという見方もできます。たとえばビューラーと手鏡を取り出して悠然とまつ毛を整え、片方づつ念入りに出来映えをチェックしている女性もいます。 はたで見ていると、「よくもまあ混雑した車内やゆれる車内でマスカラを塗ったり、アイラインが引けるものだ」とつくづく関心しています。 でも実は丁寧にメイクしたのに、メイクの前と後でほとんど変わり映えしない女性もいて、思わず苦笑してしまうのですが・・・ たとえば、明らかにこれからデートだという女性が電車の中で念入りにメイクしていることもあり、ときにはメイクが済んだ女性が素早く懐に手を入れて、胸のパッドの位置を整えたりするので見ていて結構楽しいのですが、あたかも電車の中は更衣室か楽屋裏と化しているようなのです。 著者の知人で「女性専用車両には乗りたくない、女性のマナーがひどすぎる」という女性もおりました。 ?どうやら社会全体が「他人は眼中にない、関心を抱けない他人が周囲にいても、そこにいないものとして無視する」という風潮が露骨に進行しているように見えます。 もはや「公衆の面前で・・・」という言葉すらが死語になっている時代であり、満員電車の中でベッタリ寄り添うカップルや、夜遅い電車に乗ると車内がアルコール臭くてムッとするとか、電車を降りると駅のホームのところどころにゲロのあとがあるとか、人前で平気でエロ雑誌を広げるサラリーマンが目立つとか・・・コンビニに公然とエロ雑誌が並べられていて、先進国とは思えない光景も目に付きます。 オトナが自己の判断で官能的快楽を追求することは一向に差し支えないことなのですが、中高生が出入りするコンビニに男性向け官能雑誌が並んでいるのは解せません。 大衆の性欲はコンビニで簡単に買えるほど安直なものということなのでしょうか・・・ 大衆は大衆らしく大衆のなかで暮らしているべきであり、こうした大衆社会を批判しても大衆は一切変化しようとしません。 かくなるうえは例外者は、大衆社会の中では「電車の中でメイクする女性」のように「大衆はそこにいないものとして無視する」しかないのかもしれません。 オタク女性について 2006-09-14 23:54:52 アニメ等の人気キャラクターにハマる「オタク」は男性だけと思っていたら、実はオタク女性が急増しています。 ここ半年ぐらい前から池袋の「サンシャイン・シティ」の近くに、女性の「オタク」向けのショップが7〜8件集まり始めました。 そしていつのまにかその通りが「乙女ロード」と呼ばれるようになりました。 (なぜ「乙女ロード」なのかな?「夢見る乙女」だからでしょうか) ちなみに、これらの店舗の中には女性しか入れないお店や、女性専用のアダルトグッズのコーナーがあるお店もあり、平日でも昼間から大勢の女性が出入りしています。 また実際に行ってみた感じでは、雑然とした秋葉原より少し落ち着いた雰囲気があり、女性向けの美少年アニメやアダルトDVD・レズビアン同人誌等がかなり堂々と展示・販売されていました。 実は8月3日のブログで【アニメやPC恋愛ゲームに熱中する「二次元コンプレックス」と言う仮説は「平面的画像に対しての萌えの様式」であり、心理学や社会学の立場から見るとレベルが低いとみなされがちです。たしかにパートナーとのセックスレス(性交を忌避する交際)や、現実世界での生身の異性との性交に消極的な態度を見せ、恋愛を仮想空間で楽しむという傾向が存在します。これはドロドロとした性愛や具体的なナマナマしい関係、あるいは「やっかいな関係」を回避したがり、読者側に選択権があるアニメや簡単にリセットできるPCゲームの世界のほうが気楽であり、自分の理想や想像力で補うことのできるアニメなどの世界の方がスムーズに感情移入できることがブームの背景にあります。アニメは実写の動画映像と異なり描写が抽象的にならざるを得ず、このことが読者に都合の良いように解釈したり妄想を膨らます余地を与えています。むしろこのアニメの抽象性こそが「素敵な恋を夢見ていたい世代」にとって最適なメディアであったのです】と述べました。 つまり男性のオタクは仮想空間で「ときめきたい」という傾向が強いのですが、オタク女性は生身の彼氏にも「ときめたい」と思うのと同時に、仮想空間でも「ときめきたい」という傾向が強いようです。 しかし、だからと言ってオタク女性が欲張りという訳ではなく、女性は現実的であると同時に「いくつになっても夢見る乙女」の部分が残っていると見るべきでしょう。 たとえばオタク男性の場合、自己にとって心地良い非現実的な世界にハマってしまうと、自分でも気がつかないうちに目前の現実問題から次第に乖離して行き、やがて社会生活に適応できなくなることが起こりうるのですが、オタク女性の場合は現実と虚構の両方に適度に「ハマる」ことができるので、社会生活に適応できなくなることは起こりにくいのではないかと思います。 読者の中にオタク女性がいたら、コメントをお願いいたします。 エロティックなスポーツについて 2006-09-16 22:40:37 性愛懐疑派の立場から見れば・・・そして性愛懐疑派でなくてもスポーツには「エロティックなスポーツ」というジャンルがあるのではないかと思っています。 「スポーツを好色な目線で見るとはあきれたヤツだ」と抗議のコメントが寄せられることをあえて承知の上で言えば、プロテニスのシャラポワ選手・女性のフィギュアスケートやアイスダンス・ビキニの水着でプレイするビーチパレー・レオタードの新体操など、著者から見るとどうしても競技を楽しみつつ、さらに「エロティックなスポーツ」としても楽しめる競技なのです。 さらにホンネを言えば、「スポーツとして楽しみつつ、美人の惜しげもないボディとエロティックなポーズや苦悩する表情を見て楽しんで」いるのです。 特に「汗と砂まみれのビキニ水着でプレイするビーチパレー」は「ウェット&メッシー」(泥んこまみれ・ずぶ濡れ等)と呼ばれるエロティシズムの愛好者にとっては、こたえられないエロティックな競技であると思うのです。不謹慎な発言ですか? 実は近代オリンピックの創始者であるクーベルタンは女性差別にもとづき「私は女性がオリンピクで競技する姿は見たくない」と言っていたそうですが、クーベルタンはむしろ「やがて女性がオリンピクでエロティックなスポーツを競うようになるだろう。それはスポーツの場でエロティシズムがエスカレートして行くことを意味する。そうした状況を私は危惧しているのだ」と言っておくべきだったのです。 著者から見れば、現代はスポーツの場でもエロティシズムがエスカレートして行く時代であり、大衆社会にとって健全であるべきスポーツまでもが「他者が企画した商品化された性欲」に成り下がりつつあります。 しかも事態はさらに深刻であり、「競技中にネックレスやイヤリングをチャラチャラさせる女性選手」や「長いツメにネイルアートを施して観客に見せるアスリート」もおります。 これらは男性から見ると「ジャマにならないのか?」「髪の毛を洗うときちゃんと洗えるのか」と心配に思えることもしばしばなのです。 タトゥ(文身・刺青)も同様です。力士は生まれたままの姿で「まわし」だけ付けて戦うものだと思っていたのですが、最近は土俵の上でも外国人力士のタトーが見られます。 以前このブログで芸術ヌードとポルノの違いは「芸術ヌードはモデルの表情がない」、一方「ポルノははモデルがコワク的な表情をしている」という点に違いがあると記述しましたが、シンクロナイズドスイミングの場合、技術点と芸術点があり、コスチュームに凝るうえ演技者は時にコワク的な表情をして演技を行います。 ここまでスポーツにがエロティックになってきたら、いっそのこと技術点と芸術点のほかに官能点という採点基準を取り入れ、スポーツをエロティックに楽しんだらいかがでしょうか? 植草一秀氏について 2006-09-18 23:45:25 名古屋商科大大学院客員教授の植草一秀氏(45歳)が電車の中で女子高校生に痴漢行為をしたとして、東京都迷惑防止条例違反容疑で現行犯逮捕されました。 警視庁蒲田署の発表によると、植草氏は9月13日午後10時ごろ、京浜急行品川―京急蒲田駅間を走行中の下り快速電車内で、女子高生(17)の後ろに立ちスカートの上から尻を触ったのだそうです。 このとき女子高生が「やめてください」と声を上げたので、乗客の男性2人が植草氏を取り押さえ、京急蒲田駅で同署員に引き渡しました。植草氏は当時酒に酔っており、「覚えていない」と供述しているそうです。 ちなみに植草氏は、早稲田大大学院教授を務めていた2004年4月、JR品川駅で女子高生のスカートの中を手鏡でのぞこうとしたとして同じく東京都迷惑防止条例違反容疑で逮捕され、起訴されたのち裁判で罰金50万円の有罪判決を受けています。 植草容疑者は結局控訴せず、判決後も「無実潔白だ」と主張してましたが、この事件で同氏は早大大学院教授を解任され、今年4月から名古屋商科大大学院で教壇に復帰していました。 著者はこの事件の報道を見聞きして、彼を「変質者」と決め付ける前に、植草氏自身に軽率と思われる重大な落度があると感じました。 それは前回の「ミラーマン」と騒がれた事件からわずか2年ほどしか経過していないのに、不用意にも深夜に酒に酔い電車に乗って女子高生の後ろに立ったという事実です。 多くの男性は通勤電車のなかで、痴漢と間違えられないように女性の近くや真後ろに立たないとか、やむなく女性の近くに立つときは両手で吊り革を?んで自ら痴漢ではないことをアピールするように心がけています。 なぜならたとえ冤罪であろうとひとたび「痴漢」のレッテルを貼られてしまったら、裁判で無実が証明されたところで、失うもののほうがはるかに多きいことをほとんどの男性は漠然と理解しているからです。 この点で彼の行動は軽率すぎる、その軽率さは致命的であるとさえ断言してもいいと思います。 「ミラーマン」事件が冤罪であると主張するのであれば、なおのこと彼は慎重に慎重に行動すべきでした。 特にせっかく名古屋商科大大学院の教授として復帰していたのですから、彼を拾ってくれた大学等や彼の再就職に尽力してくれた関係者のことを思えば、ことさら慎重に行動してしかるべきでしょう。 その慎重さに欠けていたこと、その軽率さを身に浸みて反省するために、彼はどうしても一度、自己の性欲について懐疑してみる必要があると思います。 彼の事件は性愛懐疑派から見ると、実はレベルが低すぎるのです。 女子高生のスカートのなかをカガミで覗いていったい「何がある」と言うのでしょうか? 女子高生のスカートの上から尻を触っていったい「何を感じる」というのでしょうか? そこに彼にしか判らないオリジナルな「なにかがある」と主張するのであれば、他人から見てたいして意味のないことに人生を賭け、熟慮のうえで「どうしてもやりたいからやるのだ」という確信を抱いて完遂するのであれば、それこそ至高の例外者の生き方なのですから、著者は大いに彼の所業を称えてやりたと思います。しかし発覚してから「誤解だ」「酔っていて覚えていない」と弁解するようでは愚かな大衆と変わりないことになります。 著者は植草一秀氏に「脳内写生」という知的な官能的快楽の世界があることを教えてやりたいと願っています。脳の中には「なにをしても許される」という広大な私秘的な領域があるのです。 まずその存在に気付いてください。 そして今度同様の事件で逮捕されたときは(たぶん再犯は確実ですので)堂々と、「たいして意味のないことに人生を賭けて熟慮のうえでどうしてもやりたかったからやったのだ、したがって反省も後悔もする必要はない」と昂然と胸を反らして会見してください。 飾り窓の天使は、いつでも植草一秀氏の来店をお待ちしております。 上祐史浩氏に告ぐ 2006-09-19 22:15:22 元オウム真理教の元教祖:麻原彰晃(本名:松本智津夫)に対する死刑判決が確定しましたが、著者は7月16日のブログで麻原は「宗教裁判」において裁く必要があると主張しました。 宗教教団を代表する人物が宗教の世界で大きな事件を起こしたのですから、この場合刑事裁判とは別に宗教家が彼を宗教家として裁くべきなのです。 ところが宗教家であれば当たり前の発想を、事件発生以来わが国の宗教家は誰一人として主張しませんでした。 7月16日のブログにあるとおり、麻原は【大乗仏教という「なんでもあり」の宗教に惑わされた犠牲者であり、憲法によって「信教の自由」が保証されている以上、そのリスクは国と国民が負うべきであり、・・・麻原は宗教裁判においては錯誤ゆえの無罪、もしくは業務上過失致死罪に過ぎない】と堂々と反論すべきでした。 その上で、この主張を「無視」し、真の宗教家は麻原らポアを実行した人物に対して、「不条理の行使」という宗教における殺傷与奪の特権を持ち出し、「いのちあるもの」の「いのち」を無理やり奪った彼らの所業を宗教家として裁くために、麻原らの「いのち」を「生け贄」や「供犠」(きょうぎ・くぎ)として、大勢の大衆が見守る中で「聖なるもの」に捧げるべきなのです。 古来より、あらゆる宗教はきらびやかな宗教的祝祭(年に1度の盛大なお祭りやカーニバル等)を通じて、「罪なきもの」を「聖なるもの」に捧げる「ご馳走」として、さらに将来大衆に降りかかるであろう災厄を一身に背負う「身代わり」の犠牲者として、めくるめく地獄のような血祭りの中でその心臓をえぐり出し、聖なる祭壇に捧げ、大衆の狂喜乱舞のなかで宗教的エクスタシーを満喫してきたのです。 上祐史浩氏が新たな教団を設立するとの憶測がありますが、もし彼が真の宗教家であるならば、麻原らを地獄のような血祭りによってポアする司祭としてスタートすべきでしょう。 著者でよければ、喜んで「地獄のような血祭り」の復活をお引き受けいたします。 ファンタジー気功・続報 2006-09-20 23:56:14 携帯電話でこのブログを愛読してくださっている若い女性がおります。 彼女は「ブログ右下のQRコードをQRコード対応の携帯電話で撮影すると面倒な入力なしで簡単にブログにアクセスでき、いつどこにいてもブログが読めて便利」と話しておりました。 著者が実際に彼女の携帯電話の画面を見せてもらったところ、著者が自分で書いた文章がすぐ携帯画面に現れ、しかも思ったより読みやすく、なぜかいつもと違った新鮮な感じがいたしました。 またこの難解なグログが、「いつどこにいても読める」とサラリと言ってのけた彼女の言葉を聞いて「どこかに同じように携帯電話でこのブログを読んでいる例外者がいてくれるのだな」と思いうれしくなりました。 QRコード対応の携帯電話をお持ちの読者の皆さん、ぜひ試して見て下さい。 (えっ、いつもQRコードを利用しているですって!そりゃ驚いた。でもそうなるとあまり長い文章は書けなくなるかな・・・) 先日、「飾り窓の天使」で取り入れているファンタジー気功(登録商標出願中)のビデオを知り合いの舞踏家に見ていただきました。 「飾り窓の天使」では、公式ホームページで紹介しているように視覚を通じた脳内リフレッシュのひとつの手法として「ファンタジー気功」という独自の健康法を開発し、これを普及させたいと企画しておりますが、実はポーズ(振り付け)が難しく最近少々行き詰まりを感じておりました。 その一方で、中には熱心なファンもおり、繰り返し足を運んでくださるお客様もいらっしゃるのですが、常連のお客様のためにも、またこれを広く普及させるためにも、「全体的にもう少しレベルアップしたい」と企画に参画する者として願い続けていました。 実はこうした著者の日ごろの願いをその舞踏家に説明し、「飾り窓の天使」で行われているファンタジー気功のデモテープを舞踏家に見ていただいたところ「すごく面白い・興味がある・協力できそうだ」という快いお返事をいただきとても感激いたしました。年内にはプロモーションビデオの撮影・編集を終える予定です。 より洗練されたファンタジー気功にぜひご期待ください。 憲法改正・核武装論 2006-09-21 01:52:56 劣化ウラン弾をアメリカが戦場で使用したため甲状腺ガン等が多発しているというドキュメンタリー番組を見ました。 同様の被害は原発事故を起こしたスリーマイル島やチェリノブイリ原発、あるいはかつて原爆実験が行われた地域でも報告されています。 ところが広島・長崎には原爆による甲状腺ガン等が多発しているという報告を著者は耳にしたことがありません。 そればかりか原爆による奇形児の出生比率が極端に少ないと言われています。 マスメディアが同盟国であるアメリカとの国益を考慮して報道を差し控えているのでしょうか?そんなことはないはずです。 たしかにアメリカがわが国を「同盟国・友好国」として扱えるのは広島・長崎の原爆の悲惨さを伝える人的証拠が少なすぎるからであり、原爆ドームと原爆記念館だけが唯一の物的証拠にすぎず、年に一度慰霊の式典を行うことで日米の平和と友好が持続されてしまうのです。 実は著者はかつて(広島・長崎のどちらかは、あえて特定しませんが)その地域の医師会の重鎮であった人物から直接以下のような悲惨な話を伺ったことがあり、その人物は「自分が引退するまでこの話は公表しないで欲しい」と申しておりました。 この約束を思い出して調べてみたら、当人はすでに逝去されておりましたので、あのときの会話をこのブログに書きとめておきたいと思います。 「原爆投下後の数年間は放射能の影響で、出産時に多くの奇形児が見つかった・・・当時の産科医や助産婦はそうした出産に遭遇したとき暗黙の内にあえて母親や親族にその事実を伝えず、原爆の影響による『死産』として葬った・・・いまでもこころが痛むが生命の誕生に立ち会う医師として、今でもあれは正しい決断であったと思っている・・・」以上が著者が記憶するある産科医の告白のあらましです。 思い障害をもって長い苦しい人生を送るより『死産』として葬ったほうが当人のためだ・・・母親にはその姿を見せないほうがいい・・・ おそらく当時のその地域の医師会の関係者は阿吽の呼吸で、そのように決断したのだと思います。 著者もこうした行為をいまさら批判するつもりはありません。 しかし、広島・長崎の新生児の悲劇を正しく後世に伝えなかったことが、劣化ウランと言えども戦場で使用したら甲状腺ガン等が多発する可能性があるという危惧に結びつかなかったという見方も成り立つのです。 そして核兵器を保有する大国はいつの時代も、形を変えて核兵器という危険な武器を使いたがるという事実を被爆国は忘れてはならないと思います。 著者は新総裁が憲法を改正を目指すのであれば「わが国は侵略戦争は禁ずるが、世界で唯一の被爆国として3度目の被爆を回避し、国民を守るために核武装することができる」とあえて条文に加えるべきであると考えます。 おそらく「3度目の被爆を回避し、国民を守る」という理由であれば、反対できる国はないでしょう。 なぜなら核保有国は核ミサイルが恐いから核ミサイルを保有しているのであり、その理由がある以上反対できる立場にはないのです。 ダイエットについて 2006-09-22 00:06:27 ダイエットとは「健康や美容のために食事の量等を制限すること」なのですが、性愛懐疑派はダイエットに疑念を感じています。 結論から言えば、ヒトは1〜2ヶ月という短期的な減量は一時的に成功するのですが、半年〜1年という長さで見れば自己の体重のコントロールは不可能であり、結局元の体形に戻ってしまうことで肥満の専門家の意見は一致しています。 さらにすでに多くの研究でダイエットは、人間関係のトラブルや「自分らしく生きていない」というストレスが根底にあり、痩せることで周囲や社会に受け入れられたいという密かな願望にもとづいていることも判っています。 そしてダイエットは「健康や美容のために」行うことなのに、実はダイエットはある種の衰弱であって、ダイエットが引き金になって過食症や拒食症に陥ることが多いことも広く知られています。 そのうえマスメディアやダイエット産業は、ことさらスリムなモデルを多用し、スリムさを賞賛することで不必要なダイエットを煽り、大衆は常にそれに操られ踊らされてきました。 性愛懐疑派はあらゆる性欲が他者によって企画され商品化されて消費される時代になってしまったことを警告してきましたが、他でもいない「ダイエット」もまた他者によって企画され商品化されて消費される欲望になってしまったことを警告します。 換言すれば「人間関係のトラブル」や「自分らしく生きていない」というストレスを解消するために、大衆は他者が企画し商品化されたダイエットという商品やスリムになれるというサービスにお金を払って自己の衰弱を招いているのです。 ぜひ一度「ダイエット」と打ち込んでネット検索してみてください。 そこには「ダイエット」と称する「大きなお世話」が氾濫しております。 ウィニーと盗撮の共通点 2006-09-23 00:08:10 Winny(ウィニー)と呼ばれるファイル交換ソフトに潜入させた「Antinny」というウィルスソフトは、ユーザーが気づかないうちにパソコン内のすべてのデータをWinnyの共有データとしてWeb上に公開してしまう暴露ウィルスです。 このため官公庁等ではWinnyを使わないよう呼びかけていますが、もはやWinnyを使っていなくても感染する暴露を目的とした「山田ウイルス」(MELLPON)や「山田オルタナティブ」と呼ばれる悪質な暴露ウィルスがあり、メールに添付されてきたり、ホームページにアクセスしただけで暴露ウィルスをインストールさせられてしまいます。 Winnyや山田系ウィルスの特徴は、ただ暴露ウィルスを潜ませたアプリケーションをインストールさせるだけで、管理サーバーなしにパソコンのネットワークをつくり、感染したPCをWebサーバーとして無断利用しながら、そのPCやHDDの全内容を流出させすべての中身をインターネット上に公開してしまいます。 このため暴露された情報を見られてしまう可能性はWinnyよりさらに広範囲になります。 またその際に自動的に「2ちゃんねる」等の掲示板にアドレス等を公表してしまうため、一度流出したデータは行政庁等の関係者をいくら処分したりウィルス対策を講じても流出を止めることはできません。 見たい・覗きたいと思う者がいる限り、流出したデータは何度もコピーされ知らないところで覗かれ、嘲笑され続けることになるのです。 こうした現象は「覗き」や「盗撮ビデオ」と同じで、あたかも物陰に隠れてターゲットの背後から石を投げつける卑劣なやり方と非常に酷似しており、インターネットという匿名性が高いツールの普及が、大衆社会の卑劣かつ陰湿な習性をさらに巧妙に悪質化させているのです。 もはやいくら固くガードしても、また加害者を告訴しようにも姿なき犯罪者には対抗する方法がありません。 悪質なプライバシーの侵害には「あえて私的制裁も辞さない」という強い信念を常に表明することである種の抑止力を確立すると共に、下劣な大衆社会から一線を画した知的な選ばれた例外者(大衆社会および大衆規範からの亡命者・脱藩者・越境者)は、もはや大衆と決別して大衆がけっして介入することができない領域を構築し、隠棲する必要があると著者は考えています。 著者にとって「飾り窓の天使」は、その入口であり「至高性」への参道なのです。 キューリー夫人 2006-09-24 01:38:22 このブログで劣化ウランについて記述するためにネット検索していたら、ラジウムや放射能の研究でノーベル賞を受賞したキューリー夫人にたどり着きました。 以前このブログで【女性は自分が女性であることの意味をあまり知らない・・・たとえば「女扁の漢字」を書き出して見てください。 奴隷 妄想(みだりに思う) 奸計(よこしまなはかりごと) 安価 如才 好色 妙齢 妨害 妥協 妓芸 妊婦 婦人 嫌悪 嫉妬 妾妻 委ねる 始める 姉 嫁入り 姦しい 姥桜 娘(よい少女) 娯楽 婚姻 媚びる 娶(めと)る 媒介(なかだち) 嫡子 手弱女(たお やめ) 嬲(なぶ)る お嬢さん 妖艶 媚(こ)びる 嬌声 石女(うまずめ)・・・(つまり)「女扁の漢字」にはろくな漢字がない・・・男性の靴は「紳士靴」と呼ばれ、女性の靴は「婦人靴」と呼ばれています。男女平等という観点からいえば「紳士靴」の対義語は「淑女靴」になるはずです。民主主義の発祥の国イギリスでさえ、女性に選挙権が認められたのは77年前(1929年)のことであり、世界中に女性にかぶり物(スカーフや帽子・ベール)を強要する文化が未だに根強く残っています。さらに・・・なぜ女性は結婚したとき、名字を変えなければならないのでしょうか?】と書きました。 よく考えてみると2回もノーベル賞を受賞した偉大な人物を今日なお教科書等で「キューリー夫人」と呼び続けるのは女性蔑視のひとつではないのかと著者は疑念を抱いています。 キューリー夫人の夫ピエール・キューリーは、放射能の発見により妻マリー・キューリーと共にノーベル物理学賞を受賞(1903年)しましたが、夫ピエールは、1906年享年46歳で馬車に轢かれて死亡しています。それ以後、マリー・キューリーは女手一つで二人の子供を育てつつ、1911年金属ラジウムの精製の研究でノーベル化学賞を受賞しました。 したがって夫の死後100年間も彼女は「キューリー夫人」と呼ばれてきたのであり、換言すれば夫の死後100年間も「ピエール・キューリー氏の奥さん」と呼ばれ続けてきたことになります。 一般的に人妻は夫の死後も「○○さんの奥さん」と呼ばれることが多々あるとしても、2回もノーベル賞を受賞した偉人を夫の死後100年間も「キューリー夫人」と呼び続けることは彼女の偉業を軽んずる意図的な差別と言わざるを得ません。 女性の差別や男尊女卑の慣習は今日なお、意外なところに根強く残っているのであり、特に女性からの指摘がほとんど目立たないのが現実です。女性がんばれ! 努力の成果 2006-09-25 00:44:10 「努力」とは「心をこめて事にあたること・骨を折って事の実行につとめること・つとめはげむこと」(三省堂辞書)のことなのですが著者は常に「努力とは、努力しても報われないもの・努力しても報われるとは限らないもの」であると思っています。 なぜなら努力など一切しなくても、棚ボタ式に得することもあれば、長年どんなに努力しても報われないこともあります。 また、良かれと思って成したことがアダになったり、他者に対する親切心や奉仕が裏目に出ることもざらにあります。 ところで性愛懐疑派から見ると「努力」という文字にはもうひとつ別の意味があることに気付きました。 このブログでは何度も「女偏の漢字にはろくな文字がない」と述べてきましたが、努力の「努」という漢字にも、実は「女」という字が含まれています。 通常、「努」という漢字は「奴」の下に「力」と書くと覚えるのですが、これを故意に「女」の「マタ」の「ちから」と読み替えてみると素直に『そうか・・・努力とは「女」の「マタ」の「ちから」×「ちから」なのだ』と納得できるのです。(~?~) 女性たちが有史以来「女」の「マタ」の「ちから」を発揮してきたからこそ人類は進化してきたのであり、女性たちが愚かな男どもを寛大に見守ってくれたからこそ男たちは戦争ごっこしたり、平和に働けたのです・・・ ------------------------------------------------------------------------ 交通事故で亡くなられたダ○アナ妃が事故に遭遇する直前、婚約者同然の男性とホテルから出てきたことは皆さんもご存知のことと思います。その後この事故をめぐる様々な憶測や報道が乱れ飛びましたが、その憶測のなかに著者が気になり、あの事故以来ずっと調べ続けてきた重要な出来事があり、このたびその「努力」が報われてやっとその真相にたどり着くことができましたので読者の皆さんに報告したいと思います。 ことの発端はダ○アナ妃の救出に当たったパリの救急隊員が現場に駆け付けたとき、ダ○アナ妃はまだ意識があり、ご自分が「妊娠中である」ことをその救急隊員に告げたこと、さらにダ○アナ妃は事故当時「ノーパン」であったという情報があったからです。 ところが「ダ○アナ妃妊娠説」は、ダ○アナ妃の母国政府の公式コメントでは一切触れられず、いつの間にか黙殺され忘れられてしまいました。それだけに著者はいまもって「ダ○アナ妃妊娠説」を捨てきれずにいますが、さらに性愛懐疑派としてどうしても確認したいことは当然「ダ○アナ妃ノーパン説」のほうだったのです。 婚約者同然の男性とホテルから出てきたという状況があり、さらにダ○アナ妃はその数日前に地中海のヨット上で事故車に同乗していた婚約者と親密な日々を過ごしていたというパパラッチによる証拠写真もあり、当夜もその親密さが続いていたと考えて差し支えないと思います。このため著者はコトの真相を徹底解明すべく日夜「努力」を重ねてきました・・・そしてその結論は実にあっけなく意外なものだったのです。 当時取材に当たったある雑誌記者が、以下のように「ダ○アナ妃ノーパン説」の真相を説明してくれました。 「ダ○アナ妃は凄い美人でした・・・美人は若くしてあっけなく死んでしまいます。 このことを古来より『美人薄命』と言います。つまり美人は『はくめい』、美人はパンツも『はくめい』、美人はパンツを穿くめい、美人であるダ○アナ妃もパンツを穿くめい・・・」 なんと「ダ○アナ妃ノーパン説」の真相がただの駄洒落だったとは・・・ やっぱり「努力」は報われないものなのです(~?~) あらぬことを考える 2006-09-26 00:50:58 ある人から「柔軟な発想のコツ」を問われました。 それは簡単です。あえて「あらぬこと」を考えること、あえて「不埒なこと」を考えることです。 脳の中で想像することに罪などありませんし、そもそも憲法は信教の自由を認めています。 だから「あらぬこと」も「不埒なこと」も考えていいのです。 他者はいかなることをしても、あなたの脳の中に入り込むことはできませんし、外部からあなたの脳が何を考えているのか知ることもできません。 この脳という私秘的領域を大衆が構築した法律や道徳等で抑圧するのではなく、あえてその世界に耽溺し、思うさま妄想の翼を広げて自在に飛び回ることが柔軟な発想の秘訣です。 そしてそのような体験を提供してくれる場所が「飾り窓の天使」であり、キャストさんはガイド役であり、その奥義が「脳内写生」なのです。 脳はもともと善悪の判断をしたがらないエゴイスティックな機関であり、善悪の基準は大衆社会が利害にもとづいて人為的に作り出した外部から押付けられたルールであって、脳はむしろ快楽と嘘や噂・空想・妄想・幻想・夢・白昼夢・幻覚等を好むファジーな機関なのです。 だからこそ人類は法律や刑罰・道徳・禁欲的宗教を生み出してきたのであり、それでも人類は相変わらず嘘をつき、噂を好みはかない夢を見てレベルの低い宗教にはまり、妄想に悩まされドラッグを好み心霊現象や占いに傾倒してきました。 むしろ脳は快楽と嘘や噂・空想・妄想・幻想・夢・白昼夢・幻覚等を「栄養」として欲しがっているのであり、あえてこれらの「栄養」を与えてやれば勝手にイキイキと活動しはじめ、理性というチャチな安全装置をすり抜けて予想もつかないイメージやフィクションを勝手に紡ぎはじめるのです。 脳内写生とは「犯罪者」に到ることなく、アジールと呼ばれる安全地帯で知的に妄想を羽ばたかせ脳を活性化せる手法のことであり、「飾り窓の天使」は上品かつ安全に、知的に「脳内写生」を楽しむことができる世界で唯一つのアジールなのです。 可愛いらしさについて 2006-09-27 00:00:38 いま、若い女性のあらゆる物事の判断が「カワイー」か「カワイクナイ」という唯一の基準で行われていることをご存知でしょうか? 若い女性たちはオシャレはもちろんのこと、キャラクター・グッズ、各種アクセサリー、ペット、スウィーツ等身の回りのあらゆるモノゴトについて、ただ「カワイー」か「カワイクナイ」かという視点でしか見ていません。 著者はそのあまりにも単純で幼稚な思考基準に危機感と危険性を感じており、この現象を最近「カワイー・ファシズム」と名づけました。 「ファシズム」(fascism)とは、【第一次大戦後に現れた全体主義的・排外的政治理念、またその政治体制。自由主義を否定し一党独裁による専制主義・国粋主義をとり、指導者に対する絶対の服従と反対者に対する過酷な弾圧、対外的には反共を掲げ侵略政策をとることを特色とした思想。イタリアのファシスト党に始まる。ファッショ】(三省堂「大辞林」より)のことです。 「一党独裁による専制主義・国粋主義」とか「指導者に対する絶対の服従と反対者に対する過酷な弾圧」などと言うと若い女性から「古臭い」とか「おおげさ・・・」と言われそうですが、実は若い女性は「カワイクナイ」もの(例:醜悪なもの・高齢者・憎たらしいもの・難解なもの・意味不明なもの等)に関しては一瞬で冷酷に切り捨てたり、無視したり「いじめ」たりします。 また「指導者に対する絶対の服従」についても、一部の女性タレントを模倣したり、最先端のオシャレ情報を発信する雑誌やショップ等に盲従するなど、その状況はもはや「服従」といっても過言ではありません。 しかも、このあまりにも単純で画一的な判断基準が、最近の若い女性たちの消費行動を支えているのです。 たしかに自由主義経済では「売れるものは何でも売る、この世には金銭に代えられないモノは何ひとつない」のですから、若い女性が好むモノを集めておけば商売が成り立つでしょう。 しかしちょっと考えてみてください。 目先の流行やファッションばかりを追いかける若い女性たちは、他者が企画した商品や何者かが女性たちに仕掛けた流行(欲望)に振り回され続けているだけの「あわれな世代」にすぎないのではありませんか? たとえば「ダイエット・ブーム」もそのひとつでしょう。 美しくありたい・スリムでありたい・可愛く見られたい・・・実はこれらの発想には「自分らしさを自分で考えて個性を生み出す」というスタンスが皆無なのです。 ニッポンの未来を担うハイティーンや20代30代の女性が、ただ他者によって企画された消費(流行・CM)に振り回されるだけの世代であるとしたら、我が国の未来は・・・どうなると思いますか? 賢い消費者とは、考えるチカラや洞察力がある消費者のことであり、「相手が売りたいと思う商品には売りたいだけの訳がある」「売れている商品には売れるだけの仕掛けとコストが掛かっている」とか耐久性とか、環境保護やリサイクルに配慮する消費者のことです。 ちなみにこのブログは大衆的女性からは決して「カワイク見られない」ことを誇りにしております。 新庄とグンゼのCM 2006-09-28 09:35:10 日本ハムの新庄選手が、今期限りで引退を表明しています。 新庄選手は高校野球→阪神タイガース→米大リーグ→日本ハムと野球人生を過ごしてきました。 実は新庄選手は野球選手であると同時に、多才な芸能人でもあるのです。 著者は9月16日のブログで、【スポーツとして楽しみつつ、美人の惜しげもないボディとエロティックなポーズや苦悩する表情を見て楽しんでいる(スポーツがあり)「汗と砂まみれのビキニ水着でプレイするビーチパレー」は「ウェット&メッシー」(泥んこまみれ・ずぶ濡れ等に性欲を覚える嗜好)と呼ばれるエロティシズムの愛好者にとっては、こたえられないエロティックな競技である】と性愛懐疑派として大胆な発言をしました。 考えてみると新庄選手もある意味で「エロティックでセクシーな男性スポーツ選手」であると定義することができます。 たとえばグンゼのTVCMの中で新庄選手は「ちゃんとした下着を穿こう・・・」という興味深いメッセージを発信しています。 男性の場合、子どもの頃から母親にパンツを買ってもらい、結婚すると今度は妻にパンツを買ってもらっています。 著者の場合も、独身時代に自分のパンツを買うときなぜか妙に照れくさかったことを覚えています。 そして、ほとんどの男性はなぜか下着にお金を使おうとしません。 たぶん男性は下着の管理を母親や妻に委ねることで、女遊びや浮気をしないことを(性的に潔白であることを)母親や妻に対して証明したがっているのかもしれません。 つまりグンゼは新庄をTVCMに起用することで「男性も自分の意志で堂々とパンツを選ぼう」「誤解を恐れるな!」という画期的な提案をしているのです。 それにしてもオトナになった男性がなぜ自分で下着を選ぼうとしないのか?これはとても面白いテーマです・・・ (ちなみに著者はグンゼさんから謝礼等を受領しておりません、念のため) 女性の結婚観について 2006-09-29 01:30:26 公的機関が独身女性を対象にした恋愛に関する調査の結果を見て、ここにも少子化の原因があったのかと思わせるデータがありました。 それは独身女性が恋愛の対象としている男性の条件が「経済力がある人」に集中しているという事実です。 たしかに経済力がある男性と結婚すれば豊な生活が保証されるでしょう。 しかし一般企業の寿命は平均でせいぜい10年〜20年と言われ、大企業といえども業績の浮き沈みがあります。 もちろん公務員といえども例外ではありません。 行政改革の流れが変わらない限り、行政庁の民営化やリストラ・統廃合は避けて通れない状況であり、わが国の10年先の経済状況は専門家ですら予測できない時代を迎えています。 こうした状況で、はたして長期的に見て「経済力を維持できる男性」がどれだけいると思いますか? もしかしたら、独身女性が恋愛の対象としている男性の条件が「経済力がある人」ということ自体が女性にとっての「夢」であり、この条件そのものが「夢見る結婚願望」の現れではないのかと思えてなりません。 さもなくば、独身女性が本気で恋愛の対象としている男性の条件が「経済力がある人」というのであれば、その結婚観は「打算」によって成り立っていると言わざるを得ません。 しかし「玉の輿」の結婚は、夫側から見れば「妻のただ乗り」なのであり、妻が少しでも意に沿わないことを行えば当然夫は「降りろ」という態度に豹変する可能性が高くなります。 えっ?「そんな口うるさい男は初めから相手にしない」と言う訳ですか? では逆にお尋ねします。 「経済力があって、なんでも甘やかしてくれる男性」と「経済力があるが、何かと干渉したがる男性」と、どちらが多いと思いますか? 経済力があることを長期間維持できるということは、それなりの才覚がある人物であり、愚か者ではないことを意味します。そのような才覚がある男性が、浪費家で遊んでばかりいる女性を伴侶に選び、生涯連れ添う可能性はあまり高くないと思います・・・ 恋に落ちることは大人のオンナの特権なのですよ。経済力がある男性を物色するのではなく、打算も夢も捨てて胸がキュンとなるような熱い大人の恋を思いっきり「むさぼる」ことがオンナの命なのです。 「恋愛と結婚は別物」ですって?ほら、それが打算的発想なのですよ。 どうして女性たちは打算的発想から抜け出せないのかな・・・ 少子化の問題も、打算的な結婚しかしなくなった若い女性たちの増加と連動しているのかもしれない。 (実は「若い女性とは、いくつまでのことか」とある女性から質問され困っています) 亀田兄弟・疑惑の判定? 2006-09-30 00:21:10 プロボクシングの判定をめぐって様々な疑惑が囁かれていますが、格闘技・特にプロの格闘技ならどちらかが倒れるまで戦うべきであり、もし引き分けならすぐ再試合を開催して誰もが納得できる結果を出すべきです。 それが高いお金を払って見に来ているファンに対するプロの格闘家のプライドと誠意であると思います。 かつて15ラウンド制であったボクシングが今では5ラウンド制に縮小され、体力が温存されやすくなったので、著者は明快なKO勝ちが増えると期待していたのですが、むしろ多くの試合が審判の判定によって勝ち負けが決められています。 こうなるとプロボクシングを真剣勝負として見ること自体が間違っているのであり、むしろプロボクシングもプロレスのようにあくまでも「見世物」や「興行」として見ていたほうが気楽に楽しめるのかもしれません。 著者がボクシングを好むのは、ボクシングが最も原始的な競技であり、相手をひたすら殴り倒すために真剣に戦うという単純さに魅せられるのであって、映画「ロッキー」より迫力がある「丸腰の闘争(ファイティング)」を恐がる美女を同伴で見たいからです。 従って何者かが陰で操っている試合に高いお金を払って見に行き、審判の裁定に腹を立てることほどアホらしいことはありません。 同様にオリンピックや国体等の柔道の試合で見られる「有効」「効果」「指導」という審判基準も釈然としないものがあります。 素人の著者でさえ、柔道とは「小よく大を制する・柔よく剛を制する」ことが特徴のわが国固有の競技と思っていましたが、もはや柔道も単なる体重別の「ちから技」と「判定中心」の競技になってしまい、どう見ても「畳の上のレスリング」に成り果ててしまった・・・姿三四郎が嘆いていると思いますよ! もはや国際競技の場で「ニッポン柔道の精神」など通用しないのであれば、わが国の伝統ある武道・柔道は思い切って国際競技から撤退することも伝統を守る一つの方策であると考えています。 民主党のスキャンダル 2006-10-01 00:59:43 かなりの人が薄々気付いているはずなのですが、民主党の相次ぐスキャンダルは自○党が仕掛けているのであり、このことに気付かず、あるいは気付いていてもガードが甘すぎるために、いつも自○党が仕掛けた落とし穴に見事にハマルのが民主党なのです。 たとえばライブドア事件のとき永田議員が国会に持ち込んできた堀江氏が送信したとされるメールも、送信と受信に同じユーザのメールアドレスが書かれているのを確認した時点で、これを国会に持ち出し自民党の武部幹事長を名指しで追求したら恥を掻くのは自分であると考えるべきなのです。 アメリカでも大統領選挙の最中に「ブッシュ氏は軍歴を詐称している」との元戦友のニセ情報にもとづき、対立候補がこのことを選挙戦のテーマに据えて糾弾したことがありましたが、接戦と言われながら結局ブッシュ氏の勝利に終わりました。 古来より権力者は謀略を好むのであり、権力闘争の場では謀略に乗せられたほうが敗れ去るのです。 ちなみに民主党は選挙のたびに選挙違反が暴露され、大阪市では民主党を支持する労働組合の専従職員が市から給与を受け取っていたとされる「ヤミ専従」事件や民主党議員の学歴詐称問題・秘書給与詐取事件など不祥事があいつでおり、こうした一連のスキャンダル・不祥事を見ていると民主党には反省する能力や自浄作用が欠落しているように国民は思い込んでしまいます。 確かに民主党の体質やガードの甘さもあるでしょう。 しかし「謀略のない権力闘争はない」という長い経験則から見ると、民主党の相次ぐスキャンダル・不祥事がすべて事実であるとしても、それを公表するタイミングや影響を及ぼす範囲、あるいは情報収集に関しては、かなりの部分を自○党・連立与党および公権力側が巧妙にコントロールしているとみなすのが「正しい見方」なのです。 このため自○党・連立与党および公権力側はすでに「民主党は謀略戦にきわめてもろい」と見切っていると思ったほうがいいと思います。 ダイアナ妃と地雷について 2006-10-02 00:55:07 「若い女性とは、いくつまでのことか」とある女性から質問され困っていますと29日のブログに書いたら、「かえる」さんから「若い女性とは29歳までです」という「問題発言」がありました。 では30歳の女性は、もう若くないのですか?たとえ45歳を過ぎても若々しくて魅力的なマダムもいるのですよ。 むしろ女性は実年齢よりも肌年齢とか骨年齢・内臓年齢・お尻年齢・脳年齢(精神年齢)が基準なのですよ(笑)。 ----------------------------------------------------------------- 英元皇太子妃ダイアナさんが生前、地雷の撲滅に尽力していました。 彼女がヘルメットと防具を付けて自ら地雷探知機を操作している報道写真をご覧になった読者の多いと思います。 地雷は殺傷兵器であると同時に、実は兵士や市民の足を奪う兵器でもあるのです。 たとえば戦場で兵士が戦死した場合、遺体をまとめて母国まで「輸送」することが可能ですが、傷病兵の場合は母国に到着するまで治療を行ったり看護したり食事を与えたりする者が必要であり、手厚く搬送するための人員や輸送手段に様々な配慮が必要となります。 また傷病兵が母国に帰還すると「英雄」として表彰したり、「名誉の負傷」として見舞金や年金を支給し、その後家族も傷病兵の看護に多大な労苦と負担を強いられることになります。 このため地雷で足を奪われた兵士や市民が増えると戦争を支えている国家と銃後の国民が経済的に疲弊してしまい、しかも戦争終結後もその悲惨な状況が長期間続くことになります。 ダイアナさんが生前、地雷の撲滅に尽力していたのは、まさに地雷が「悲惨な経済破壊兵器」であるという事実に気付いていたのであり、結局地雷による負傷者が増えることは家族も社会も国家も50年〜100年という長期にわたって悲惨で深刻なダメージが残ること、そして戦争が終結した後も放置された地雷によって多くの市民と子ども達が生命を落とし、あるいは足を失っていることを世界にアピールするためであったのです。 ダイアナさんの地雷撲滅運動は単なるパフォーマンスにすぎなかったという批判を承知の上であえて言えば、自発的にあるいは受動的にせよ彼女が地雷撲滅運動を提唱しなければ、誰も地雷の悲惨さに注目しなかったのであり、この事実だけでも彼女の立派な功績であると著者は思います。 ところで、いつかダイアナさんの足についてお話を致しましょう・・・ 代理出産について 2006-10-03 01:33:19 不妊治療のひとつの選択肢として配偶者同士の受精卵を人為的に第三者の子宮に着床させて代理出産してもらう「代理出産」について、不妊治療の現場では合法化すべきであるとの考えが主流になりつつあるのに、国や産科学会は一貫してこれを認めない立場を取ってきました。 すでに国内では長野県の産科医院で、配偶者同士の受精卵を人為的に第三者の子宮に移植して代理出産に成功しています。 また配偶者同士の受精卵を義理の姉に移植して代理出産したケースもあり、アメリカ等で代理出産を行う夫婦や、代理出産をあっせんする業者や、それを利用する夫婦も出現しています。 しかし厚生科学審議会生殖補助医療部会は、あくまでも代理出産は罰則付きで禁止すべきであるとの報告者を厚生省に答申しています。 その理由として、代理母を生殖の手段として認めると一夫一婦制や婚姻制度が崩壊するとの懸念や、代理母との間で親権を巡る争いが起きやすいとの理由が挙げられています。 さらに日本産科婦人科学会も、「代理出産は家族関係を複雑にし、社会秩序に混乱をもたらす代理出産契約を社会が許容しているとは認められない」こと等を理由に、代理出産を禁じています。 このため国も混乱を避けるため、代理出産の禁止を含む生殖補助医療の新法制定を目指していますが、自民党から「子どもを産む権利を国が規制するのはおかしい」などの反発を受け、法制化が遅れていました。 特に不妊治療にたずさわる医師の多くは、「代理出産は不妊夫婦にとって最後のの選択肢であり、一律に禁止すべきではない」と日本産科婦人科学会の指針に批判です。 今回、東京高裁が代理出産によってもうけた子どもを遺伝子上の親である夫婦の戸籍に実子として登記すべきであるとの判決を下したことは、勇気ある決断であり国内の代理出産が加速することは避けられないと思います。 性愛懐疑派は「誰の子どもを産むのか・産まないのか、誰のために子宮を活用するのか、それは女性が自己決定すべき権利」であり、男どもが女性の子宮の問題に口を挟むから、いつまでたっても不妊治療にまつわる代理出産が前進しないのだと考えています。 働く女性が増えて出産・育児に時間を裂けなくなって出生率が低下し、少子化が進行しているのですから代理出産をむしろ奨励することで出生率を高めるべきなのです。 ぜひ女性の皆さんも、もっと積極的に不妊治療について発言してください。 ところで将来人工子宮が登場すれば、当然男性の出産も可能となります。 そうなると未来の男性は仕事や外見だけでなく「この男性に私の赤ちゃんを産ませたい」と女性が思うような「男性」の妊娠・出産・育児能力が評価される時代になるでしょう オタク受難時代 2006-10-04 02:46:33 東京・秋葉原の電気街で高校生グループが「オタク狩り」と称してフィギュア等を買いに来ていた「アキバ系少年」を恐喝し、逮捕されたのだそうです。 同様の事件がすでに25件(被害総額約35万円)発生していて、高校生グループは「アニメオタクは体力が弱く、お金を持っていると思い狙った」と供述しているとか・・・ しかしよく考えてみると、「お金を持っていると思った」と供述しているのに上記被害総額約35万円の1件あたりの恐喝金額は平均で14,000円であり、他の報道によればほとんど場合数千円の恐喝額にすぎなかったようです。 この小額の金銭を数人で分配していたのであれば「アニメオタクはお金を持っていると思った」とする考えをもっと早く放棄して、25件も犯行を繰り返す前に「アニメオタクはお金を持っていないぞ」と早く気付くべきであったのです。 「飾り窓の天使」の「脳内リフレッシュ」という世界に類を見ないコンセプトを考案したとき、スタッフは早くから「アニメオタクはお金を持っていない」事実に気付いており、同店舗の場合「30歳前後〜60歳くらいまでの幅広い世代の中のごく限られた知的な例外者」を対象としてお店のコンセプト作りを行いました。 その際、コンセプト作りに参加していた著者は「オタク文化はすでに20年以上続いており、海外にまで『オタク』というブームが波及しているのだから、これからは成熟したオトナのための『オタク文化』を育てる必要がある」と力説したことがありました。 これこそ秋葉原にもない池袋にもない新しい文化なのであり、その中心的テーマが「脳内写生」なのです。 人は見た目が9割か? 2006-10-06 02:14:50 「人は見た目が9割」竹内一郎:著がベストセラーなのだそうです。 「人はオシャレやお化粧・ヘアスタイルで大きくイメージが変わる・・・理屈はルックスに勝てない・・・日本人のための非言語コミュニケーション」というサブタイトルが目を引きます。 しかし、人は見かけや姿かたちではありません。 人は内側から「にじみ出してくる」、付け刃ではない才能や魅力・落ち着き・迫力・個性が重要な非言語コミュニケーションのファクターになっているのであり、外見だけで非言語コミュニケーションが成り立つという主張は余にもずさんで軽薄です。 確かに「さりげなく装う」ことは必要かもしれませんが、飾らない服装・質素な身なりであるにもかかわらず魅力あふれた存在感が感じられる人物こそ非言語コミュニケーションの上手な使い手と言うべきでしょう。 見た目にこだわると流行やファッションに振り回されることになり易く、外見だけの中身がない人物になりかねません。 優雅で洗練されたマナーや身のこなし・言葉遣い・清潔さ・育ちの良さも「見た目」の一つかもしれませんが、しかしこの本の「見た目」とはオシャレやお化粧・ヘアスタイル等の「外見」のことを「見た目」と言っているようです。 たとえば「一目惚れ」は見た目で起きる現象でしょうか? 外見だけで「一目惚れ」したら、生身の現実(パートナーが臭いオナラをした等)に直面したとき恋はいっぺんに破綻してしまいます。 そうではなくて、フィーリングや波長が合いそうだ・肌が合う・瞳に恋をした・・・これが「一目惚れ」の正体であると思うのですが。 落書きについて 2006-10-07 00:51:52 玉子さんからメッセージです。 「男性には不妊治療の厳しさ、辛さ、痛さ、不安、そして、あの恥ずかしさはわからないだろう。本当に辛い」 そうでしょうね。想像するしかありませんが・・・それで、玉子さんは代理出産は、どのようにお考えですか? 国は東京高裁の判決を不服として上告するそうです。 ----------------------------------------------------------- 街なかに見られる様々な落書きを「タギング」(Taging)とか、グラフィティーと言います。 建物の外壁や閉まっているシャッターに自分の名前や所属するグループの名称を記号(TAG)化したり、シンボル化して落書きする行為がタギングであり、もともとはアメリカのスラムを支配していた二つのギャングが互いの縄張りを示すために支配下の建物等に固有の記号を書いて勢力を誇示したのが始まりとか、荒廃したスラム街を明るくするために落書きが始まったと言われています。 一部に「タギングはアートだ、芸術だ。表現の自由だ」と主張する愚者がいますが、タギングは断じて芸術ではありません。 まず芸術とは、他人の所有物(建物の外壁・道路の側壁・電柱・ガードレール等)に無断で落書きする行為とは明確に異なります。 そうではなくて、あえて言えば芸術とは、展覧会で評価されたという経歴を有する擬似芸術の生産者と、一儲けを企む美術商が作りだした「芸術と言う名前の、たくらみに満ちた商品群」のことであって、これら芸術と称される商品は鑑賞者や消費者を明確に意識して生み出され、鑑賞する者の価値観に従属したイメージの切り売り品なのであり、同時に音楽を含めて芸術を商品として売買したり、投資や投機の対象として扱うビジネスのことです。 むしろタギングは芸術にすらなれない無力な行為であり、いわんや縄張り争いや自己主張・自己表現ですらなく、犬が町内のあちこちの電柱に小便をひっ掛けて歩くことで自己の存在を示す「マーキング」と変わらない行為、つまりモテない小心者の自己満足ないし憂さ晴らしなのです。 だからこそ街中に落書きが氾濫するのであり、人目を避け隠れて行う卑劣な行為にとどまざるを得ないのです。 タギングは芸術でも自己表現でもありません。 タギングを減らすためには、悪質な器物損壊や景観保護法違反・不法侵入として厳正に刑事告発すべきなのです。 生理ナプキンのCM 2006-10-08 01:09:37 「よれない・もれない」のフレーズで有名な生理ナプキンのCM。 テレビのCMや雑誌等の広告に登場する生理用品のキャッチコピーや、そこで使用されているイラストについて、性愛懐疑派として日頃感じていることを書きたいと思います。 まず下記に、著者が目にしたいくつかの生理ナプキンのCMを引用します。 「夜用スーパーガード」「ハネ付き・超吸収体」「しっかり吸収・超熟睡ガード」「まん中ふっくらフィットで安心・経血を広げずにピンポイントで吸収」「 朝までガード32・安心超ロング 特に多い日の夜用羽つき」「さらふわシート・・・多い日でもナプキンの表面は気持ちいいさらふわ感が続きます。中央に『幅広バックガード』を採用し、すみずみまでしっかり吸収し、寝ているときもしっかり後ろモレを防ぎます。特に多い日の夜でも安心の32cm超ロングサイズ」「よれナイト構造33?・36?・40?」「『座るときガードスリム・多い日長時間用羽つき』は、コットンのようなふわっと感と、メッシュのようなサラッと感を両立した「さらふわシート」を採用したスリム型生理用ナプキンです。多い日の粘度の高い経血も素早く吸収し、ジェル状に固めて閉じ込めます。大きなウィングでショーツにしっかりと固定し、ズレやヨレを防ぎます。デスクワークや会議など、長時間座っている時にも安心のロングサイズです」「『ボディフィット熟睡ガード』は、ダブルブロックラインとダブルの塞き止め効果のある、夜用ナプキン。長いだけのナプキンでは防ぐ事ができなかった、お尻の谷間の伝いモレを塞き止め、更に後ろモレも防ぎます。サイドは高さ2cmのふわピタギャザーを採用。ナプキンを持ち上げて、身体にフィットさせます。表面素材は、経血が肌に触れる部分が少ない広げずにその場で吸収するシートを採用しています。羽付き29cm」「『軽やかスリム羽つき』は、つけているのを忘れるような快適な使い心地の生理用ナプキンです。表面素材に、経血を広げずにその場で吸収する『広がらない吸収シート』を使用しているので、経血が肌に付着する面積が少なく、肌への負担が軽減されます。また、ムレを逃す通気性シートなので、さらさらの使い心地が続きます。つけているのを忘れるような超薄コンパクトサイズで、快適にすごせます。軽やかな印象のフラワーデザイン。軽い日用におすすめです」「高吸収ポリマーが経血を吸収し、ゼリー状に固めて閉じ込めるためモレの心配もありません。余分な湿気だけを外に逃がす通気性シートでムレを防ぎ、爽やかな感触を保ちます。また、パウダーを練りこんだメッシュシートが肌への摩擦を少なくし、サラサラ感を持続させ、肌へも負担がかかりません。25cm・うす型・多い日用・羽ギャザー付」 これらのコメントには青い液体が一瞬で吸収され逆流しないリアルな映像や、女性の下腹部の形状と生理用ナプキンの形状を重ね合わせ回転させながら、あたかも下腹部を透視して見せるようなCGを駆使した立体的でより具体的な映像と組み合わされ、さらにこのCMが上記のコメントと共に毎日のように食事時や家族団欒の時間帯に公然と繰り返し流されています。 またたとえばスーパーマーケットの生理用品コーナーは、うっかり男性が迷い込むと眼のやり場に困るようなキャッチコピーが氾濫しており、性的に未熟な児童にとって刺激が強すぎるのではないかと思うこともあります。 たぶん「特に多い日の夜でも安心・40cm」とか「お尻の谷間の伝いモレ」などと聞かされたり、露骨な映像を駆使した生理用品のCMを見せつけられると、性欲が淡泊な若者はますます性欲が萎えてしまうし、その一方であまりにもリアルに想像力を刺激すると、女性用トイレに忍び込んで使用済みナプキンを盗み出すような倒錯した状況すら生まれてしまうのです。 男のクセに生理用品にまで口を挟むな・・・という女性からの苦言が聞こえるようですが、著者は決して女性の月経を汚いとか、不快であると言っているのではありません。 テレビの視聴者の半分は男性であり、子どもたちも見ております。 できれば女性の慎み深さ・たしなみとして、生理用品の広告が男性や子どもの目に触れにくいように女性の側からメーカーに対して自粛や配慮をお願いして欲しいと願っております。 たしかに女性の社会進出を陰で支えたのは進化し改良された生理用品であったことは事実と思います。 阪神淡路の震災では怪我の応急手当に生理用ナプキンが代用され、とても重宝したという医師の話も聞いたことがあります。 これらの事実を承知の上で、あえて生理用品のCM広告が少しばかり露骨でデリカシーに欠けていることを、肝心の女性たちが気づいていない・指摘しないことが腑に落ちないだけなのです。 日本スケート連盟 サマ 2006-10-09 00:12:09 品格なき衆愚社会が蔓延しています。 衆愚という単語は「衆愚政治」という熟語にのみに用いられて来ましたが、大衆はもともと「衆愚」(愚かな群衆)なのであり、衆愚社会ではあらゆるものが品格を失い、あらゆる体制は腐敗する宿命にあるのです。 ?大阪「飛鳥会」えせ同和事件 大阪市が同和対策事業として運営を受託した市営駐車場の収入を着服した業務上横領の罪と、市職員と共謀して健康保険証を同市から詐取した詐欺の罪に問われた財団法人「飛鳥会」元理事長、小西邦彦被告(73)の初公判があり、元理事長は総額6億円の横領を認めました。 小西被告は起訴事実を認めたうえで「(同和を名乗ると)暴力団より金もうけがしやすく、絶大な権力が手に入る」と考え、部落解放同盟大阪府連飛鳥支部長に就任した(小西被告は元暴力団組員:支部長のポストは事件後解任された)。 大阪市の同和対策事業をめぐっては、旧芦原病院への不正融資や市発注の造園事業での競売入札妨害事件など不祥事が相次いで表面化しています。 それにしても「(同和を名乗ると)暴力団より金もうけがしやすく、絶大な権力が手に入る」と供述されると、「同和問題」が人権問題なのではなく利権や恫喝に利用されていることがあからさまに暴露されて痛快ですらあります。 財団法人「飛鳥会」は「えせ同和」の元暴力団員を理事長にするほど、いいかげんな組織なのですから、もはや財団法人の資格がないのではありませんか? --------------------------------------------------------------------- ?日本スケート連盟の背任事件で、元会長の久永勝一郎容疑者(75)が警視庁捜査2課の調べに対し「甘い汁が吸いたかった」と不正経理の動機を供述しました。 同連盟はイベント会社に水増し請求させる方法で裏金計約6300万円をねん出し、久永元会長が着服していたのだそうです。 久永元会長と元専務理事の松本充雄容疑者(69)らは、年1回開かれる「NHK杯」に協賛した航空会社から、スポンサー料として約1000万円を現金でなくファースト、ビジネス両クラスの航空券で提供してもらっており、自分たちだけで国際競技に遠征する際にこの航空券を使っていたようですが、実は選手たちにはエコノミー券を渡し、しかも航空券代を2割自己負担させていたそうです。 荒川静香さんも2割自己負担させられていた選手の一人なのです。 また久永元会長は連盟の「国際事業委員会」の事務局を自分が社長を務める健康食品販売会社内に設置し、家賃として年間約1700万円を事業委員会から受け取っていましたが、なんと事務所を借りるにあたって理事会の承認もなく、年間約1700万円も支出すると言うのに契約書も作成されていませんでした。 さらに、久永元会長は世界フィギュアスケート選手権大会の準備室と称して都内のマンションの一室を借り、事業委員会から賃料として約310万円を受け取っていました。 華やかなアマチュア・スポーツであるフィギュアスケート連盟の最高幹部が「甘い汁を吸いたかった・・・」とはあまりにも「セコい・セコすぎる」 衆愚社会ではあらゆるものが品格を失い、あらゆる組織と体制は腐敗します。 ピア・エデュケーション 2006-10-10 02:49:45 「ピア」は英語で仲間のことであり、ピア・エデュケーションとは年齢の離れた教師やカウンセラー等の専門家が上から述べる教育ではなく、同世代の仲間や共感し合える人たちが一緒に話し合うことで問題解決の手がかりを見つける手法のことであり、いま性教育の現場で効果を上げているのだそうです。 確かに教える人と学ぶ人の年齢差が少なければ互いに共感し合え、言いにくいことや尋ねにくいことでも気楽に話せたり素直に話を聞くことができるのかもしれません。 ピア・エデュケーションは欧米では10代の妊娠問題対策として、また開発途上国ではHIVの予防活動として広く行われており、日本では、東京都が「エイズ・ピア・エデュケーション事業」を実施したり、一部のNPO法人や大学などでもこの活動が行われています。 「ピア・エデュケーションでエッチ・愛・カラダ」(劔 陽子:ツルギヨウコ著 明石書店刊)によれば、劔さんは福岡県の産業医科大学で公衆衛生学助手を務めながら、大学生と一緒に地元の中学校、高校を廻りグループディスカッションやクイズ、ゲームなどを行いながらピア・エデュケーションによる性教育を実践してきました。 その結果「性のことや自分のセクシュアリティーを語ることをタブー視する傾向はいまだにあるが、同世代で一緒に話すことで垣根が自然になくなっていく。この動きに巻き込まれて大人側の意識が変わっていく効果もある」と成果を強調します。 しかし、コミュニケーションが苦手な世代が友達に心を開いて性に関する率直な質問を行い、それに対して冷静で誤りのない正確な回答を、はたして同世代の友達が誠実に親身に答えてくれるのでしょうか・・・ 我が国の若者はディスカッションが苦手であり、自分の考えを持たず仲間同士の絆が希薄であるといった実情をどこまで考慮しているのか大いに疑問が残ります。 それよりも、同世代と言いながら一部の訓練されたスピーカーが疑似仲間や疑似友達として若者に接近し、10代の妊娠のリスクやHIV感染予防の「教育」をしているだけではないのかと著者は懐疑(深く考えること)しています。 性愛はある程度試行錯誤しつつ、様々な葛藤のなかで会得し学んでゆくべき「ひめごと」であって、その過程が人格形成にとってきわめて重要な経験となるはずです。 誰かに相談したい・・・でも話せない・・・そして悩み迷い苦しむ。 誰もがそうしたつらい体験を通じてオトナになって来たのです。 性愛の世界こそ相談しにくい告白しにくい部分をそっと残しておいて、あえて悩み迷い苦しむという経験を若いときにさせることがマニュアル世代には必要であるのではありませんか。 ちなみに劔 陽子さんがその著書のタイトルに軽薄な「エッチ」という言葉を用いたことに著者はかなり失望しています。 性愛や官能的快楽を真摯に語ろうとするのであれば性行為のことを軽々しく「エッチ」などと表記すべきではありません。 またその本のタイトルで「愛」と「エッチ」を並べることで「愛があればエッチしてもよい」と誤解するような印象を与える可能性も憂慮すべきです。 「愛があればエッチしてもよい」のであれば10代の妊娠は防ぐことができなくなります。 愛などあてにしてはいけません。愛ほどあてにならないものはないのです。 むしろ女性には「誰と性交するのか・誰と性交しないのか・誰と性交してはならないのか」を、熟慮のうえで自分で決める「性的自己決定権」の確立こそ大切なのです。 この認識が欠如しているからこそ、安易な援助交際や成り行きまかせの「エッチ」が横行し、HIVや10代の妊娠が止まらないのです 高齢者登山について 2006-10-11 00:31:47 高齢者の登山がブームですが、50歳以上の登山は余程のベテランでも高度に適応できなかったり、天候の急変に遭遇したとき気力やスタミナ切れ・体温の低下等で動けなくなってしまうことがあります。 たとえば、1500m級の山や残雪が残る春山登山、あるいは初雪が降ったあとの晩秋〜初冬の登山では若い体力でも装備の重さと足場の悪さで平地の半分の体力しか発揮できませんし、3000m級の山や冬山となると平地の3分の1以下の体力しか発揮できません。 このため高齢者中心の登山パーティのリーダーは同世代ではなく、若くて体力があるベテランの登山ガイドを選ぶことが重要であり、そうでないといざと言うとき、動けなくなった高齢者を背負って避難できずに集団遭難になりかねません。 最近多発する高齢者登山の遭難事例を分析してみるとリーダーが皆同世代であり、これでは予想外の天候の急変や仲間の一部のスタミナ切れ・酸素不足・登山中の不充分な食事による体調不要・怪我人が出る等の悪条件が重なったとき充分なリーダーシップが発揮できないため高齢者登山パーティ全体が遭難する危険率がかなり高くなります。 初老という世代は、まだどうしても若いときの体力が脳裏にイメージとして残っているため、平地や低い山歩きでは「まだまだ大丈夫」と過信しがちなのですが、高所では予想のつかない体力の消耗が起こりうるのであり、充分な自戒が必要です。 これはあまり言いたくないのですが、昔・山で遭難すると所属の山岳会や親族は高額のチャーター・ヘリを雇って捜索をしていました。仮に冬山で1週間遭難者を捜索した場合、1000万円以上の出費がかさんだ時代もあったのです・・・ しかし今では消防や警察・自衛隊の救助ヘリが無料ですぐ出動してくれるので、これをあてにして始めから装備を軽くし、携帯電話等を持参してトラブルが起きると堂々と救助を要請する登山ガイドもいるのだそうです・・・ でもよく考えると、みんな国民の税金でまかなわれているのですよ。 また、もともと登山はどちらかというと、ストイックな傾向が強い人がはまり込むことが多く、高齢になってから登山を始めると、さらに「がむしゃらに」山登りに突き進んでしまい、自己の限界を超えても気付かないこともあります。 山岳ガイドや登山の案内書も、こうした危険性を指摘してくれると高齢者登山の遭難が減ると思うのですが。 (ちょっと意地悪な遭難防止の標語を考えました) 【最近「○○山系の水」とか「○○岳の天然水」とネーミングされたミネラル・ウォーターを良く見かけますが、もし山で遭難して発見されないと、アナタはミネラル・ウォーターの隠し味になることをお忘れなく・・・】m(_ _)m サンマが食べ頃 2006-10-12 00:04:07 生理用品のCMについて、ある女性からコメントを頂きました。 【男性がリアルな生理用品のCMを見て「デリカシーがない」と感じていることを初めて知り、驚きました。女性にとって生理はつらくて不快なものであり、少しでも快適に過ごしたいと思う気持ちから、女性は皆生理用品のCMはしっかりチェックしています。だってドラッグストア等でパッケージされた生理用品を見ても、中身がどうなっているのか良く分からないし、開封するわけにもいかないでしょ?それにいろいろな種類があるから・・・だから詳しい生理用品のCMは女性には必要なんです。それにしても生理用品のCMをよくもまあ調べたものです】 なるほど、そういうことだったのですか・・・男と女の間にはまだ深い河があるのですね。 実は生理用品のCMを調べるのはカンタンです。キーワード検索で「生理用品」と打ち込めばメーカー各社のURLがすぐ判明します。 そして大手のメーカーはTVCMをそのまま動画で流しています。 別にマニアックに調べなくても、あの程度の情報はすぐ入手できるのですよ。もちろんサイトは男子禁制ではありませんでした。 でもたぶん女性の読者は生理用品のCMを調べた著者を「キモイ」と感じたことでしょう・・・ ---------------------------------------- ところで、女性9割以上が「おなかのたるみ」に悩むんでいるのだとか。 美顔・美肌・美脚・美爪(ネイルアート)・美髪(ヘアメイク)・美尻(小尻)の次は、どうやら「美腹」ブームであるらしいのです。 女性は自分のおなかを掴んで「むにゅっ」とする瞬間に嫌悪感を感じ、女性の9割以上がおなかのたるみや形を気にしていると「ワコール」が発表しました。 そのアンケートによれば、「おなかが気になりますか」との質問に、 「気になる」と答えた女性は93・3%。すべての年代で90%を超えていました。 「気になる」と答えた男性は、20代が72%、30代が86%、40代が87%、50代が75%で、年代差が見られたそうです。 また「自分のおなかが気になる瞬間」(複数回答)では、 男女ともに「姿勢悪く座った際におなかの肉がむにゅっとなる時」が第1位。 「他人のおなかを見てしまう瞬間」(複数回答)では、 女性の1位は「へそだしファッションをしている人に出会った時」(51・8%) 2位は「ぴたっとした服を着ている人に出会った時」(50・8%) 男性の1位も同じ「へそだしファッションをしている人に出会った時」(33・8%) 2位は「特に見てしまう瞬間はない」(32・8%)でした。 だから「ヘソ出しファッション」はインパクトがあるのですね。 でもちょっと考えてみてください。このアンケートは裏読みもできます。 男女ともに90%以上が「おなかが気になる」と回答するのであれば、男女ともに「おなかが出ている人が大多数である」ことになり、「おなかが出ている」ことがむしろ一般的・普遍的であることになりませんか? それをワコールさんはあえて「おなかはスリムに限る」と強弁することで、「おなかがスリムにみえる下着」を販売したい・・・との戦略にも思えるのですが。 どうやら、ダイエット食品と似たようなカラクリがあるのかもしれません・・・ それはさておき、ワコールさん、この「おなか」もなんとかしてください! 「おなかはスリムに限る」と打ち込むべきなのに、「サンマは目黒に限る」と打ち込みそうになる今日この頃なのです。 どっちもどっち 2006-10-13 01:38:52 ある男性の身の上話しです。 結婚を前提に交際していた女性が「あなたが結婚しようとしている男性は同和地区出身者らしい」と言う他人の中傷を信じてしまい、そのことを理由に婚約破棄を通知してきました。 しかし彼は同和地区出身ではなく、後日彼女もその誤りに気付いたのだそうです。 ところが、その間に彼女は別の男性と婚約を交わしてしまったとのこと。 いま彼は彼女を婚約不履行で訴えることを真剣に考えているのだそうです。 この場合、整理しなければならないポイントがいくつかあります。 1.はたしてお互いに「婚約」状態あることを認識していたのか? 2.同和地区出身であると中傷した人物を特定できるのか? (この人物こそ最も悪質であり、名誉毀損の疑いもある) 3.すでに同和問題は存在しないと表明するのが政府および法律上の公式見解ですので、同和地区出身者であると誤解したとしても、それを理由に婚約を解消した場合婚約不履行が成立する可能性が濃厚です。 4.一方、同和地区出身と聞いただけで、すぐ婚約破棄するような女性を伴侶として選んでいいのか? 5.また、婚約解消や失恋の痛手を受け手いるはずの女性がすぐ別の男性と婚約したとすれば、一時的な逃避で手近な結婚相手と結婚する弱いタイプか、あるいは相当な「尻軽女」である可能性がある・・・ 結局、婚約不履行で訴え、新しい婚約者を法廷に呼びだして「婚約」の正確な時期を証言させることで相手側に動揺を与えると共に、女性に対して慰謝料を請求することで溜飲を下げるか、こちらから「のし」を付けて「キズモノ」の女性を見知らぬ男に進呈するかのどちらかであると思います。 どっちもどっち、実に大衆らしい、衆愚らしい身の上話しでした。 それにしても、いまどき同和地区出身者であることを理由に婚約破棄をする人が実在するとは・・・情けないですね。 はたして同和問題について、彼女がどれほどの知識を有しているのか疑わしいと思います。 またありもしない同和問題を理由に婚約破棄をしたら、即「婚約不履行」になることぐらい常識の範囲であり、他人の噂に惑わされて事実の確認すらしないまま、すぐ他の男性と婚約するほど軽薄な女性と結婚を前提に交際していたとは、男性もあまりにも人を見る目がなさすぎます。 著者はこのブログで何度か同和問題を取り上げてきましたが、すでに法律上は同和問題は存在しません。 従ってまだ「同和」を名乗る人がいるとすれば、それは「恐喝屋」か「同和をカタルことで利権にありつこうとするエセ同和」であり、「同和地区」なるものが現在もなお実在するかのごとき中傷をする人物は、人権侵害者か余程の差別主義者か厚顔無知な愚者です。 ドレスアップについて 2006-10-14 12:35:08 最近、挙式を間近にひかえた女性の最高にドレスアップした姿を「チラ見」する機会がありました。 「飾り窓の天使」という「わけのわからないお店」のことで、もっとも多い質問が「ファンタジー気功による脳内リフレッシュとは一体なんなんだ」という質問なのです。 実は美しくドレスアップした女性を「チラ見」したとき、そのヒントを見つけましたので判りやすく説明いたします。 ファンタジー気功とは、「気功」を行う女性がエロティックなコスチュームを身にまとうことで「気」のパワーを高め、この高められた「気」を「気を受け取ろうとする人」に向け、その人の官能的回路を視覚を通じて開かせ、高められた「気」を深く浸透しやすくすることで脳をリラックスさせる手法のことです。 コスチュームを身にまとうことで精神的エネルギーを高めたり、身体能力を強化すること、あるいは人格を着脱すること、身分等のステージを超越することは古来より宗教的儀式や演劇等で応用されてきたことであり、最近はスポーツの世界でも競技の時のコスチュームのデザインや色により運動能力が高められることもかなり知られてきました。 特に女性は下着の色を変えたり、髪形を代えただけで気分が変わると言われるほどコスチューム等の影響を受けやすい存在なのです。 たとえばソウルオリンピックで100メートル走・200メートル走・400メートルリレー走で金メダルを獲り3冠を達成したフローレンス・ジョイナー(アメリカの陸上選手)は長く伸ばした爪にネイルアートを施したり、陸上選手には珍しく長い髪の毛をなびかせて激走して話題を呼びましたが、彼女は左右で色彩が異なるタイツを着用して走るなど、コスチュームにもかなりこだわっていました。 (彼女は薬物による筋肉増強剤の使用が噂されていましたが、てんかんの発作を起こして死亡した際の病理解剖でその疑いは払拭されたのだそうです) また新体操やフィギュアスケート・女子テニスでも明らかにコスチュームにこだわる選手が見られるようになりました。 「コスプレ」と言うと先入観で何か「いかがわしいもの」とか「変身ごっこ」のように軽く見られがちですが、歴史的にも心理学的・宗教学的・民俗学的見地から洞察してみると決して軽視できない要素が数多く発見できます。 ちなみに「ドレスアップ」とは文字通り「女性が正装すること」であり、衣装で着飾ることで自己を高めることです。 「ドレスダウン」とは反対に「略装にすること、約束事にこだわらない服装をすること」です。 コスプレは「ドレスアップ」と「ドレスダウン」を同時に行うことで自己の身体を特別に「ラッピング」する行為であり、自己が高められると同時にそれを眺める者の気持ちを高揚させる効果(リオのカーニバルの踊り子さんと観衆の関係)があるのです。 この二つのインパクトを活用して「気を受け取ろうとする人」に向け、その人の脳の中の官能的回路を視覚を通じて覚醒させ、コスプレによって高められた「気」を相手の脳の中に深く浸透しやすくする手法が「ファンタジー気功」なのであり、そうすることで脳をリラックスさせ身体の疲労を和らげ、活力や健康な身体を取り戻すための新しい健康法なのです フェチと例外者 2006-10-15 00:01:13 先日、27歳の男性(既婚者・こどもあり)が小学生の女児の上履きだけを盗み続け、窃盗の疑いで逮捕されました。 これは、いわば「女児上履きフェチ」とも呼ぶべき特異な性癖であり、履物に関するフェティシズムと女児を対象とした間接的な小児性愛が混在しています。 普通はこの程度の分析で簡単に「変なヤツ」と一刀両断されてしまうのですが、性愛懐疑派はもう少し深く考察します。 履物フェチには、ハイヒールフェチやブーツフェチが良く知られていますが、これらの履物にはそれぞれ特有の足のニオイが付くため、正確に言うとハイヒールフェチ(真っ赤なハイヒールを見ると興奮するとか、10Cm以上のピンヒールに憧れる等)にはハイヒール匂いフェチが混在していることもあり、ブーツフェチ(黒い細身の編み上げロングブーツやピンヒルブーツに興奮する等)にはブーツ匂いフェチが混在していることもあるのです。 上記の「女児上履きフェチ」の場合も、この「足の匂いフェチ」の可能性がかなり強く、さらに「ズック靴」はラバー臭があるのでラバー臭を嗅ぐと性的に興奮する「ラバーフェチ」(ゴム引きの雨具やウェットスーツの匂い等を好む)の要素もあるのではないかと思います。 つまりこの27歳の男性には「女児上履きフェチ」と「足の匂いフェチ」と「ラバーフェチ」が混在しており、本人もその複雑さに気付いていないので、あたかもリスが衝動的に木の実をせっせと巣に運ぶように、一心不乱に女児の上履きを盗み続けたのだと思います。 正常か異常かの線引きは時代や文化によって異なり、ワイセツの定義も時代や文化で変化して行きます。 たとえば同性愛も中世キリスト教文化では死刑に相当する犯罪行為であり、我が国の戦国武将のあいだでは同性愛が公認されていた時代もありました。 かつてフェラチオ(オーラルセックス)は異常なことと思い込んでいた時代もありましたが、今日ではフェラチオはごく普通の行為と言えるでしょう。 ところが正常か異常かの議論を進めて行くとある種のジレンマに陥ります。 それは正常位で通常の性行為をしていても、過度に回数が多いと「異常」になるし、正常位で通常の性行為をしていても相手がいつも違えば、やはり「異常」とみなされるという数とか量とか相手の質の問題があり、こうなるとどこに正常と異常の線引きがあるのか判然としなくなってきます。 このため大衆はどうしても分類できない性的嗜好については、単に「悪趣味」というカテゴリーで束ねることで「安心」してしまうのです。 上記の「女児上履きフェチ」も、大衆は単に「悪趣味」とか「愚かなヤツ」で片付けようとするでしょうが、「27歳・既婚者・こどもあり」のどこにもいる男性の人格に同居していた「女児上履きフェチ」と「足の匂いフェチ」と「ラバーフェチ」の混在という複雑なフェティシズムを有していた人物も、「至高性」をめざす例外者から見ると、「例外者」になりそこねた哀れな犯罪者なのですが、間違いなく彼は「商品化された性欲」ではなく、「オリジナルな性欲」をめざした「例外者」の隣人のひとりでもあるのです。 セックス・ライフ 2006-10-16 00:18:00 あるコンドーム・メーカーによる世界41か国、合計31万人以上を対象とした調査によれば、日本人のセックスライフはかなり単調で淡泊であることが判明したそうです。 ?年間の性交回数は世界最下位で 年間45回 ?いろいろなアダルト・グッズを試すことを好む 日本10%:世界平均22% ?官能的快楽に関する新しいアイデアや刺激を求めている 同10%:同22% ?セックス・ライフが単調だと思う 同13%:同 7% ?セックス・ライフに満足している 同24%:同44% この他に「あなたが試みた体位はいくつ?」とか「目隠し性交の有無」「車の中やカメラの前でのセックスの有無」「3P・同性愛・不倫・SM」などいくつもの質問が続くのですが、日本人は性行動に関して極めて消極的であり、世界平均のほぼ半分にすぎないことが判りました。 精子の数が減少しているとか、性交回数が世界最下位であるといった事実を考えると、深刻な少子化問題も「こどもをが生まれたら支援する」という「後出し」ではなく、「他者が企画して商品化された性欲の消費」をやめて、「同意があればなにをしても許される」「ベッドの中は無法地帯・何でもありの世界」といった状況を取り戻すことで出生率を引き上げることを考えるべきであると思います。 ほら、「後出し」より「中出し」なのですよ、出生率を上げるには・・・ 官能的快楽の探求は脳を刺激し、ホルモン分泌を活発にすることは活力を生みだし、想像力を豊かにし創造力を高めます。 ちなみに著者はベッドの中を「無法地帯」にしなくても、脳内写生による豊かなファンタジーを有しておりますので御安心(?)ください。 オタク文化と少子化問題 2006-10-17 00:16:27 売春・買春・回春・青春・春画・・・春という漢字が使われている熟語を書き出してみると、春という漢字には「官能的快楽」という意味が込められているのでないかと改めて感じました。 たとえば売春・買春を別の言葉に置き換えてみると「性交取引・官能売買」となるし、同様に回春を別の言葉に置き換えてみると「官能回復・官能的若返り」となり、青春を別の言葉に置き換えてみると「未熟官能・青くさい官能」となり、春画を別の言葉に置き換えてみると「官能画・発情画」と置き換えることができます。 もともと「春」という文字には「暖かくなる」「生けるものが発情する季節」「芽生える時期・萌えの季節」「花咲く時期」等のイメージがあり、オタク文化が「萌え〜」という言葉に固執する現象の根底にも、この「春」という文字のイメージが秘められていることも判ってきます。 「萌え〜」はある種のモラトリアムであり、成熟したオトナのむせ返るような官能を留保しておいて、ピーターパンのようにいつまでも少年のままで未熟な官能や青くさい官能に留まり続ける文化なのです。 従ってオタク文化は間違いなく少子化傾向の一因となっているのであり、さらにその傾向が他者によって商品化され企画化された性欲が「発情装置」(上野千鶴子:著)となって社会に氾濫する状況の中なかで進行していることになります。 それはまた、まるで飽食と肥満の時代の中で拒食症等の摂食障害が深く進行している状況とよく似ています。 食べ物が有り余る時代になると、食欲がわかないとか、食べたくても食べられない人たちが増えてくるように、「発情装置」が氾濫してくると性欲そのものが減衰し発情しなくなってしまう・・・ このブログのテーマである「脳内写生」とは、他者によって商品化され企画化された性欲を捨てて、オリジナルな性欲やファンタジーを脳の中で自在に楽しむ(官能的な白昼夢を楽しむ)ことをめざすことで想像力や創造力を高めることであり、各自が自己の固有の性欲や官能的快楽に目覚めることを目的としています。 千手観音 2006-10-18 18:42:43 「飾り窓の天使」では、視覚を通じて脳をリフレッシュする「ファンタジー気功」を行っており、現在プロのモダンダンサーに振り付けを依頼しています。 そうした試行錯誤のなかで、聴覚障害をもつ中国の男女混成ダンスチーム「千手観音」(センジュカンノン)の活動を知りましたので、是非一度1下記のURLにアクセスして動画をご覧ください。 (下記URLをマウスでドラッグして「コピー」し、画面左上の「アドレス」に貼付けすると動画が見られます) http://youtube.com/watch?v=PKewKvBoa6g&mode=related&search= ダンサーにとって伴奏が聞こえない状況でのパフォーマンスを行うために、どれほどの訓練が必要なのか著者は想像しただけで感動してしまいました。 KFCとIWC 2006-10-19 00:27:26 動物愛護団体PETAのグループがバンコクにあるケンタッキー・フライド・チキン(動物愛護団体PETAのグループがバンコクにあるケンタッキー・フライド・チキン(KFC)の店頭で若い女性が黄色のビキニ姿で鶏カゴに入り、KFCがニワトリを残酷に扱っていることに対する抗議行動を行いました。 KFCがニワトリを残酷に扱っているとすれば、マックも牛を残酷に扱っているとの論理になり、ありとあらゆる食用動物や魚介類についても人間はそれらを「残酷に扱っている」ことになります。 たとえば捕鯨問題もそうです。 国際捕鯨委員会(IWC)は、「鯨類の適当な保存を図って捕鯨産業の秩序ある発展を可能にするため」に、1946年に締結された国際捕鯨取締条約に基づいて、1948年に設置された委員会ですが、我が国に対しては「捕獲調査の中止決議」を行うなど「捕鯨産業の秩序ある発展を可能にする」ための組織でありながら、一貫して感情的に捕鯨を禁止することに終始しています。 ここ数年、我が国の周辺海域では鯨類が増えすぎてフェリーに衝突したり、漁網を破壊するなど鯨類による被害や漁獲高の減少など実害が生じているのに「かわいい鯨を食べるなんて可哀想だ」という理由で商業捕鯨が禁止されています。 たとえば迷い混んで海岸に打ち上げられた鯨を近くの住民が懸命に救助しているニュース映像を時折見かけますが、これは商業捕鯨ではありませんので、こうした場合は近隣の皆さんは包丁と鍋を持参し、歴史ある海洋捕鯨民族の末裔として巨大な「海の恵」に感謝しながら、余すことなく堂々と丸ごと食べてしまうことでIWCを批判するという選択肢もあるのです。 ベジタリアンという食文化がありますが、ベジタリアンの「ベジタ」はベジタブル(野菜)ではなく、VEGETUS(ラテン語:活気がある・生命力に満ち溢れているの意味)に由来しており、ベジタリアンを「菜食主義」と直訳することは間違いです。 またベジタリアンが肉食を避ける理由として肉類は身体に悪いと主張しますが、実は栄養学上の根拠がありません。 さらにベジタリアンの中には「牛乳・卵は食べる・食べない」とか「チーズとヨーグルトはOK・NG」「バターはOK・NG」とか様々なジャンルがあり、「肉は食べないが魚は食べる」という(自称?)ベジタリアンもおります。 さらにベジタリアンではありませんが、イスラム教徒は豚肉を食べないし、ヒンドゥー教徒は牛肉を食べない等の宗教上の戒律もあり、前者は「豚肉NG・牛肉OK」であり、後者は「牛肉NG・豚肉OK」と正反対の食文化を有しています。 しかし人間は命あるものを奪うか殺すことなく生存出来ない生物なのです。 なぜなら地球上のすべての生物は食物連鎖から逃れられない存在であり、生物同士の食べる・食べられるの関係によって炭素や有機物を通じてエネルギーと物質が循環しているからです。 例えば生食連鎖ではプランクトンを小魚が食べ、その小魚を中型魚・大型魚が食べ、その大型魚を人間が食べる、このように生物が「食」を通じてつながれており、腐食連鎖では落ち葉が腐敗して有機物になり、この有機物をバクテリアや昆虫・ミミズ・菌類(キノコ等)が分解し、微生物や昆虫の糞や死骸が植物の肥料となり、その植物を草食動物や雑食動物がエサとし、その糞や死骸がさらに腐敗し・・・と、無限に連鎖が繰り返されます。 しかも植物も動物も実は同じ一つのDNAから進化したものです。 つまりKFCがニワトリを虐待しているのであれば問題は別ですが、他者や他国の食文化を批判することは、それ自体が無意味であることになるのであり、特定の食物を忌避することはベジタリアンにせよ、宗教上の戒律にせよ食物連鎖から見ればあまり意味がないことになります。 重要なのは何を食べるか・食べないかではなく、環境保護とバランスがとれた食事・適度な運動・充分な睡眠について充分に配慮し、健康でいることなのです。 ちなみに犬や猫を愛玩しながら「焼き肉大好き」の動物愛護家もいるし、捕鯨反対を唱えながら血の滴るようなステーキを食べているIWCのメンバーもおります。 安易にブログを始めないこと 2006-10-20 00:35:15 自殺の理由としてブログに「学校をやめちまえ」と何者かに書込みされたことが原因であったとの報道がありました。 またブログのネタがなくて連続放火事件を起こし、これをブログのネタにした芸能人志望の女性もいました。 「暴言を吐くブログ」と言われながら、このブログを5ヶ月間続けてきた著者として、ブログを始めたい人やブログを公開している人に忠告します。 ☆安易にブログを始めないこと☆ ☆ネタ切れを起こす人は不向きです☆ イジメというストレスに脆弱(ぜいじゃく)な世代が他者からイジメられたとき、自殺するかさもなくばイジメられる前にイジメる側に廻るかのどちらかになります。 そして、これがインターネットの世界では容易にエスカレートします。 たとえば匿名であることを保証されたら、大衆は思いつきで無責任に批判したり、「からかい半分」に足を引っ張たり、故意に相手を傷付けたりすることを簡単に覚えてしまいます。 何度も言いますが、インターネットの世界は嘘もデマも犯罪行為も情報操作も恫喝も偏見も「なんでもあり」の世界なのであり、このツールを利用するときは「物陰に身を潜めてうしろから石を投げつけるシステム」が網の目のように張り巡らされていることを常に自覚しながら、攻撃に対して防御するのではなく、あらかじめ防御策を準備するか、強力な理論武装しておく必要があるのです。 レイプ事件 2006-10-21 01:01:16 ?「行きずり型レイプ」 レイプと言えば一般には、「暗い夜道を一人歩きのとき、突然見知らぬ男性から襲われる」とか「突然男が侵入してきてレイプするもの」という思い込みが女性にも男性にもあります。 たとえば女性宅に侵入し就寝中を襲ったり、帰宅途中の女性を狙い10代から30代の女性計17人をレイプしたとして強姦致傷罪などに問われた無職千葉哲也被告(36)の判決公判では、札幌地裁室蘭支部はなんと懲役24年を言い渡しています。 この裁判で住友隆行裁判長は「犯行に対する抵抗感のなさは病的な段階に至っており、再犯の恐れは極めて高い」と述べ、検察側も論告で「矯正は困難」と断罪したそうです。 また最近では北九州市で昨年12月以降、一人歩きの女性が乱暴される事件が約50件相次ぎ、福岡県警小倉南署は、婦女暴行未遂容疑で逮捕起訴された同市小倉南区の会社員川口満洋被告(42)が一連の事件に関与したとの疑いを強め、別の女性に対する強制わいせつ致傷容疑などで再逮捕しました。 川口被告は3月深夜に同区のマンション敷地内で、市内の女性(20)に後ろから抱き「声を出したら刺すぞ」などと脅迫し、暴行未遂で逮捕されました。 この一連のレイプ事件ではモノレールの駅やバス停付近を通行中の女性が、いきなり口をふさがれてマンション駐車場などに引きずり込まれ乱暴される事件が続発していました。 被害に遭った女性の多くは突然暗がりに引き込まれて被害に遭っており、同署はこの男が女性を見つけては尾行を繰り返し襲う機会を狙っていたとみています。 ?「デート型レイプ」 「行きずり型レイプ」に比べ表面に出にくい犯行が「デート型レイプ」です。 女性が面識がある男性からデートやドライブに誘われ、その途中でレイプされてしまうケースが多く、実は「行きずり型レイプ」より「デート型レイプ」のほうが圧倒的に件数が多いと言われています。 なぜならデート中に彼が突然襲いかかってきたとき、女性は抵抗しながもその混乱の中で「彼に愛されているのであれば仕方ない」と錯覚したり、レイプされた後で「一緒に出かけた自分が軽率だった」とか、「メールや電話でやりとりしたことが男性の想いを募らせてしまったのではないか」と自分を責めたり、「彼がお酒を飲んでいたから自制心がゆるんでいたのかもしれない」等、自分がレイプされた事実を認めたくない気持ちになってしまうからです。 このため彼からレイプ同然の仕打ちを受けながら、彼に誘われるとまた彼と出かけてしまうので、いつの間にかレイプではなく「合意」に基づく性行為と見なされてしまいます。 また、デート型のレイプ事件では、加害者の男性は被害者である女性と顔見知りだったり、女友達を通じて知り合うなど親しい関係にあるため、目撃者でもいない限り「レイプ」であったことを立証には大変な困難がつきまといます。 たとえばレイプ裁判では加害者のみならず、被告(加害者)の弁護人までもが「なぜ彼と交際していたのか、好きだったのではないか」「なぜレイプ後すぐ警察に相談しなかったのか」とか、「最後まで抵抗したのか」「それ以前の性体験の有無(処女性の有無)は?」と被害者である女性を追い詰め、被害者である女性の「落ち度」をあげつらうことになります。 さらにほとんどの場合、加害者は「合意のうえの行為」と主張しますので、被害者である女性は「抵抗できないほどの暴行・脅迫を加えられたこと」を立証しなければならず、法廷で屈辱的なレイプの状況を詳細に証言しなけれらない立場に置かれます。。 レイプ裁判では「抵抗できないほど激しい暴行」にあっても、被害者は最後まで抵抗して当たり前という前提で審理が進められ、むしろ刑法の条文より過酷な犯罪成立の要件を求められます。 このためレイプ裁判は加害者よりも、被害者を追い詰めレイプで傷付いた女性の人格をさらに傷付ける裁判になってしまいます。 ある弁護士は「レイプ事件の残酷さは、被害にあった後さらに女性が社会の偏見に曝されることにある。 これほど、被害者が社会から責められる被害は他にないのではないか。 強盗被害に遭った被害者に、強盗された側が悪いなどと、人は言わない。 しかし、レイプは、された被害者にも『隙がある』と、どこかで世間は言う。 その世間の言葉に、被害者である女性は自殺すら考えるところまで叩きのめされる。 強姦罪そのものが「強く抵抗しない女性は、心のどこかで受け入れているのだ」という男性社会の偏見に基づいて作られた法律であり、レイプ裁判はいつもやりきれない気分を味わう」とコメントしています。 幸い、裁判所も少しずつ、性暴力に対する見方を変えてきており、様々なセクシャル・ハラスメント裁判が行われる中で、抵抗の有無に拘らず一定の力関係の中で被害者の意思に反した性行為はセクシャル・ハラスメントと認定されるようになり、慰謝料額も以前に比べれば高くなってきました。 レイプのみならず、女性の意思に反する性行為は人権侵害もしくは、個人の尊厳(個人の性的自由)への侵害行為であり、たとえ妻や恋人であろうと無理矢理の性行為は強姦と見なすべきです。 むしろ問題は、この認識が大多数の男性にまったく受け入れられていないことにあります。 セクシャル・ハラスメントについて(著者は少々異なる見解を持っていますが)、現行法では加害者がどう考えていたかは問題ではなく、あくまでも被害者の受取り方が問題となるように、性暴力も被害者の意思に反する性行為が強姦罪にあたると解釈されるのは時代の要請なのです。 「性的自己決定権」とは、男女を問わず「自分が承服できない性行為をしないこと、相手が同意していない性行為をしないこと」です。 男性の皆さん、このことを充分認識しないと恋人や妻から強姦罪で訴えられるかもしれませんよ。 蟻の会社と象の会社の戦い? 2006-10-22 00:01:15 勝利宣言 平成18年10月20日、特許庁より「商願2006−026××9」について「この商標登録出願については、拒絶の理由を発見しないから、この出願に係わる商標は登録をすべきものと認めます」との「登録査定」通知が「飾り窓の天使」の本社に届いたそうです。 この戦いの詳しい経緯は、このブログの8月10日および9月6日・9月9日分を一読していただくとお判りいただけると思いますが、かいつまんでこれまでの「いきさつ」を説明しておきます。 著者はこのブログでオタク世代は「他者によって企画され商品化された性欲に振り回されたあわれな人たち」と一刀両断しました。 ところがまさに性欲を商品化し、それらに振り回されたあわれな人たちを顧客として囲い込むことで急成長してきたアニメ・オタク文化の仕掛け人でもある大手企業「○ニメ○ト」社がこの指摘に憤慨し、「飾り窓の天使」の業務である街頭でのチラシの配布の停止や、ホームページにおける「○ニメ○トの新しいトレンド」という記述の削除等を求める威圧的要求を、有名弁護士弁理士事務所を通じて「飾り窓の天使」の本社宛てに内容証明郵便で送って来ました。 この会社はアニメやDVD等を販売する店舗が全国に36件もあり、「飾り窓の天使」がある福岡市天神地区にもその支店があります。 上記の威圧的要求に対する「飾り窓の天使」側の反論(要旨)は次の通りです。 ?「○ニメ○ト」および代理人らは「飾り窓の天使」店における「○ニメ○ト」という商標の使用に関して「不正競争防止法 第2条号に該当する違法な行為」である旨主張しておりますが、同法における「不正競争」とは、「需要者の間に広く認識されているものと同一若しくは類似の商品等表示を使用し・・・」という場合にのみ「不正競争」となるのであって、「○ニメ○ト」という商標が「需要者の間に広く認識されているもの」ではなく、「著名な商品等表示」に該当する商標ではないと当社は考えます。 そもそも当社の行為が「違法な行為」であるか否かの最終的判断は、裁判所が下すことであって代理人らが判断することではありません。 また「○ニメ○ト」社および「○ニメ○ト」なる商標は一部の世代、一部のアニメマニアの間で周知・著名なのであって、全国36都道府県に店舗展開していても、幅広い世代に認識され「需要者の間に広く認識されている商品名」等として定着しているわけではありません。 そうではなくて「○ニメ○ト」社の企業戦略そのものが、特定の世代や特定の嗜好を有する一部の需要者に限定して事業を展開していると合理的に推測できる根拠が多数あります。 こうした状況のもとで、当該店舗においてホームページや街頭配布チラシに「○ニメ○ト」という用語を用いたからといって、即座に「違法な行為」であると決め付けるのは法律と商標の両方の分野の専門家として粗雑であり、この言い分は失当です。 ?代理人らは「飾り窓の天使」店における「○ニメ○ト」という商標の使用に関して「商標法第4条」に該当するので当社が出願中である「商願2006−26××9」を取り下げるよう要求しておりますが、同法は「日本国内又は外国における需要者の間に広く認識されている商標と同一」のものは「商標登録を受けることができない商標」として定義しているのであり、上記?で指摘したとおり「○ニメ○ト」という社名はその社名に象徴されるように、「○ニメ○ト」社自体の企業戦略そのものが一部のアニメファンや特定の需要者に対して明らかに「特化」されており、「需要者の間に広く認識されている商品名」等として定着していると断定するのは軽率です。 従いまして「商願2006−26××9を取り下げよ」との要求には応じられません。 また当社が出願中である「商願2006−26××9」の指定役務が「○ニメ○ト」社の役務とまったく異なる分野であり、同法第4条の「不正の利益を得る目的、他人に損害を与える目的、その他の不正の目的」という明確な意図も当社にはありません。 代理人らが「不正の利益を得る目的、他人に損害を与える目的、その他の不正の目的」が当社にあると考えるのであれば、その合理的かつ明確な証拠を文書により14日以内に告知してください。 また、もし指定役務が異なる分野における同一商標の使用が「違法な行為」であり、不正競争防止法もしくは「商標法第4条」に該当し、取り下げるべき事案であると代理人らが主張するのであれば、専門家としてその詳細な根拠・判例等を14日以内に当社に書面で告知してください。 当該店舗はアニメやコミックの販売とは関係がなく、メイド系のリフレクソロジーのサービスを提供する小学校の前にある健全な店舗であり、「紛らわしい」「いかがわしい」という認識は代理人らもしくは「○ニメ○ト」社の誤った先入観でしかありません。 ?当社が「○ニメ○ト」と称する商標について調査したところ下記の「イ〜ヘ」の通り、実に多くの同一社名・同一商標が存在することが判明しました。 代理人らおよび「○ニメ○ト」社は下記の事業者に対しても当社に行ったような「違法な行為」と決めつける通告や、「ただちに回収されるよう求める」「取り下げるよう求める」等の要求を過去にも行った事実があるのでしょうか? そのような事実があったのか否か、その顛末およびその詳細な経緯を文書にて14日以内に回答するよう要求いたします。 また下記の企業に対し、代理人ら当社に行ったような「違法な行為」と決めつける通告や、「ただちに回収されるよう求める」「取り下げるよう求める」等の要求が全く行われていない場合は、なぜ当社にのみこのような理不尽な要求を行ったのか、その理由を14日以内に文書で回答してください。(以下イ〜ヘ省略) ?他者に「○ニメ○ト」という商標を使用されたくないのであれば、事前に他の役務にも商標を出願しておくのが「○ニメ○ト」社および代理人らの責務であると思います。 自らの責務をおろそかにしておいて、当社に「○ニメ○ト」という商標の使用停止と出願の取り下げを強要するのは筋違いであり、当社はこうした理不尽な要求に大変憤慨しています。 代理人らの要求は「○ニメ○ト」社なる大手企業と有名法律特許事務所および日本商標協会の会員らが「ちからづく」で当社のような弱小企業に対し「○ニメ○ト」という商標の使用を禁止せよと集団を形成して脅しをかけてきたと解釈しています。 もし今後もこうした要求を継続するのであれば、当社は「威力業務妨害行為」と解釈せざるを得ず、当社こそ「○ニメ○ト」社および代理人に対し法的対抗手段を講じなければなりません。 複数の弁護士および弁理士という法律と商標の専門家らが合理的な根拠なく当社の業務を「違法な行為」と決めつけ、「ただちに回収されるよう求める」ことを内容証明郵便にて強要し、さもなくば「法的手段を採らざるを得ない」と堂々と恫喝してくることは「脅迫行為」もしくは「威力業務妨害」とみなす必要があります。 もしこれ以上代理人らが弱小企業である当社に不当な圧力をかけるのであれば、当社は一切の顛末を特許庁および日弁連および弁理士会および日本商標協会に持ち込み紛争の解決を求めると共に、当該店舗のホームページおよびインターネットの掲示板等を利用して、大手企業と著名法律特許事務所の横暴を広く世論に訴えかける等の手段で不当な圧力に対抗する所存です。 なぜなら「○ニメ○ト」社および代理人らが当社に要求していることは「○ニメ○ト」という単語を一切使うなという「言葉狩り」もしくは「言論弾圧」であり、こうした行為は「表現の自由」を保障した憲法に違反する行為であり、言論界およびジャーナリズムおよびマスメディアにとっても由々しき事態であるからです。(以下略) 以上の反論に対し「○ニメ○ト」社および代理人は、さらなる威圧的要求を「飾り窓の天使」側に突きつけてきましたが、結局「飾り窓の天使側の回答要求に応じることなく、特許庁の審査を待つ状況にありました。 しかも最近判明したことですが「○ニメ○ト」側は飾り窓の天使側を恫喝しながら、同時に特許庁に対して8月23日付けで「飾り窓の天使側が出願した商願2006−26××9は登録を認めるべきではない」旨の文書類も提出していたのです。 これほど卑劣な妨害を行いながら最終的には「○ニメ○ト」側の妨害行為はすべて排除され、「登録査定」通知は「飾り窓の天使」の本社に届きました。 実は特許庁は、飾り窓の天使側による「○ニメ○ト」側に対する上記「反論」をまだ知りません。 飾り窓の天使側は代表者がたった一人で反論して「○ニメ○ト」社とその代理人(弁護士1名 弁理士5名)を論破したのでした。 いま改めて振り返ってみれば、一連の「○ニメ○ト」社の妨害行為は大金を費やして「大きな象なんだから小さな蟻など踏み潰してもかまわない、蟻は蟻らしく要求に従えばいのだ」と言わんばかりの傲慢な態度であり、これらの行為は飾り窓の天使側が指摘していた通り「脅迫」や「表現の自由」の侵害・「威力業務妨害」であったのです。 今後、飾り窓の天使側は登録料を特許庁に納付のうえ「商標登録証」の到着を待って、「○ニメ○ト」社および代理人に対して損害賠償請求訴訟を起こす方針であるとのことです。 追伸:「○ニメ○ト」の場合、指定役務(業種)が異なれば今後も商標登録は可能ですので「○ニメ○トら−めん」や「○ニメ○ト・カフェ」「○ニメ○ト美容院」等の登録商標が取得できます。 福岡・天神西通りにもっと「○ニメ○ト△△△店」を増やしましょう! 出願料はたった21000円です!! もちろん、「飾り窓の天使ラーメン」も歓迎しますよ! 核武装論・2 2006-10-23 00:06:12 清水幾太郎は60年代〜70年代における我が国の左翼平和思想家の代表的な人物でしたが、「日本は国家ではない、その証拠に日本は自国を守る術を持っていない」ことに気付き「我が国は核武装すべきである」という内容の「核の選択─日本よ国家たれ」(1980年:文藝春秋刊)を出版しました。 発売当初、同氏は左翼からは「裏切り者」と言われ、右翼からは「無節操者」と批判されましたが、25年以上経った今日再読してみると、隣国北朝鮮が核兵器を保有した今こそ我が国は堂々と核兵器の保有を発表すべきであると痛切に感じました。 このブログではすでに9月21日に「憲法改正・核武装論」というタイトルで【核保有国はいつの時代も、形を変えて核兵器という危険な武器を使いたがるという事実を被爆国は忘れてはならない・・・著者は新総裁が憲法を改正を目指すのであれば「わが国は侵略戦争は禁ずるが、世界で唯一の被爆国として3度目の被爆を回避し、国民を守るために核武装することができると憲法に明記すべきであると考えます。 おそらく「3度目の被爆を回避し、国民を守る」という理由であれば、反対できる国はありません。なぜなら核保有国は核ミサイルが恐いから核ミサイルを保有しているのであり、その理由がある以上アメリカですら反対できる立場にはないのです】と書きました。 ちなみに著者は右翼でも左翼でもありません、あくまでも衆愚政治の批判者たる「至高性をめざす例外者」の立場です。 ところで麻生外相は18日、ライス米国務長官との会談直前に衆院外務委員会で、「(核保有の議論について議論を)まったくしていないのは多分日本だけであり、他の国はみんな(議論)しているのが現実だ。隣の国が(核兵器を保有したとき)、一つの考え方として(核保有の議論)をしておくのは大事なことだ」と述べたそうです。 また同じ時期に自民党の中川昭一政調会長も「核保有の議論はあっていい」と発言し、この発言について麻生外相がある会合で「タイミングのいい発言だった」と発言したとのことです。 さらに麻生外相は、ブッシュ米大統領が中国のタン・チアシュワン国務委員と会談した際に「中国が北朝鮮を押さえないと日本が核を保有するようなことになる」と述べて、中国から北朝鮮への圧力を強めるよう米大統領が要請したと周囲に漏らしたとの報道もありました。 実はこうした発言を行うこと、さらにそれを堂々と報道することそれ自体が北朝鮮の核武装や核実験を抑止する効果があるのであり、こうした発言すら封じ込めようとする政治家やマスメディアは、国際政治の駆け引きやミリタリーバランスの意味をまったく判っていないことを露呈したことになるのです。 実は我が国の「非核三原則」は、始めから自民党が国民をあざむくために口にした詭弁であって、戦後長いこと米国駐日大使を務めた親日家の回顧録には明確に「在任中、沖縄には常時核弾頭が保管されていた」との記述があります。 自民党がなんと詭弁を弄そうと沖縄・横須賀・三沢等のいずれかの米軍基地と、我が国周辺海域に配備された米原潜には常時核弾頭が保管されていることはまぎれもない周知の事実であって、それすら否定するばかりか有事のときだけ核弾頭をハワイから持ってきて発射するという説明は現実離れしており、これでは有事に間に合うはずがありません。 我が国は間違いなく米軍の核の傘の下にある核保有国なのです。 多くの国民はもうそのことに気付いているはずなのに、政治家だけが認めようとしない「独立国家」とは呼べない滑稽な疑似国家なのです。 セックスレスの若年化 2006-10-24 00:05:51 ある大手広告代理店の調査によると、セックスレスが若年化しているのだそうです。 パートナーとの性行為が月1回未満の人は 40代で38% 30代で28% 20代で16%であり、 20代で朝目覚めた時、勃起しているか否かについては 「まったくない」「5日に1回以下」が計25% 「3〜4日に1回」が28%、 「満足な性交ができないほど勃起不全(ED)だと思う」が10% 性的興味が「ほとんどない」「ときどきしかない」は 20代で計29% 30代で 32% 40代で 35%もいるのだそうです。 ちなみに日常生活においてストレスが 「非常にある」20% 「多少ある」 65% ストレスの原因(複数回答)は 「仕事・上司」86% 「家庭・家族」26% 「ときどき」「かなり」「いつも」感じる事柄は 「何となく疲れる」 84% 「イライラする」 83% 「泣きたい気持ちになる」43% 「自分が死んだ方が他の者が楽だと思う」27% 逆に「ほとんど」感じない事柄は 「朝起きて気分が良い」 29% 「将来に希望がある」 23% 「自分は役に立つ人間だと思う」12%でした。 (インターネットによる首都圏に住む20代30代40代の男性各500人に対するアンケートより) 性愛懐疑派から見ると「妄想がなさ過ぎる」のではなく、ありとあらゆる性欲が商品化されてしまったために妄想をかき立てる能力が退化してしまい、盗撮や覗き・痴漢・下着泥棒等をすることでようやく妄想を満たしているのではないかと思えます。 飾り窓の天使のファンタジー気功(登録商標:確定)は退化した妄想を安全に・上品に・知的に・刺激し想像力や創造力を高める効果があります。 「若者に妄想がない・若者に元気がない」では少子化に歯止めが掛かりませんし、独創的なアイデアや技術も生まれません。 ネットいじめについて Eメールや非通知の携帯電話・ホームページの掲示板・ブログなどを標的にした陰湿な「いじめ」が横行しています。 2ch(にちゃんねる)もそうですが、執拗に「揚げ足をとる」「言葉尻をとらえる」「ゴリ押しをする」「無知を押し通す」「因縁をつける」等の方法で相手に恐怖心や挫折感を与え謝罪しても攻撃をやめず、いくつものハンドルネームを使い分け、あちこちのサイトを荒らして廻ってサイトを閉鎖に追い込むことでささやかな勝利に酔っています。 インターネットの世界は匿名性が高く、あたかも物陰に隠れて背後から石を投げつけるようなことが容易にできる世界ですから、誰が「いじめ」をしているのか確かに判りにくい仕組みなのです。 特に児童たちの間の「ネットいじめ」は陰湿であり、最近「ネットいじめ」が原因で自殺した児童もおりました。 しかし、こうした「ネットいじめ」にもいくつかの対処法があるのです。 ?何度もメール等をやりとりすることで少しづつ相手の背景や文章の特徴が判ってきて、やがてプロファイリングが可能となります。証拠集めを怠たらないこと!著者はこの方法で相手を特定し、撃退しています。 ?相手の挑発に乗せられず辛抱強く耐えているているうちに、相手は必ずエスカレートして「殺す」とか「死ね」「学校をやめろ」「会社をやめろ」とか、脅迫じみたことを言い出します。口から出た言葉は証拠になりにくのですが、文字として書かれたものはメールであれ掲示板であれ確たる証拠になります。相手が決定的な言葉や文字を発した瞬間こそ「ボロを出した」のであり、すぐ警察や学校等に通報してください。 これらは脅迫罪・基本的人権(義務教育を受ける権利)の侵害・名誉毀損・業務妨害等は犯罪なのです。 犯罪となれば公的権力が発信者を簡単に突き止めてくれます。決して泣き寝入りせず、根気よく被害を周囲に訴えてください。 ポイントは相手にあえて脅迫等の「犯罪行為」をさせることです。犯罪行為である場合、裁判所がプロバイダーに通信記録の提出を命令します。(相談先:「サイバーテロ」や「ネット犯罪」のキーワードで検索のこと) ?いかなる「いやがせ」も無視する・削除する・反論しない、これも立派な防御になります。 ?ネットの世界はヴァーチャルな世界です。どんなに攻撃されても直接心身をキズ付けられることはありません。そう考えて平然と対処することで、攻撃者はこちらを「以外と強いヤツ」と思うようになります。 ?物陰から石を投げつける人物は小心者・卑怯卑劣な者・狡猾な者・救いがたい者・あわれむべき者・虫けらです。 しかし攻撃された以上は断じて許さない、「必ず大量報復するぞ」と固く決意することで、この決意と迫力が見えない相手に対する抑止力となるのです。 放送禁止用語について 2006-10-26 00:24:52 「放送禁止用語」というキーワードで検索すると、実にたくさんの用語があることが判ります。 かつて台風のあとのニュースでは「1万戸が被害に・・・」と言っていたのに、最近「1万棟が被害に・・・」と表現しています。 これは「・・・マンコが被害に」と聞こえるのが原因と言われています。 同様に「粉吹き大福」等も「潮吹き」とまぎらわしいとか、「ヒレ酒」も「ワカメ酒」と混同しやすいため放送の現場では忌避されているのだそうです。 また「気ちがい沙汰」は差別的な表現であり、「片手落ち」も手に障害がある人にとっては残酷な表現となります。 むかしは「世界を股にかける男」などと表現していましたが、卑猥なイメージがあるとか女性蔑視であると批判され、「本腰を入れる」という表現も卑猥だと批判されると聞きました。 さらに時々「娘を片付ける」と親たちが言いますが、これも娘の人権を無視しており、問題発言になりかねません。 憲法は「表現の自由」を保障していますが、同時に人権も保障しており、この両立が難しいのでしょう。 しかしこうした自主規制はある種の「言葉狩り」にもなるのであり、言論の世界ではあえて意図的に「放送禁止用語」なる規範を逸脱することで「表現の自由」を確保する必要があると思います。 このブログが「暴言を履くブログ」として存立するのも、深くひそかに進行する言葉狩りに抵抗したいからに他なりません。 以前「銀玉屋パチンコ」と店名があり、そのパチンコ店の屋上には巨大なネオン看板が掲げられていました。 ところが台風が過ぎたある夜、そのネオン看板を見上げたところ、看板の故障で夜空に「金 玉屋 チンコ」という文字が燦々と輝いていたのです。 きっと自然の脅威である台風が、人間どものささやかな自主規制の嵐を一蹴してみせたのです。 胸のカタチ 2006-10-29 00:56:30 男性が女性と出会ったとき多くの男性は相手の「眼」を見て人柄を読みとり、女性が男性と出会ったとき多くの女性は相手の「雰囲気」人柄を読み取っているのだそうです。 著者の場合は相手が若い女性なら表情の次に「胸のカタチ」を見ています。 誤解を避けるために説明すると単に女性の「胸の大きさ」を見ているのではなく、ファッションや姿勢の中で「胸のカタチ」をどのように位置づけているか全体的に把握するために「胸のカタチ」を見ているのです。 たとえば胸に自信がない女性は胸を隠そうとしたり、逆に「詰め物」をしたり「寄せて上げる」ことで胸を強調しようとしたりします。 胸を隠そうとする女性は他の面でもコンプレックスが強く、あれこれ手段を駆使して胸を強調しようとする女性は他の面でもプライドが高くやや虚勢を張るタイプが多いし、もともと胸にボリュームがある女性は案外無造作に胸を突きだして歩きますが、男性がその胸を凝視した瞬間「なによ!」というそぶりを見せます。 一方、女性が男性と出会ったとき、まず見つめるのは「手」であると言われています。 清潔そうな手・繊細な指・ちから強い手・働く手など、確かに男性の手はその人の仕事や人生を連想させる部位かもしれません。 性愛懐疑派の立場で言えば女性から見た男性の「手」は抱擁する「手」、愛撫する「手」、もどかしい「手」、いとおしい「手」でもあるのです。 だからこそ女性はまず男性の「手」に目線が行くのでしょう。 --------------------------------------------- ところで全国の30〜60代の約800人の夫婦げんかの調査で、「夫婦がケンカしたときどちらが先に謝るか」という設問がありました。 その結果、夫婦がケンカしたとき「先に怒るのはいつも妻」であり、「先に謝るのはいつも夫」という結果が出たそうです。 また仲直りでも「夫のほうが先に謝る」との回答が多く、夫婦の年齢が若いほど女性優位の傾向が強く表れています。 こうした傾向を女性優位の証と見るか、女性のほうがヒステリックになりやすいと見るかでこの調査の評価はまったく違ってきます。 多くの場合、男性は妻が怒り出すと「面倒くさいから先に謝ってしまう」ことが多いと思いますし、我が国では「謝れば許す」という独特の無責任文化があり、謝っても許さないと、「こんなに謝っているのに許してくれないのか」と逆に怒り出したりします。 このため「ささいなことは争っても意味がない、とにかく謝ってしまえ」と考え、謝られた方も「謝れば許す」ことで鷹揚さを獲得して「一件落着」となります。 このため昔から「夫婦ゲンカは犬も喰わない」と言われているのですが、「謝れば許す」という文化は我が国だけの文化であり、欧米では謝罪=有罪の受け入れ=賠償責任と解釈されます。 このため欧米では簡単に「謝らない」ことが基本であり、ここから議論や討議の技術が発達したと言われています。 たとえ夫婦ゲンカであっても簡単に謝らずに徹底的に議論することで、新たな夫婦関係が開けると思うのですが・・・ でもパートナーと誠実に向き合うことが、なぜこれほど難しいのでしょうか。 同和団体解体論 ? 2006-10-30 00:16:44 著者は9月8日のブログ「自立とは・京都市の不祥事考」で【京都市では、20年にわたり同和奨学金貸与者全員を「返還困難者」と何の審査もなく一律認定し、貸与者に「自立促進援助金」を支給する形で、全員の返済金額全額を市がすべて肩代わりしてきました。このため同和奨学金が「給付制」から「貸与制」に変わってすでに20年以上経つというのに、京都市では自主返済した貸与者はいまだ1人もいないという異常事態が続いています。 京都市市民文化局が今年3月の市議会に提出した資料によると、自立促進援助金制度がこのままつづくと、2029(平成41)年度までに約51億円が支出されることになるのだそうです。 京都市はこれまで同和地区住民の生活基盤の脆弱さを指摘し、奨学金貸与を受け付ける時点において同和地区住民に対しては、「これは給付制の奨学金なので、返済の義務は一切ありません」と虚偽の説明を続けてきたのだそうです。 そしてこうした説明のすり替えは京都市によれば「同和地区住民からも強く求められてきたため」と主張していますが、むしろ部落解放団体からの隠然たる圧力があったというのが真相だと思いますし、こうした状態は「自立」ではなく、「癒着」や「依存」と言うべきであると思います。 ところで京都市は市職員の採用に関しても、平成14年度までは同和地区の人々に対し職業の機会均等を保障するとの理由で、なんと同和団体が推薦する者を優先的に現業職へ採用してきた事実もあります。そしてこの甘い採用方法が京都市の一連の不祥事の大きな要因になっているのです。 京都市では今年4月以降、「覚せい剤使用」「児童買春」「傷害罪」「窃盗未遂容疑」「生活保護費詐取」等で職員5人が逮捕(うち1人は釈放)され、さらに最近では詐欺や覚せい剤取締法違反容疑などで職員3人が逮捕される有様なのです。 それだけではありません。 京都市では過去4年間に、不祥事で懲戒処分を受けた職員数は平成15年度で28人、同16年度では16人、同17年度では20人、同18年度では8人もおり、10年間で懲戒処分は242人・逮捕者は89人・その半数が優先採用された環境局の職員でした。 かつて京都市の同和行政は、全国の模範とみなされ部落問題の解決に大きな役割を果たしてきたと賞賛された時代がありました。 しかし同和対策事業が長期・固定化したことで同和対策が既得権益と化し、「同和団体幹部」との癒着を生み出し、市職員に無力感が蔓延し、集団的責任回避をもたらしたのです。 人権擁護や差別の撤廃を目指す「同和」に甘い京都市政を、「同和団体」が圧力を掛けて「「自立促進援助金」という名目に「すり替え」させ、さらに京都市政を「食いもの」にして来たのです。 2002年に同和対策基本法が消滅しました。これによりわが国には「もはや同和問題は存在しない」ことになっています。 しかし「同和問題」は隠然たる伏流となり、最近では人権問題に取り組む革新系の人権擁護団体と連携して「人権擁護法案」として装いを変えて復活の機会を覗っています】と記述しました。 また10月9日のブログでも「大阪『飛鳥会』えせ同和事件」をとりあげ【大阪市が同和対策事業として運営を受託した市営駐車場の収入を着服した業務上横領の罪と、市職員と共謀して健康保険証を同市から詐取した詐欺の罪に問われた財団法人「飛鳥会」元理事長、小西邦彦被告(73)の初公判があり、元理事長は総額6億円の横領を認めました。 小西被告は起訴事実を認めたうえで「(同和を名乗ると)暴力団より金もうけがしやすく、絶大な権力が手に入る」と考え、部落解放同盟大阪府連飛鳥支部長に就任した(小西被告は元暴力団組員:支部長のポストは事件後解任された)。 大阪市の同和対策事業をめぐっては、旧芦原病院への不正融資や市発注の造園事業での競売入札妨害事件など不祥事が相次いで表面化しています。 それにしても「(同和を名乗ると)暴力団より金もうけがしやすく、絶大な権力が手に入る」と供述されると、「同和問題」が人権問題なのではなく利権や恫喝に利用されていることがあからさまに暴露されて痛快ですらあります。 財団法人「飛鳥会」は「えせ同和」の元暴力団員を理事長にするほど、いいかげんな組織なのですから、もはや財団法人の資格がないのではありませんか?】と批判しました。 このところマスメディアが注目していた奈良市の同和問題にも進展がありました。奈良市では同市議会が9年前に「異常に欠勤率多い」と指摘したにもかかわらず、「病欠」を理由に5年間で8日しか出勤しなかった職員同市環境清美部の収集課職員(42)が、ようやくを29日付けで懲戒免職となりました。 しかしこの「病欠」の期間中、給与はほぼ満額支給されていたのです。 そればかりか長期休職中にこの職員は、市庁舎に毎日のように現れ妻名義の建設事業の公共工事受注の営業活動行い、01年度以降市から計約2億5700万円の随意契約工事を受注していました。 この元職員は妻を代表者として市に事業登録し、土木・建築・舗装・造園・管工事を個人経営で請け負っており、彼は妻の事業の「実質上の経営者」だったのです。 なお奈良市ではこの職員の他にも、ごみ収集職員の6人に1人が日常的に欠勤しており、こうした状況は1996年当時からごみ収集職員の病気などの理由による年間欠勤率は16.3%〜20%もあったそうです。 現在同部には懲戒免職となった元職員以外に、計187回診断書を提出して不自然な休暇・休職を繰り返している職員もいます。 京都市と奈良市の問題は正規の市職員採用試験を経ないで同和地区出身者を優先的に雇用してきた「同和優先雇用枠」の弊害にあります。 努力せずに公務員に採用され、不正をしても同和団体が圧力を掛けて常に「うやむや」にしてしまうのであれば、不正や犯罪が起きないはずがありません。 差別とは救済も転出の手だてもない状況において、偏見や先入観などをもとに特定の人々に対して不利益・不平等な扱いをすることであり、この意味で言えば大阪・奈良・京都の両市民こそ長年「同和グループ」に有形無形の恫喝や搾取を受け、不利益・不平等な扱いを受けてきた「逆差別」の犠牲者であったことになります。 過保護は自立の妨げにしかなりません。努力しない人たちに、いくら支援を続けても「足りない」と言い続け、怠けるばかりです。 上記の一連の同和不祥事は、もはや同和問題は一切干渉せず、努力と実力で生きるしかないことを身をもって体験させる厳しい試練の時期が同和団体に到来してことを如実に示しています。 ちなみに大阪の財団法人「飛鳥会」元理事長、小西邦彦被告(元暴力団組員)は総額6億円の横領を裁判で認め「(同和を名乗ると)暴力団より金もうけがしやすく、絶大な権力が手に入る」と考え、部落解放同盟大阪府連飛鳥支部長に就任しましたが、この事件で解任されました。 また奈良市で長期間病気と偽って年間2000万円以上の給与をもらっていた部落解放同盟の幹部も同同盟から「除名」されました。 部落解放同盟は差別を受けてきた人々の団体であり人権を標榜しているはずなのに、判決が下る前に幹部の不正が発覚した時点で幹部を除名・解任しています。 こうした処分は人権団体では行わず、あくまでも判決が下るまでは被告は「無罪」とみなして「擁護」します。 しかし同和団体はあっさり幹部を処分し、さらに悪事は一部の幹部が行ったことであり、「真面目なメンバー」は迷惑しているとコメントしています。 しかし実はその「真面目なメンバー」が悪事を行った幹部を選出したのであり、長年幹部の不正に気付いていながら、その不正を告発できなかったメンバー達なのです。 従って「真面目なメンバー」とは所詮無能で付和雷同型の自浄作用がまったくない、利権のおこぼれにあずかってきた人達であり、悪事を見聞きしながも不正を見逃してきた人達なのです。 この自覚と反省がない限り真の「同和」はありえません。 まず差別に基づく団体を解散し、自助自立の精神を身に付けることからはじめてください。 非力ではありますが、自立支援のお手伝いをいたします。 (このブログは3日間の現地取材に基づいて記述したものです) 「14歳の母」 2006-10-31 01:09:14 「14歳の母」というTVドラマを性愛懐疑派の立場から見ていて、このドラマは避妊に失敗したか、避妊の知識がない少女の体験が前提になっているなと思いました。 そして避妊に失敗したか、避妊の知識がないか、そのいずれにも共通する問題がひとつあることに気付きました。 東京都の場合【東京都青少年の健全な育成に関する条例(青少年に対する反倫理的な性交等の禁止)第18条の6 何人も、青少年とみだらな性交又は性交類似行為を行つてはならない】と定めており、18歳以下の性行為は禁止されております。 しかし「合意のうえで真面目に・真剣な交際」をしている場合の性行為は処罰の対象となりません。 したがって、もはやオトナは10代の青少年に性行為を禁ずる合理的根拠や説得力ある理由がほとんど存在しないという状況にあるのです。 「いや、性病の恐怖があるじゃないか、妊娠の恐れもあるぞ」とオトナ達は言うかもしれません。 しかし「性病」も「妊娠」も10代の青少年の性行為を抑制するものではないのです。 なぜなら彼らには簡単に手に入る「今度産む」(コンドーム)があるからです。 すでに10代の性意識は「愛があればエッチしてもいい」という状態であり、さらに愛するパートナーがいても「援助交際は別口」と考える若者もおります。 そしてコンドームがないとき、浮上するのが「膣外射精」(避妊法第2位)なのです。 膣外射精について多くの人は「男性が膣外で射精すれば妊娠しない」と信じていますが、膣外射精は妊娠の可能性が5%〜27%とかなり高いのです。 アダルトビデオでは頻繁に膣外射精のシーンが出てくるため安易にマネするのかもしれませんが、男性は性行為の間も断続的に精子を放出しているのであり、射精の瞬間だけ精子を放出しているわけではありません。 このことは男性だけではなく女性の皆さんも、また10代の青少年も是非覚えておいてください。 ところで「膣外射精」は男性にとって手軽な避妊法かもしれませんが、女性にとっては性的な不満が残る避妊法であり、ここにも性交が男性の「ひとりよがり」であることを裏付ける行為があったのです。 潮吹きと女性の射精 2006-11-01 01:20:00 アダルトビデオには男優に激しくGスポットを刺激されたとき、女性器から体液が飛び散るシーンがありますが、これをすぐ「潮吹き」と考えるのは早計です。 女性が性的な興奮すると下記のような現象が起きるからです。 1.粘り気がある体液(愛液)は生理前(排卵期)や性的興奮の前半に分泌され、挿入を促す役割があります。色は透明もしくは半透明。 2.女性はクシャミ等でも「尿漏れ」を起こすことが多く、性行為の最中に尿意を催す女性も少なくありません。 また新鮮な尿には臭いがほとんどありませんので、一部の「潮吹き」は「おしっこ」の可能性があります。 3.汗が飛び散る現象 4.Gスポットを刺激されると無色透明か乳白色のやや粘り気があるスキーン腺液が尿道と膣内から大量に分泌されます。 従来から「潮吹き」現象は、スキーン腺液とみなされてきました。そしてこのスキーン腺液が多い場合、安易に「おしっこ」と誤認されたり、女性も射精することがあると考える研究者もおりました。 5.ザビアチッチ博士は上記の説とは別に女性も前立腺があることを発見し、「女性前立腺」内容物を尿道より排出する現象が女性の射精現象であると結論づけました。 ちなみに女性の射精は男性と違って生殖(受精)には関係なく、さらにGスポットを刺激されたとき射精しやすいが必ずしもエクスタシーとは一致しないとのことです。 ただし、ごくまれに女性の膀胱の周辺に滞留睾丸があり、妊娠初期に起こる性別選択の時期に未発達のまま残った滞留睾丸から精子を含まない精液が尿道から射精されることもあります。 男性の潮吹き現象 2006-11-02 00:02:03 昨日、「潮吹き」について論じたところ「男性も潮吹きするのか・・・」との質問がありました。 実はそのとおりなのです。 その前に男性にある器官と女性にもある器官の対比をしてみましょう。 女性の子宮(子袋)=男性の睾丸の袋(陰嚢:いんのう ) 女性の膣(産道)=男性の陰茎包皮 卵巣=睾丸(精巣、精嚢:せいのう) 卵管=精輸管 女性前立腺=男性前立腺 つまり女性の「潮吹き」が女性前立腺の分泌物とすれば、男性も当然前立腺で「潮吹き」をしていることになります。(女性前立腺については10月31日のブログ参照) 男性の場合、前立腺では乳白色の粘液で前立腺液という精漿(せいしょう)がつくられており、これが精子と混ざって精液となります。 また尿道の途中にある尿道球腺(カウパー腺)でも、透明な粘液である精漿(カウパー腺液:尿道球腺液)が分泌され、主に射精の直前や性的興奮時に分泌されます。この二種類の精漿が混ざって分泌されるのが男性の「潮吹き」(俗称:がまん汁、先走り汁)の正体です。 では女性のクリトリスは、男性にもあるのでしょうか? 実は胎児の時に男性はクリトリスが肥大してペニスに変わります。 専門書には明確な記述はありませんが、著者はペニスの先端(亀頭)にクリトリス(陰核)が隠れている可能性が高いと確信しています。 通常、亀頭を刺激すると男性はじきに射精してしまうので、亀頭に敏感なクリトリスが潜んでいることに気付く機会がありませんでした。 もし、亀頭に射精とは別の際限のない快楽をもたらす官能ポイントが埋もれているとしたら、男性は単純であっけない射精よりももっと深くて豊かな官能領域を獲得することができるという仮説が成り立つことになります。 ただし、この男性のクリトリスは外部に露出しているものではなく、豊かなファンタジーや妄想の手助けと、刺激するタイミングの修得が必要となります。 女性のクリトリスが深いエクスタシーをもたらすようになるまで、時間と慣れが必要であるように・・・ 小悪魔について 2006-11-03 00:51:17 結婚を前提に2年間交際している恋人がいるのに、4年前から付き合っているセフレ(セックスフレンド)がいる女性がいます。 彼女は恋人のことが好きなのですが、セフレに誘われると断れずに抱かれてしまうのだそうです・・・ なぜ?と彼女に聞いたら「誰にも嫌われることがいやで、エッチを断ることでをセフレを傷つけたくないし、恋人も失いたくない」と答えました。 はたして彼女は恋人のことが本当に好きなのか、それとも自分が可愛いだけなのか、単に二人の男を手玉に取っているだけなのでしょうか? 最近「悪女」とも「ブリッコ」とも違う「小悪魔」という新しいタイプの女性が増えており、化粧品メーカーも「小悪魔」メイクに注目しているほどです。 結婚を前提にした恋人がいるのにセフレもいることは、道義的に批判されることですが、セフレのほうが付き合いが古いということは、もともと恋愛感情があったはずであり、だからこそデートもするし、誘われたらエッチも断りにくくなります。 これは女性にありがちな状況であって、古い考え方では「浅はかな女」とか尻軽女と決めつけられてきましたが、小悪魔はここで「恋人ともセフレとも関係を続けたい」と罪悪感を抱いたり、悩んだりすることなく簡単に決断しまいます。 そしてもし二股がバレた時も、小悪魔は争い合う二人の男性を平然と見下しながら「くだらない男どもめ」とほくそ笑むのです。 小悪魔は「お互いに何も得るものはない、ただ一時の快楽があればいいのだ」という状況の中でもっとも輝くのであり、いかなる状況にもキズつくことなく「そばにいてほしいときに、そばにいてくれる男にすり寄る」だけなのであり、得るものがあれば受け取りますが、なにも与えることはしないクールさがあります。 その場・その場の快楽を求める魅力的なオンナ・・・美しい花から花へとしなやかに飛び移る可憐な蝶々・・・ 彼女はそのような小悪魔になりたいのだそうです。 小悪魔に乾杯! セクハラ 2006-11-04 01:07:51 セクハラ(セクシュアルハラスメント)とは、組織における上下関係や力関係を背景とした性的関係の強要のことであり、わが国では「性的嫌がらせ・性的おびやかし」と訳されています。 セクハラは「ジェンダー」という社会的につくられた性差を認識しないと理解できない問題であり、自己流の「私はセクハラなんてしていない」という態度を女性に押し付けることもセクハラになります。 特にわが国では組織における上下関係や力関係がなくても、場所や相手をわきまえずに女性を不快にさせる性的な言動をすべてセクハラとみなされています。 しかも女性を「不快にさせる」か「させないか」は女性の判断にゆだねられていますので、肩にに手を置く等の何気ない言動でもセクハラと見なされ、望まない行為を受けることは「基本的人権の侵害」なる可能性があるのです。 またたとえば女性を職場における対等なパートナーとして扱わず、性的なモノとみなしたり男尊女卑的な発想をしていると、「両性の平等」(憲法14条同24条)に違反する行為とみなされたり、性的自己決定権等の人格権(憲法13条)の侵害や、女性が安全な環境で働く権利(憲法27条)をも侵害する行為と見なされます。 男性の皆さんは「セクハラなんて面倒くさい」とか「オレには関係ない」と言わずに、ぜひセクハラに関する理解を日頃から深めておいてください。 ところでセクハラは大きく分けると「対価型」と「環境型」「接触型」があり、「対価型セクハラ」は昇級や転勤等の条件と引き替えに肉体関係の要求をするものであり、「環境型セクハラ」は人前で性的な記事の出ている雑誌やスポーツ新聞を広げたり、女性の体をなめるように見る、あるいは性的な話題を持ち出したりして女性にとって働きづらい環境が生じるものを言います。 また「接触型セクハラ」は女性の背後を通りすぎるたびに、身体の一部をさわったり、「いいカラダしてるねぇ」と声を掛けたり、「いい匂いだねぇ」と鼻を近づけるなどの行為をさします。 ちなみに女性に対して「いくつになったの?」「まだ結婚しないの?」「彼氏いるの?」「つきあっている人いるんでしょ?」等と聞くこともセクハラと見なされる可能性があります。 なぜなら女性を不快にさせる可能性はあるからです。 でも実は女性が好意を抱いている男性は、基本的に何をしても「セクハラ」になりません。 逆に女性が嫌がることを男性がしたら、すべてが「セクハラ」になります。 でもこれって性的ファッショ(ファシズムのこと:女性側の全体主義・気まぐれな排外的理念)ですよね。 ファシズムは独裁者の常套手段なのです。 性欲は才能のひとつである。 2006-11-05 01:06:14 仕事ができる男は魅力があり、尊敬できるけれど、彼は立場上いつも仕事を優先するし、なにかと忙しいのでこんな男を恋人にすると女性は寂しい思いをします。 話がしたいと思っても話ができない。逢いたいと思っても逢えない。好きなら当然抱くこうした想いも、ほとんどかなえられません。 そんなときアナタはどうしますか? 相手に合わせて、ひたすら待ち続けますか? それとも彼のために手芸を習ってセーターでも編みますか? なにか趣味を見つけて、自分を育てる時間を持ちますか? 性愛懐疑派はあえて違う提案をします。 アナタは自分の身体にどのような官能的快楽が潜んでいるか、知り尽くしていますか? 自分の性欲のすべてを自ら「つまびらか」にしたことがありますか? アナタはいつも自分の性欲から眼をそむけたり、性欲を抑圧していませんか? アナタの性欲はアナタ自身のものであり、アナタにしか判らない貴重な才能なのです。 性欲を外部から刺激するのではなく、アナタ自身のオリジナルな性欲をアナタ自身の中から導き出して強化してください。 そして豊かな官能に目覚めたら、愛しい彼にもオリジナルな性欲に目覚めることを教えてあげてください。 仕事ができる男はきっとアナタに感謝するはずです。 男のカラダもデリケート 2006-11-06 00:01:14 女性のカラダはデリケートだと言われています。 確かに女性の心理は微妙で月経・排卵・妊娠・つわり・出産・授乳等の影響を受けやすく、どれも男性には体験できないことばかりですが、実は男性も意外とデリケートなのであり、案外精神的にモロイところがあったり、キズ付きやすところがあるのではないかと思うことが最近しばしばありました。 特に嫉妬深さや未練がましさは、女性よりも男性のほうが強いのではないかと思います。 交際中の女性や妻に対して嫉妬深い男性はいくらでもいるし、失恋の痛手からいつまでも立ち直れないのは大抵男性なのです。 また性的な面でも男性はかなり「いじましい」部分があり、ペニスの大きさや性交時間・性交回数・性交相手の数等にこだわったり、その反動として誇張して自慢したりします。 それでいて、性的な失敗経験をいつまでも忘れられないとか、性的に恥をかいた場面をトラウマとして抱えている男性もたくさんおります。 多くの男性はこうした弱々しさを完全に隠して「強がり」を装っていますが、その実体はかなりの小心者なのであり、女性の皆さんは男性を女性より強いものとして平気で「いたぶり」ますが、実は女性のイジメに耐えられず弱音を吐いている男性が意外と多いのです。 もし男性を試したいのであれば、エッチのあとで一言「へたくそ!」と大声で言って見てください。 ガックリとうなだれインポになるか、逆に殴り倒されるか、著者は結果に責任を持てませんが、男性の偽りのないハダカの姿を見られることだけは間違いありません。 透明人間になれたら 2006-11-07 00:10:33 アメリカとイギリスの大学の合同研究で全身にかぶると姿が見えなくなる「透明人間」になれるような素材の開発と実験に成功したというニュースがありました。 光は物体に当たって反射することで物が見えるのであり、もし物体に反射させずに物体の裏側に光を回り込ませることができれば、物体は透明に見えることになります。 「見えない戦闘機」と呼ばれる「ステルス戦闘機」は、探知用のレーダーの電波を異なる方向に反射させてレーダーに探知されにくくする技術を応用していますが、今回の研究は電波を乱反射させるのではなく光を迂回させて見えなくする技術であり、当然軍事目的の研究と思われます。 ところで、このブログのテーマである「脳内写生」は、脳の中に白いスクリーンを広げ、そのスクリーンにオリジナルな官能的ファンタジーを投影することで創造力や活力を導き出す方法を解説すると共に、性愛に関する知的でまじめな思索を目的とする「性愛懐疑派」の主張を紹介してきました。 なおこのブログは「飾り窓の天使」(福岡市中央区)の公式サイト http://www.kazarimado-tenshi.com/ と連携しています。関心のある方はこのホームページをご覧ください。 ところで、この「脳内写生」と「性愛懐疑派」の立場から上記の研究が実用化されたときのことをふと想像してみました。 もし「透明人間」になれたら、あなたならどうしますか?という質問がまず当然のごとく思い浮かびます。 「透明人間」になれたら・・・他人の生活を覗き見することもできます。 「透明人間」になれたら・・・銀行の金庫にも簡単に出入りできるし、「透明人間」になれたら・・・立ち入り禁止の場所にも入れます。 ところが良く考えてみると「透明人間になれたら・・・」という仮定は、ことごとく悪事に結びついてしまうのです。 逆に見えることが治安を生みだし、見えることが信頼を築き、見えることが豊かなファンタジーをもたらすのです。 ほら、恋するふたりの寝室は真っ暗にするよりも、ほんのり薄くらいほうが大胆になれるように・・・ 追 伸 「性欲は才能のひとつである」とブログに書いたら、その直後からアクセス数がいきなり2倍になってしまいました。 はたして皆さんどのようにして、このブログにに辿り着くのでしょうか? 不思議でなりません・・・ 性欲のテロリスト 2006-11-08 16:16:04 6月23日のブログで著者は【「S」とはサド(サディズム)の頭文字であり、「M」とはマゾッホ(マゾヒズム)の頭文字と信じられていますが、よくよく調べてみるとクラフト・エビングや、ハブロック・エリス等が、これらの小説に登場する人物と小説の作者の人格や行為を明確に区別しないまま、単に攻撃的に快楽を求める者を「サディスト」と命名し、その攻撃を快楽として甘受する者を「マゾヒスト」と命名していたことが明らかとなりました。以前にも指摘しましたが、小説の作者とその作品は同一の人格ではありません。 しかも、さらにフロイトまでもが、軽率にもこの命名をなんら検証することなく踏襲したため、あたかもこのふたつの概念は表裏をなすものとして今日まで一般に流布してしまったのです(参考文献「マゾッホとサド」 ジル・ドゥルーズ・要旨)】と記述しました。 また9月1日のブログでは【特にサドは官能的快楽において、「なにものにもとらわれない、なにものにも従属しないこと」を実践することはあきらかな知的な行為であり・・・、著者が唱える「脳内写生」という知的作業もこうしたサドの業績を受け継ぐために生まれたものです】と記述しました。 さらに翌日の9月2日のブログでは【サドといえば「鞭打ち」を連想するかもしれませんが、これはのちにクラフト・エビングによって「サディズム」と命名され、ひとつの性倒錯の病状として定義されたことに由来します。しかし、サドは「鞭打ち」によって快感を得ていた(鞭打ち=射精)のではなく、恐怖心を煽ることや、おどろおどろしい状況や鞭といった小道具がサドを興奮させたと見るのが正当な見解なのです。 むしろサドの倒錯はごく初歩的なものであるとか、サドの加虐性愛は表象愛にすぎないとか、長期におよぶ拘禁状態における鬱積した反社会的な恨みだったという見解もあるのです。 また、サドの官能嗜好は「鞭打ちによって快感を得ていた」と一言で片付くほど単純なものではありません。 サドは、他者に苦痛を加えることで快楽を感じるのではなく、固有の性欲を強引に満たそうとする過程で攻撃や暴力が二次的に発生するのであり、時には自己もしくは他者に苦痛を加えつつ、自己の残虐さにあきれながらも、さらに苦痛を与え続ける自分を被虐的に讃えることすらあったのです。 いわばサドの快楽は、蕩尽によって傲慢を獲得し、屈辱や侮蔑によって自己の矜持を強化していたのです。 そのうえサドは、肛門性交を実行すれば死刑を宣告される時代にあえてそのタブーを犯し、キリスト教と道徳を全面的に否定した上で、キリスト教が恐れる罪こそ官能的快楽にとって不可欠な要素であることを実証しました。 そして、これこそエロティシズムによって至高性をめざす例外者に必然的に負うリスク」なのですが、サドによるその高度な知的作業が大衆から見てことさら奇異に見えたはずです。 しかし奇異に見られること自体、例外者にとって名誉なことであり、大衆から理解されることを拒否することこそ例外者の特権なのです。 サドの「鞭打ち」をそのまま「サディズム」と命名したラフト・エビングやその「サディズム」にこだわったフロイト等の単純さは、「自ら1000年たっても大衆に誤解されることを望んだ例外者」たるサドにとってまさに好都合な大衆的研究者だったと言えます。 ちなみにわが国におけるサドの著作の多くは澁澤龍彦によって翻訳されました。このため澁澤龍彦がわが国では「サディスト」の「教祖」と思われているフシがありますが、真の「サディスト」は至高性をめざす例外者でなければなりません】 つまり、どう考えてもサドはサディズムの元祖や語源ではなく、むしろ実在のサドは官能の世界のアナーキスト(無政府主義者)であり、「性欲の世界のテロリスト」であったのです。 あえて誤解を恐れずに申し上げれば、サドの知的遺産の正当なる相続者は著者以外になく、著者こそ筋金入りの本物の「性欲のテロリスト」であると、ここに宣言いたします。 mixiと2ちゃんねるについて 2006-11-09 00:17:22 ソーシャルネットワーク(SNS)をご存知ですか? SNSは、まず紹介者がいてその紹介でメンバーに加わることができ、「友達の友達とメールのやり取りが始まり、仲間づくりや友達の輪が広がっていきます。 このため悪口や陰口をいえない精神衛生上ほとんど害がないコミュニケーション環境が自然に形成されて行きます。 体験者に聞くとSNSの印象はおおむね以下の通りです。 ・コミュニティのメンバーの素性が知れていて、公開性が高い ・しかし「負の意見」を述べにくく、ウワッツラの議論や迎合した意見・同調的内容ばかりなる ・相手に対する否定や悪口が一切なく、反対意見が出にくい ・友達の友達は皆友達という感覚になるので現実とバーチャルの境界が曖昧になりやすい 老舗のSNS「mixi(ミクシィ)」はメンバー数が1000万人を突破するのではないかと言われ、検索機能を利用すれば、自分が会いたい・知り合いになりたいと思っている人を、「友人の友人」の中から検索することもできます。 そして知り合った人と仲良くなれば、その人をあなたの友人のリストに加えることで「友人の輪」をどんどん広がっていきます。 他者とのコミュニケーションが苦手とされる若い世代にとって、まさに「mixi」は絶好のコミュニケーション・ツールなのです。 「mixi」とはもともと 「mix(交流)」と「identity(アイデンティティ:自分らしさ)」の「i」を組み合わせた造語であり、「人やモノの悪口を絶対に言わないルール」があるため「荒れないSNS」とか「顔写真掲載率が高いSNS」と評判です。 しかし鳴り物入りで上場して、一時は320万円台を突破した「ミクシィ」の株が最近200万円台まで暴落したことがありました。 これはある男性が恋人の「M字開脚写真」を「うっかり」と「ミクシィ」に掲載してしまったため仲間内だけの信頼関係を共有するシステムが実は虚構であったことが露呈して一気にコミュニティが崩壊してしまったためでした。 一方「2ちゃんねる」は憎しみを抱いている人物や、中傷好き・噂好きの人達が特定の人物や企業等に対して背後や物陰から石を投げつけるような誹謗や名誉毀損等が簡単にできる仕組みであり、しかもいったん書き込みされたことは、たとえ事実でなくてもほとんど削除されないという状況に人気があります。 このため、いつまでも書き込まれた中傷等が野ざらしにされたり、書き込まれた中傷等の削除を「削除人」に申し込むと、その申込み自体がまた掲示板に表示され、結局さらに勘ぐられたり逆に目立ってしまうという悪循環に陥ります。 このため「2ちゃんねる」では悪口を書き込んだ者が徳をするという卑劣な世界がまかり通っており、そのせいかまともなスポンサーが付いていません。 ところで一見、愛と友情を掲げる「ミクシィ」と憎悪に支えられた「2ちゃんねる」は、あたかも正反対の絶対に混じり合うことがない世界に見えるのですが、実は両者は大衆社会・衆愚社会の二面性を如実に体現しているのであり、多くの人が「ミクシィ」と「2ちゃんねる」の両方にアクセスしていて、「ミクシィ」では「いい子・いい友達」を演じ、「2ちゃんねる」では思い切り陰口をたたくことでバランスを取り自己満足しています。 拝啓 トリンプ さま 2006-11-10 14:36:45 女性用下着メーカーの「トリンプ」(日本法人)が、ブラジャーのパッド部分にポリエステル繊維製の買物袋を折りたたんで入れておき、買い物をしたときブラジャーからこの布を引き出して、買い物袋に使用することでレジ袋を削減するというアイデア製品を開発して特許を出願したそうです。 これは今年6月に国会で成立した改正容器包装リサイクル法で目標の一つに掲げられている「レジ袋削減」が契機になっているとのことです。 特許や実用新案にはさまざまな製品や技術が登録されていますが、実はせっかくの特許でも全く実用化されず眠っている特許もたくさんあります。 むしろ、利用されない技術のほうが多いのかもしれません。 上記の「トリンプ」のアイデアもたしかに斬新なのですが、女性がレジの前で胸元に手を入れてブラジャーのパッド部分から買い物袋を取り出すという行為がどれだけ女性から支持されるか、著者は少々疑問であると思います。 むしろ女性の味方である下着メーカーとして、女性が自分のブラジャーのパッド部分から買い物袋を取り出すことに抵抗がないと考えたとすれば、この発想のほうがむしろ驚きに値すると思います。 また、レジ袋を削減するのであれば、たとえばブラジャーのパッド部分から買い物袋を取り出すのではなく、履いているストッキングを脱いで買い物袋にする方法やキャミソールを脱いで裾を縛り、肩紐を持ち手として買い物袋に利用する方法もあるでしょう。 またレジ係が「レジ袋ゼロ運動」と書いたタスキを付けて水着姿でレジを打つことのほうが男性に対する「レジ袋削減」については効果があるかもしれません。 あっ、「トリンプ」様、個人的にはブラジャーのパッド部分から取り出したぬくもりのある買い物袋に「大きなほかほかの豚まん」を包んでもらい、これを「おみやげ」として頂戴することは大歓迎でございます。 イジメと自殺 2006-11-11 00:02:07 再び「イジメ」が大きな問題になっています。 ちなみに、このブログは至高性をめざす例外者を対象としていますので、基本的には大衆および衆愚がイジメをしようが自殺をしようと、どうでもいいことです。 子ども達は「自分たちが自殺したいと言えば、大人たちがあわてて何でも要求を受け入れてくれる」ことを見抜いており、そうなれば子どもたちの要求はエスカレートするばかりであり、結果的に子どもたちに迎合する大人が増えるだけです。 従って教師による生徒のイジメは教育上大いに意義があることであり、教育とは将来体験する大人社会の陰湿な「イジメ」に対する抵抗力を養うチャンスであることを子ども達に知らしめるものでもあるのです。 なぜなら親として子どもに対する最低の「しつけ」すらできない者が、親としての自覚もないまま漫然と親になってしまった者がとても多いからです。 たとえば民主主義そのものが「多数決」で成り立っており、伝統的に和を重んじる社会では人々はどうしても「多数派」に加わろうとします。 そして多数派に身を置きながら多勢に無勢の権利を求め「少数派」を攻撃し続けます。 よく持ち出される「話し合い」にしても、結局は多数派や常識派が有利になるのですから、結局「話し合い」も少数派から見るとイジメの構図を内包していることになります。 さらにわが国のジャーナリズムはジャーナリズムと言うよりは、「スキャンダリズム」であり常に特定の人物をとっちめる「ヤリダマ報道」もしくは「血祭り報道」が日常的に繰り返されています。考えてみればこれも公然たる「イジメ」なのです。 つまりわが国はもともとイジメ文化を有する国なのであり、「イジメ文化」と「イジメ世代」が混ざり合うと、「ともかくイジメられる前にイジメる側に立つことでイジメから逃れる」というある種の「知恵」が身に備わってきて、これがまたイジメの増大につながって行きます。 実は「自殺と戦争」は有史以来消滅したことがないのであり、わが国の自殺者はなんと年間3万人を超えており、1年間の交通事故の死者の3倍に相当しています。 そもそもわが国には切腹や自決の文化があり、今日でも年間3万人もの自殺者がいるのですから、もはや自殺は日常化しているのであり、単に「自殺をしてはならない」と言ってもほとんど説得力がありません。 むしろわが国の大衆社会は「自殺文化」と「イジメ文化」が混在した国なのであり、「イジメをしてはならない」と大人が子ども達に言ってもイジメはなくなることはありません。 逆に大人は「イジメたいときはイジメなさい」「自殺したいときは自殺しなさい、弱いものに将来はない」「イジメられたくなければイジメる側に廻りなさい」「生きのびたければ這い上がりなさい」等子どもに対して強い態度で接するべきでしょう。 特にイジメや中傷・悪質な妨害等には「大量報復主義」が有効です。 いわれなき攻撃を受けたら10倍100倍の合法・非合法の報復をする・・・歴史は、いつの時代もこのような姿勢を貫くことが最も抑止力があることを如実に物語っているのです。 それはさておき、イジメについてもう少し詳しく観察する必要があると思います。 実は「イジメ」にはいくつかのカテゴリーがあるはずです。 ?差別的イジメ(無視・排他的・クサイ・身体的特徴・国籍・人種等) ?加虐的イジメ(イジメることに快感を覚える・悪意にもとづく言動) ?弱い者イジメ(弱者をイジメることで自己の弱さを繕う) ?からかいイジメ(悪意があまりない遊び半分のイジメ) ?羨望イジメ(ねたみ・そねみにもとづくイジメ) なお著者は、少年時代の「スカートめくり」は「イジメ」というよりは初恋における「つたない愛情表現」の一部であると思ってます。 なんでもかんでも「イジメ」と決めつけることは、大人たちの独断であり、子どもに対する過干渉です。 でも大人の「スカートめくり」は痴漢ですよ! 暴力は愛よりも強い! 2006-11-12 11:48:43 クロさんから昨日のイジメに関するブログに対して「ウム… みょ〜うに納得」とのコメントをいただきました。 (150人前後いるこのブログの読者の皆さんのほとんどは「沈黙せる読者」ですので、コメントが届くのはめずらしいのです) そこで昨日書かなかった部分を補足しておきます。 イジメは殴る・蹴るという暴力ではありませんが、まぎれもない言葉の「暴力」です。 大人たちは「愛情不足がイジメる子どもを作る」と短絡的に考えますが、小さな子どもたちは大きな体の大人たちを下から見上げながら、「愛情よりもチカラのほうが強い」ことを身をもって体験します。 たとえば子どもは、子どもなりに親を愛しているのに、親は躾や気分次第で我が子に対して横暴な態度をとります。 子どもはこうした仕打ちに遭遇するたびに「オトナはいいよな・・・勝手でさ・・・」と思うと同時に、チカラの強い者には勝てないことを学ぶのです。 そして勝てそうな仲間が身近にいると、子どもは大人の横暴な態度をマネしてみせ横暴に振る舞います。 こうした現象は公園で遊んでいる幼児の行動を観察していれば容易に気付くはずです。 公園等で普段やさしい我が子が、自分より歳下の幼児に対して急に乱暴に振る舞ったり、意地悪をする場面を見たことはありませんか? つまり子どもが弱い者をイジメることは、実は大人たちが子ども達に教えたことなのであり、大人たちいつも「チカラと暴力は愛よりも強い」ことを弱者の前で体現して見せているのです。 (また「暴言を吐いたぞ」と言われそうですが・・・) (このブログは、活発で自在な議論を行うために、あえて異質な発想や見解を述べたり、あえて「あらぬことを考える」ことに徹しています。著者の意見に対して「お前、それおかしいぞ」と発言することは一向にかまいませんが、その際は必ず発言者固有の独自の見解を申し添えてください。よろしくお願い致します) ミニスカートと核兵器 2006-11-13 13:55:06 人類の最大の暴力は戦争であり、最終兵器は原子爆弾でしょう。 著者は9月21日と10月23日のブログの中で「核武装」の必要性を繰り返し主張してきました。 これは中川・麻生両氏が「核武装論」を口にする以前からのテーマであり、広島・長崎と二回も原爆を投下された国の子孫として、日本だけは外国からいかなる申し入れがあろうと「核武装」だけはしなければならないと確信しているからです。 核兵器は「保有すること」と「使用すること」がイコールではなく、「保有すること」に意味がある兵器なのであり、これが「戦争抑止力」や「先制核攻撃の抑止力」となるのです。 特に隣国から核ミサイルを撃ち込まれたら、対空ミサイルを発射する時間もありません。 こうした状況で核ミサイルを使用できにくくする方法はただひとつ、「攻撃したらそれ以上の報復を受ける」と相手に認識させることです。 たとえばあなたの自宅に二回強盗が侵入し、二回ともあなたが襲われて大ケガをして全財産を奪われとします。 わが国で核の議論すらしてはならないと主張する人たちは、「三回目も強盗は来ない」と考えて、防犯装置も取り付けず戸締まりもせずに寝る人と同じです。 しかも強盗はあらかじめ下見をし、油断している建物があれば狙ってきます。 その結果3回目の強盗が侵入して来て、あなたが同様の被害にあったとき周囲の人はこう言うでしょう。 「無防備にもホドがある、あいつはバカじゃないか、強盗に狙われても仕方ない」と・・・ もし安全を優先するのであれば、たとえ泥棒の被害に遭遇した経験がなくても、安全に配慮する人は強盗が来ても絶対に侵入できないような防犯装置をあらかじめ目立つように取り付け、もしそこを突破されてもある程度の反撃を加える「備え」もするはずです。 かつてわが国の非核3原則(核兵器を開発しない・保有しない・米軍に持ち込ませない)について、外国ではこの政策を「ミニスカート戦略」と呼んで嘲笑していた時代がありました。 ミニスカートは下半身を隠そうとする意図があるにもかかわらず、視線の角度によってはほとんどミニスカートの中が見える構造になっており、たとえ見られないようにバッグ等で隠そうとするにもかかわらず、いつのまにかミニスカートがせり上がってきて中が見えそうになります。 女性はミニスカートを自己表現の手段のひとつとしか考えていないかもしれませんが、こうした服装は男性から見ると「隠したいけど見られたい」「隠したいけど誘われたい」という矛盾した服装に見え、かえって劣情を誘発するアイテムとなってしまいます。 わが国はまさにミニスカートを履いた魅力的な国であり、2回もプルトニュウムの灰を浴びながら、未だに無防備と劣情を誘発する姿勢を維持し続けています。 ちなみにアメリカのレイプ裁判では被害者が露出の多い服装をしていた場合、挑発的行為があったとみなされ被害者である女性の落ち度が法廷で厳しく追求され、「そそのかし」や「合意」があったと認定されてしまいます。 もしわが国が3回目の核攻撃を受けた場合、世界各国は「なぜ2回も核攻撃を受けながら日本は核武装していなかったのか、無策過ぎる」と批判することでしょう。 重要なことは平和を唱えても平和を維持することはできず、常に「暴力は愛よりも強い」ことです。 愛が地球を救うことはありません。愛はに空腹すら満たせないのです。 また神仏や祈り等が人類を救済することもありません。 ジーンズ大歓迎 2006-11-15 00:21:39 再びクロさんからコメントを頂きました。 「無責任なコメントに対して取り上げていただき恐縮です。ジーンズで、格式の高いバーの扉を開けたような…恥ずかしいさ感じました(笑)。 共鳴する所が多く、毎回楽しみにしてます」 「共鳴するところが多い」とのこと、ありがとございます。 本来は、品格を落とさずに性愛や官能的快楽を懐疑する(深く考える)ことがテーマなのですが、最近このブログの「核武装論」が麻生さんの公式HPにリンクされたり、小倉警察署のHPにこのブログの「レイプ論」が引用されるなど、その反響に驚いています。 巨乳・爆乳・礼賛 2006-11-16 01:37:12 あいからわずの「巨乳ブーム」「胸の谷間ブーム」ですが、実は巨乳を好む成人男性はたった10%しかいないのだそうです。 女性の豊かなバストは確かに賞賛に値します。 個人的には若い女性のバストの大きさ・かたち・色・つや・感度にかなりこだわるタイプであり、「オッパイ星人」なるカテゴリーがあるとすれば、確実にこの分野に分類される可能があると自覚しております。 ただし著者の場合、現実の女性に巨乳を求めるのではなく、このブログのテーマである脳内写生のファンタジーの中での「オッパイ星人」なのです。 かなりの比率で「バストが大きいと母性を連想する」と告白する男性もおりますが、それはある意味で乳離れしていな男性が抱くイメージであって、美しい巨乳を見たり・触れたりすることでストレートに官能的快楽を覚える男性とは、おのずとカテゴリーが異なると思います。 反対に「スレンダーな女性が好み」という男性にはある種のコンプレックス(正確には劣等感)があるのではないかと考えています。 なぜなら女性の豊かなバストは男性の視線を引きつけ、強烈に圧倒し、充分に威圧する存在・誇示する存在であるからです。 だからこそ女性たちは豊胸手術を受けたり、バストを補正する下着を身に付けるのであり、こうした現象は「女性が社会進出して女性が男性より優位に立てる時代」の進展とあたかも符号するように目立ちはじめたのです。 男性は皆、巨乳に弱い・・・だからこそ女性達はバストを強調するのであり、そのパワーに負かされたくない男性達がある種の逃避としてスレンダーな女性を好むようになったのではありませんか? ほら、巨乳・爆乳に出会ったとき、とっさに視線をそらした経験があるでしょう? 自殺予告の連鎖反応 2006-11-17 00:06:35 相次ぐ文部省等に寄せられる自殺予告は、まるでお菓子屋さんやオモチャ屋さんの前で「あれ買ってぇ〜、買ってくれないと動かない!」と駄々をこねている子どもとそっくりです。 これらの行動はある種の甘えと幼稚な脅迫であり、多くの親はこうした子どもの行為は「無視」することで子どもを躾(しつけ)てきました。 そのことを忘れて、もしここで大人が子ども達の自殺予告に屈したら、弱者である子ども達の要求はエスカレートするばかりになります。 大衆社会では、弱者は悲鳴さえあげていれば誰かが救いの手をのべてくれることを本能的に知っており、時には「俺はこんなに困っているのにどうして俺は無視されているんだ」と公衆の面前で怒鳴り散らす車椅子の大人の弱者もおります。 したがって、弱者の悲鳴や怒りはおのずとエスカレートするものであり、その要求は常に際限がありません。 このことは一部の福祉政策や旧同和政策がどれほどコストを無視した結末になったか、振り返ってみれば一目瞭然です。 このため著者は11月11日のブログに【大人は「イジメたいときはイジメなさい」「自殺したいときは自殺しなさい、弱いものに将来はない」「イジメられたくなければイジメる側に廻りなさい」「生きのびたければ這い上がりなさい」等、子どもに対して強い態度で接するべきでしょう」と書きました。 これが冷酷な発言であることは充分承知していますが、議論のバランスをとるためには「あえて異論を吐く」必要もあるのです。 いま子ども達は「いじめられているから○日に自殺する」とモノマネ予告したら、文部大臣を筆頭に大人達が急にオロオロしたことを目の当たりにしています。 この子ども達の稚拙な脅迫に大人たちが屈してしまったら、子ども達はさらに増長するだけです。 断言しますがイジメは絶無になることはありません。イジメは大衆社会では試練でもあるのです。 死者に鞭を打つつもりはありませんが、履修問題で複数の校長が自殺しました。 たぶん予告通りに児童が自殺したら、その責任をとって自殺する校長が必ず現れるでしょう。 なにしろ「自殺するな」と説得し、陣頭指揮を執るべき校長が先に自殺してしまうのですから・・・ 死にたい人、死に急ぐ人、死に憧れる人はいつの時代にもいることであり、自殺がゼロになることもありません。 自殺をゼロにしようとすること自体が徒労なのです。 イジメもゼロにならない、自殺もゼロにならない。 これをゼロにしようとしたら、ものすごいコストがかかります。 この問題こそ、成り行きにまかせる・・・自殺の連鎖や「脅迫ごっこ」が自然に沈静するまで無視する。 弱者があきらめるか、淘汰されるまで待つ。 それがオトナの知恵なのではありませんか? 追伸:大人たち(担任教師・両親・教育行政)が子どもの「サイン」に気付かないことが最大の落ち度なのであり、親の観察力が低下していることに気付くべきです。 (イジメで自殺した児童の家族の皆さん、このブログは「あえて暴言を吐く」ことがスタンスであり、決してイジメを肯定し、奨励している訳ではありません。御了承ください) 良心について 2006-11-18 00:03:02 昨日のブログは著者から見ると「暴言」ではなく、ただ誰もが発言していないことなのでインパクトが強すぎるかなとは思っていました。 予想していた通りのコメントが届いています。 「暴言を吐くグログとはいえ、とても胸が痛む内容でした。暴言は、商売のためですか?誰もが奥深くに持っている良心をわざと刺激するためですか?駄々をこねて泣き叫ぶ、怒り叫ぶ、叫ばなければ気付いてもらえない。無視していれば叫はなくなる。叫ぶ事を諦めてしまった人々はどうなるのでしょうか・・・」 大衆社会および民主主義社会は同質者ばかりの集団であり、新聞もテレビも同じことしかニュースにしませんし、国会の与党と野党の政策上の違いにもさほど大きな差異がありません。 また暴言は商売にとって、むしろマイナスにしか作用しないでしょう。 リスク覚悟であえて異論を吐くことが議論を活発にし、視野を拡張し、あえて異質であることが同質社会のなかで注目される情報となるのです。 「良心?」良心の正体は幼い時に「両親」から受けた情緒であり、後に道徳や常識・世間体などで補強したある種の「やましさ」(罪の意識)です。 このブログでは道徳や常識・宗教・法律等いかなるものにも従属しない例外者という独自の生き方を提案しており、特に脳の中で考えることには法律はおよばないし、従って脳の中には善悪もないというスタンスを貫いています。 このブログは「飾り窓の天使」のホームページと連携しており、「脳内写生」という真面目で知的な思考方法を紹介しています。 ぜひ一度「飾り窓の天使」のホームページをごらんください。またこのブログの初期の記述をお読みいただくと、著者の一連の発言の意図が判ると思います。 昨日のブログの要点は以下の4点です。 ・「大人が子ども達の自殺予告に屈したら、弱者である子ども達の要求はエスカレートするばかりになる・・・自殺予告は一種の脅迫である」 ・「断言しますがイジメは絶無になることはありません。イジメは大衆社会では試練でもあるのです」 ・「自殺予告こそ、成り行きにまかせるべきである。自殺の連鎖や『脅迫ごっこ』が自然に沈静するまで大人は無視すべきである。 弱者があきらめるか、淘汰されるまで待つこと。それが大人の知恵なのではないか?」 ・「(むしろ問題は)大人たち(担任教師・両親・教育行政)が子どもの『サイン』に気付かないことであり、親の観察力が低下していることに気付くべきである」 ちなみに自殺予告が実行され自殺の連鎖が起きることはありません。自殺の連鎖は宗教(ガイアナ人民寺院事件の集団自殺)やアイドル(岡田有希子の自殺)あるいは国粋主義(旧日本軍の集団自決等)が根底にないと発生しません。 「怒り叫ぶ、叫ばなければ気付いてもらえない。無視していれば叫はなくなる。叫ぶ事を諦めてしまった人々はどうなるのでしょうか」 たとえば「汝(なんじ)の性(さが)のつたなさを知れ」という有名な句があります。 旅をしていたら道に赤子が捨てられ泣き叫んでいた、これを見つけた人が「捨てられたのも赤子の宿命・母乳が出る女性が近くにいないことも赤子の宿命・泣きやんで野犬に襲われることも赤子の宿命」と考え念仏を唱えて立ち去ったときの句なのだそうです。 この句は冷酷です。しかし最後まで面倒を見られない人が一時の「あわれみ」で救いの手を差し伸べることは慎むべきだと戒めているのです。 また、叫ぶ事を諦めてしまった人は自分で叫ぶことを諦めたのですから諦めるしかありません。それでも諦められないとすればそれは「未練」と「甘え」です。 世の中叫んでも通じないことはいくらでもあり、むしろ世の中は「思い通りにならない」ものばかりです。 叫びたいことがあれば著者のようにごく少数の選ばれた読者を対象としたホームページやブログを通じて気長に発言することをお薦めします。 ただし、その発言に伴う様々なリスク・誹謗・妨害等は覚悟する必要があります。 何度も言いますが、インターネットの世界は身を隠して物陰から石を投げることが容易な仕組みを内包しているからです。 性欲と食欲 2006-11-19 00:13:27 著者にとって最も得意とする分野の質問が届きました。 ちなみに「やらせ質問」ではありません、念のため。 【リクエストがあります。性欲と食欲この二つの違いについてお話聞きたいです。 性欲に対しては羞恥心があり、食欲旺盛だね!とは言えても、性欲旺盛だね!とは言えません。グルメリポーターと違いAV女優は恥ずかしい仕事だと思われます。食欲は皆人前で満たせるのに、なぜ性欲は人前で堂々と満たす事はできないのでしょうか?著者のご意見を是非お聞きしたいです】 食欲は生命を維持する上で不可欠な本能であり、性欲はDNAを残すために子孫を作ろうとする本能です。 実はその時々の時代や文化によって「人前で物を食べることは下品な行為」と見なされていた時代もあり、いまでもお菓子系ならともかく電車の中でパンを食べたり、歩きながらオニギリを食べると「恥ずかしい」という気分になり、周囲から注視されます。 ところが旅先の車中で駅弁を食べてもちっとも恥ずかしくないのです。 また「食欲が旺盛だね」という言葉も相手の方が肥満ぎみだと皮肉になり、今日でも「食欲は皆人前で満たせる」とは言い切れません。 従って食欲という本能すら状況次第では無制限に満たすことがでないのです。 さて本題に入ります。実は性欲もその時々の時代や文化によって「恥ずべき行為ではない」とされていた時代もあり、古代宗教はことごとく性欲を「聖なるもの」「豊穣のシンポル」として崇拝しておりました。 たとえば有名な教会のアダムとイブの壁画を最近修復したら、後世に描き加えるられたイチジクの葉の下に男性器と女性器が鮮やかに描かれていたのであり、性欲を強く戒めるキリスト教でさえ、かつては性欲を肯定していた時代があったことが判りました。 また仏教にも性欲を大胆に肯定し、性的快楽を修行の中に取り入れていた時代や宗派(タントラ等)もあり、「理趣経」の内容はまさに性欲を強く肯定するものとして伝承されてきました。 しかし後世のキリスト教や仏教等の宗教家が、無制限に性欲を肯定するとやがて荒々しい性欲をコントロールしきれなくなることに気付き、道徳や禁欲・勤勉等の制御しやすい思想を取り入れることで宗教から性欲を排除し、性欲を抑圧する思想になった訳です。 つまり、性欲は「悪いもの」「恥ずべきもの」と思い込むことは、歴史や文化の違いであると同時に、成長につれ徐々に周囲から「刷り込まれた」ことであり、いわゆる先入観のひとつと断言できます。 ところでなぜ「人前で性欲を満たす必要がある」とおっしゃるのですか? 大衆社会は法律や道徳・様々な規範等であたかも「見えざる檻」のように人々を包囲し、監視カメラに象徴されるように他者が他者を互いに監視し合うことで治安を維持しています。 こうした中で公然と性欲を満たしたら「放蕩者(オンナたらし・男あさり)」とか「淫乱」「スケベ」「変質者・いやらしい人」等のレッテル(ラベル)を貼られてしまい、結局社会から排除され「自由な性欲の謳歌」とは逆の状況に追い込まれてしまいます。 著者はまず、自己の性欲そのものが本当に自分の内奥から吹き上げてくる自分だけのオリジナルな性欲なのか否か、深く懐疑すると共に、道徳や法律等が入り込めない私秘的領域(アジール)を所有するか、あるいは脳の中に構築し、そのなかで思いっきり官能的快楽というファンタジーを渉猟することを「脳内写生」と名付け、この世界をめざす人を「例外者」と呼び、さらに「脳内写生」によって到達する神仏抜きの「聖なる世界」を「至高性」と定義しています。 詳しくは「飾り窓の天使」のホームページと、このブログの初期の記述をご覧ください。 また、「脳内写生研究所」では見学ツアーを行うと共に、著者が独自のカリキュラムを作り直接受講者の指導に当たっております。 コメントを下さった「ad・・・」さん、ご希望があれば非公開のメールにて個人的にアドバイスもいたします。 アドバイスは無料ですので、再度「個人的メール希望」と書いて、このブログにコメントを送信してください。 もし女性の相談者がご希望であれば「飾り窓の天使」のホームページから同店の店長宛にメールをくださっても結構です。 官能的思念 2006-11-20 00:51:31 「のだめ」さんから再度コメントを頂きました。 【汝の性の拙さを知れ・・・心に染みる言葉を教えていただきありがとうございます。「最後まで面倒を見られない人が一時の『あわれみ』で救いの手を差し伸べることは慎むべきだと戒めているのです」・・・いじめの渦中、また病気を含め様々なトラブルを抱えた場合、それを乗り越えたときに大きな成長・人間としての逞しさが備わるようですが、その機会をどう乗り越えるかは、まさに当事者の問題なのですね】 大人であれ、子どもであれ、病人であれ、障害者であれ、自立自助の心掛けは常に必要なのであり、試練なき成長はあり得ません。 生存を賭けた他者との戦いと自己の葛藤との戦いを克服できぬ者は「依存心」ばかり強くなり、救済の意味がないのです。 例外者は「いかなるものにも従属しない」「なにものにも依存しない」「なにものにも束縛されない」生き方を貫きます。 このブログは例外者をめざす方のためのブログでもありますので、大衆に対しては常に「汝の性の拙さを知れ」というスタンスを保ちます。 実はもう一つ質問が届いていました。 この質問にも例外者の立場から独自の見解を述べたいと思います。 相談は【別に好意を抱いている訳でもないのに、その人が近づいてくるといつもヴァギナが濡れてしまい、ただ彼とヤリタイと思うようになります。私は妄想好きの淫乱女なのでしょうか】という内容です。 彼女の年齢や性体験等が不明なので正確な判断はできませんが、この相談者は「自分をただの淫乱女だ」と思っているようです。 しかし特別な嗅覚を有する人は特定の異性のフェロモンやオーラに反応することがあり、必ずしも異常なことではありません。 もう一つの可能性は、あるレベルに到達した例外者はその強い官能的思念を離れた場所にいる女性に向けて放射することができ、そうすることでその女性を一気に発情させることができます。 これはハッタリでも超能力でもなく、鍛錬すれば会得することが可能な技法であり、特に女性側に敏感な感受性があれば例外者から官能的思念を吹き付けられた瞬間、女性は突然子宮をワシづかみにされたような衝撃を受け濡れてしまいます。 このブログの読者の中には、すでにそうした技法を会得したり、官能的思念を離れた場所で受けた経験を有している方がおりますので、差し支えなければその体験談をお寄せください。 「東京タワー」と不倫願望 2006-11-21 00:03:48 かつてTVドラマ「金曜日の妻たち」で「不倫は文化だ」と言われるほど不倫が社会現象になりましたが、映画「東京タワー」の影響で再び不倫願望が注目されています。 もっとも今回の「東京タワー」は、年下男性との不倫がテーマであり、さらにモラル意識が高い人妻(黒木 瞳)が年下の男性との恋愛にふけるというインモラル(不道徳)なものに魅せられつつ、その「やましさ」やスリルを楽しむことがテーマになっていました。 「金妻」にせよ「東京タワー」にせよ、ドラマの影響を受けて実際に不倫に走る人妻はごく少数であり、大多数の人妻はドラマを見ることでインモラルな関係に引き込まれつつ、バーチャルな背徳を楽しみ、しかも自分は安全な場所にいて不倫の修羅場を踏まなくて済むという安全で保守的な立場に安堵しており、だからこそ視聴率が高くなるのです。 しかし既婚者でも恋愛はしたいと思うのであり、配偶者がいても他の異性が素敵に見える瞬間は日常的にいくらでもあります。 しかしそこから先に踏み込めないのは「誘うきっかけがない」とか、「社会的に許されないから」と自分をセーブしているからなのです。 実は結婚していて生活も性欲も満たされていても、さらに官能を求めたいとする渇望はいつの時代にもあるのであり、映画・小説「エマニエル夫人」や映画「昼顔」「チャタレイ夫人の恋人」は、これらの渇望がテーマになっています。 特に「昼顔」は、お金持ちで何ら不自由のない生活を送っている貞淑な人妻(カトリーヌ・ドヌーヴ)が、満たされない妄想を求めて夫がいない昼間だけ淫らな娼婦となる物語でした。 「金妻」や「東京タワー」「昼顔」「チャタレイ夫人の恋人」等の映画・小説・ドラマは、いずれも実生活では満たされない欲求を虚構の世界で疑似体験するものとして鑑賞されたり、読まれてきたものなのですが、性愛懐疑派ではもう一つ別の解釈があると考えています。 たとえば「供儀」(読み方:「くぎ」「きょうぎ」、意味:自然神や神殿等に犠牲や供物を捧げること)とは古来より大切なものを神仏に捧げることで大きな災厄をまぬがれ、大いなる神仏の加護を祈願する行為であり、古くは誕生した第一子を「いけにえ」として神殿で殺したり、大切な家畜(財産)を「身代わり」の犠牲として神殿に捧げてきました。 こうした行為は現在も「お賽銭を上げる」とか「御神酒を供える」、あるいは特定の食べ物を口にしない(ラマダン・断食・物事が成就するまで断酒・茶断ちする)等の習慣としてごく一般的に見ることができます。 同様に古代ギリシャでは、「供儀」の一環として花嫁はギリシャ神殿の前で「神聖売春」を行う風習があり、多くの国で神官や領主が花嫁の処女性を確認し、これを破瓜(性交によって処女膜が破れること)していたとの史実もあります。 これは幸せな結婚・健康な子孫・家族の安全・一族の繁栄を祈願するために、花嫁花婿にとって一番大切な「処女権」を僧侶や神官等に捧げたり、見知らぬ男に売り渡し、その代償を神に捧げることで、より大きな災厄からまぬがれようとする原始信仰なのです。(ペナルティの先払いによる災厄の軽減) 著者は、現代の不倫願望は上記の「供儀」から派生した「神聖売春」のニュアンスが女性たちの無意識の領域にあるのではないかと考えています。 不透明な時代・不慮の災害・健康不安・家庭内の様々なトラブル・リストラ・・・女性たちはより大きな災厄からまぬがれようとして自己の肉体を官能的快楽という「聖なるもの」に犠牲や供物として捧げているのではないのか? 当然そこには、インモラル(不道徳)なものに魅せられつつ、その「やましさ」やスリルを楽しむことも付随しているのです。 こう考えると「不倫は文化」どころか「不倫は背徳の原始信仰」なのかもしれません。 「飾り窓の天使 脳内写生研究所」では「性欲なるもの」を真面目に深く懐疑することで、新たな官能領域の拡張を提案しています。 妄想の純粋培養 2006-11-22 00:08:46 ありとあらゆる性欲が他者によって企画され商品化されている現代にあって、不倫までもが他者によって企画され商品化されています。 まさか・・・と思うでしょうが、インターネットが普及して、お互いの正体を隠したまま人と出会うことが容易になったことで「出会い系サイト」や「チャット」「掲示板」「ブログ」などが氾濫し、同時に「不倫疑似体験」をさせてくれるTVドラマや官能小説・性愛シミュレーションゲームが増加しています。 ところがその一方で、「ネット不倫」を監視するツールが販売されたり、不倫している二人を引き裂く「別れさせ屋」が登場したり、不倫相手の素性や身元調査を行う「ネット探偵」まで出現しています。 これらのニュービジネスはいわば「不倫ビジネス」なのであり、本来「背徳」であるはずの不倫をネタにした「金儲け」なのです。 実は「禁じられたもの」は禁じられることでむしろ怪しい輝きを発するのであり、厳重な禁止をあえて侵犯することでかえって快楽は強化されます。 たとえば、教師による盗撮・消防関係者による放火・宗教家や公務員による買春・警官の犯罪等がこのパターンに該当します。 ところが大衆社会では、麻薬が「合法ドラッグ」と称して規制をくぐり抜け、あらゆる犯罪がドラマ化され疑似体験できるなど、本来禁じられたことが堂々と商品化され、「金儲け」の手段にされています。 こうなると「禁じられたものは禁じられることでむしろ怪しい輝きを発するのであり、厳重な禁止を侵犯することでかえって快楽は強化される」という楽しみや機会そのもが大衆によって奪われてしまうのであり、かつてオルテガは「大衆への反逆」というタイトルの著書のなかで「芸術や宗教までもが大衆によって商品化されている」と嘆いて見せました。 大衆社会ではありとあらゆる「もの」と「こと」が他者によって企画され商品化されており、あらゆる性欲までもがすでに商品化されています。 あえて暴言を吐けば「お金を出せば、ありとあらゆる性欲を満たすことができる」時代なのです。 かくなるうえは、官能的快楽を噴射エネルギーに使い至高性をめざそうとする例外者は、大衆が絶対に入り込めない私秘的領域(アジール)を確立し、他者が企画したものではないオリジナルな妄想やファンタジーを純粋培養する必要があります。 これが真の「オタク」なのであり、誤解される名誉なのです 大衆からのコメント 2006-11-23 01:17:18 「お前はただの変態じじいだよ。なぜそんなに上から目線なんだ?」 まさに「大衆」から見たら、このブログとその著者は「変態」か「変質者」にしか見えないでしょう。 例外者は大衆でないことをめざすから例外者なのであり、従って大衆から誤解を招くたびに「誤解される名誉」を感じます。 簡単に大衆に理解されるようでは、さらに先の至高性をめざす例外者の資格がありません。 大衆に理解されるくらいなら、死んだ方がマシです。 大衆など、もはやどうでもいいのです。大衆は所詮、「衆愚」です。 このブログはごく一部の選ばれた異質な読者を対象に記述しています。 ですから大衆には判らないし、判ってもらう必要もありません。 「見下されている」と感じる人や、反発を感じる人、不満がある読者は、ただの大衆にすぎません。 ただちに閲読をやめてください。 著者には読者を選ぶ権利があります。 著者は半年近くもこのブログを熱心に読んでいる「沈黙せる150名の読者」のために、著者はあえて常に異質なメッセージを発信しているのです。 実は150名でも多すぎるのではないか・・・と案じているほどです。 大衆からあえて反感を買うこと、公然と大衆批判を行うこと、わざと大衆から誤解されるように振る舞うこと、あなたにそれだけの勇気がありますか? 辿り着く先は誰もいない世界です・・・ 著者はその結末も覚悟のうえで「大衆でないこと」をめざしているのです。 「ここまでおいで」という至高性のささやきが聞こえる限り・・・。 「アニメイト」の商標登録料を納付しました。 2006-11-24 01:18:18 「飾り窓の天使」の運営会社が出願していた「相互リフレクソロジー ファンタジー気功 飾り窓の天使 ドールマニア&三次元美少女&アニメイト」という商標出願に対して、先日特許庁より「この商標登録出願についは、拒絶の理由を発見しないから、この出願に係わる商標は、登録すべきものとみとめます」との登録査定が届きましたので、当社はさっそく登録料を特許庁に納付したそうです。 ?アニメイト(本社:池袋)と「飾り窓の天使」との商標をめぐる争いについては以下の日付のグログをご覧ください。 8月10日 8月12日 9月 6日 9月 9日 9月11日 10月22日 一連の争いはまさに「蟻の会社と象の会社の戦い」であり、?アニメイト側は2度も内容証明郵便を送付して来て、当時出願中であった冒頭の商標を「取り下げるよう」強要し、まぎらわしいとの理由で「飾り窓の天使」のチラシの配布の停止やホームページでの使用をやめるよう恫喝してきました。 もちろん「飾り窓の天使」側はその法的根拠を差出人に問いただすと共に、?アニメイトの代理人である弁理士4名に対し詳細な反論と質問を行いましたが、?アニメイトおよび代理人等は「飾り窓の天使」側になんら回答することがありませんでした。 実はあとで判明したことなのですが、?アニメイトの代理人等は「飾り窓の天使」側を内容証明郵便を用いて弁理士が集団を形成して「ちからずく」で恫喝しながら、その一方ですでに8月23日の時点で特許庁に対して「刊行物等提出書」を提出し、「飾り窓の天使」側が出願している冒頭の商標を商標登録すべきではないとの資料を提出して一種の審査妨害までしていました。 最近著者は「飾り窓の天使」の運営会社が入手した?アニメイトの代理人が提出した「刊行物等提出書」を見せてもらったのですが、その中の「提出の理由」という項目が実に「オモロイ」内容だったのでここに紹介することにします。 なお今回?アニメイトを実名で表記したのは、同社および代理人等が特許庁に対し「刊行物等提出書」を提出したからであり、この書類は閲覧請求すればだれでもその内容を見ることができる公開された文書であり、公開された文書の引用である以上、もはや伏せ字を用いる利用がないと著者が判断からです。 「刊行物等提出書」 「提出の理由」 (「飾り窓の天使」側が出願していた「相互リフレクソロジー ファンタジー気功 飾り窓の天使 ドールマニア&三次元美少女&アニメイト」という上記商標は)【「公の秩序又は善良な風俗を害する恐れがある商標」であり・・・有名な「飾り窓」という売春を目的とした風俗街の通称を含んでおり・・・商標の構成自体が卑わい・他人に不快な印象を与え・・・特殊な風俗への連想を助長させます」】 またさらに続けて、 【「相互リフレクソロジー ファンタジー気功 飾り窓の天使 ドールマニア&三次元美少女&アニメイト」という商標は?アニメイトの業務(アニメ業界)と誤認を招くことは明らか・・・】であると述べ、「飾り窓の天使」が出願している商標は登録されるべきではないと?アニメイト側は主張しています。 なぜこの「提出の理由」が「オモロイ」かと言うとエロアニメやアダルトビデオ・エロゲーム・エロ同人誌等を販売する?アニメイトと、福岡市の大名小学校の前で堂々と営業している「飾り窓の天使」とどちらが「公の秩序又は善良な風俗を害する恐れがある商売」をしているのか比べてみればおのずと「飾り窓の天使」のほうが正業(社会に認められた事業)に近いと思います。 しかもその?アニメイトが年商300億円・全国39都道府県に72店舗もある(「提出の理由」より引用)となると「アニメイトは周知著名な商標である」と言うよりは「公の秩序又は善良な風俗を害する恐れがある商売」がそれほど儲かっており、さらにその店舗が各地に蔓延していることになるのです。 もう一つ?アニメイト側には誤解があります。 「飾り窓」という名称は売春を連想させると?アニメイト側は主張しますが、アムステルダムの「飾り窓の女」と呼ばれる女性達は、オランダの法律上「女性が自分の意志で売春することは個人の権利であり、尊重すべきである」と考えに基づき営業許可を受けている公娼(公的に管理・許可されたプロの娼婦)であり、わが国の犯罪としての売春と同一視すること自体ひどい錯誤です。 おそらく「飾り窓の女」たちがこの文章を読んだらきっと激怒するでしょうし、むしろ?アニメイトは少女や女性の性愛を商品化しており、女性蔑視が強い大企業であると思うでしょう。 また「飾り窓」という名称は、わが国でもアルミ製の「出窓」を販売しているサッシメーカーが商品名として使用しており、電話番号検索をしてみると喫茶店等の名称として数多く使用されています。 したがって?アニメイト側が「飾り窓」は「特殊な風俗への連想を助長させます」と主張したら憤慨する事業者が数いるはずです。 つまり?アニメイト側は「飾り窓」という名称を始めから誤解しており、「飾り窓=売春」と言う決めつけはきわめて粗雑で短絡的な発想であって、論理として破綻していることは明白です。 だからこそ特許庁の審査官も?アニメイト側の提出書類を無視したのであり、逆に「相互リフレクソロジー ファンタジー気功 飾り窓の天使 ドールマニア&三次元美少女&アニメイト」と言う商標は「拒絶の理由を発見しない」として商標登録されたのです。 これら一連の?アニメイト側の行為は、どう見ても「いやがらせ」であり、「飾り窓の天使」に対する悪質な業務妨害および「いわれなき脅迫」であったことが再度裏付けられました。 商標登録証の到着を待って、「蟻の会社」は「象の会社」に対して本格的な攻撃を開始する予定とのことです。 それにしてもたった一人で、しかもたった1回の出願で、?アニメイトの執拗な妨害をくぐり抜けながら、 「相互リフレクソロジー」 「ファンタジー気功」 「飾り窓の天使」 「ドールマニア」 「三次元美少女」 「アニメイト」 とその「ロゴマーク」の計7点の「きわどい」登録商標を獲得するなんて、あきれた度胸と根性であると思いませんか?「攻撃開始」が楽しみです! ファンタジー気功・その後 2006-11-25 00:03:54 「ガンダムさん」からコメントがありました。 【なんだよ・・・象が負けたんだ。でかいだけで脳なしだなんて、もうエロゲー買わないぞ】 そうだ君は賢い! ------------------------------- 「ファンタジー気功」とは施術を行う女性がエロティックなコスチュームを身にまとうことで「気」のパワーが高められ、この高められた「気」を「施術を受けようとする人」(お客様)に向け、その人の官能的回路に視覚を通じてアクセスすることで、施術者である女性の高められた「気」を相手の脳や身体に深く浸透させる手法のことであり、これは「飾り窓の天使」が女性の自立(働く女性の支援)を応援するために考案した前例のない「療術」(健康法)であり、最近商標登録も認められた新しい脳内リフレッシュの方法です。 人は古来より様々なコスチュームを身にまとうことで精神的エネルギーを高めたり、身体能力を強化すること(祭りのハッピ等)、あるいは人格を着脱すること(宗教儀式や演劇の衣装等)、身分等のステージを超越することを古来より行っててきました。 もっとも女性は下着の色を変えたり、髪形を代えただけで気分が変わると言われるほどコスチューム等の影響を受けやすい存在なのです。 また最近はスポーツの世界でも競技の時のコスチュームの効果により運動能力を高める試みも出てきました。 たとえばソウルオリンピックで100メートル走・200メートル走・400メートルリレー走で金メダルを獲り3冠を達成したフローレンス・ジョイナー(アメリカの陸上選手)は長く伸ばした爪に鮮やかなネイルアートを施したり、陸上選手には珍しく長い髪の毛をなびかせ激走して話題を呼びましたが、彼女は左右で色彩が異なるタイツを着用して走るなどコスチュームにもかなりこだわっていました。 また新体操やフィギュアスケート・女子テニスでも明らかにコスチュームにこだわる選手もおります。 一般に「コスプレ」と言うと先入観で何か「いかがわしいもの」とか「変身ごっこ」のように軽く見られがちですが、歴史的にも心理学的・宗教学的・民俗学的見地から懐疑(深く洞察すること)してみると軽視できない重要な要素を数多く含んでいます。 ちなみに「ドレスアップ」とは文字通り「女性が正装すること」であり、衣装で着飾ることで自己を高めることであり、反対に「ドレスダウン」とは「略装にすること、約束事にこだわらない服装をすること」です。 コスプレは「ドレスアップ」と「ドレスダウン」を同時に行いつつ、自己の身体を改めて「ラッピング」する行為であり、自己が高められると同時に、それを眺める者の気持ちを高揚させる効果があります。 (リオのカーニバルの踊り子さんと観衆の関係など) そこでこの「ドレスアップ」と「ドレスダウン」の二つのインパクトを結合させ、強化された「気」のエネルギーを「施術を受けようとする人」に向け、その人の視覚を通じて脳の中の官能的領域を覚醒させ、さらにコスプレによって高められた「気」を脳や体内に深く浸透しやすくすることで、「ファンタジー気功」を見る人の脳と身体をリフレッシュすることができるのではないか?と「飾り窓の天使」は考えたのです。 これまで、福岡の「飾り窓の天使」で行われていた「ファンタジー気功」はまだ完璧ではなく、衣装や振り付けにもう少し工夫が欲しいと思っていました。 しかし先月「YUMIダンススタジオ」主宰のYUMI先生に特別にポージング(振り付け)を依頼し、お陰でやっと「ファンタジー気功」のポージングが完成しました。 来年からは「ファンタジー気功学院」にて、本格的にこの新しい気功法を広めるための活動を開始いたします。 愛はあてにならない。 2006-11-26 00:02:55 11月20日のブログ「官能的思念」について楓さんからコメントがありました。 【愛がないと無理・・・私はいつも撫でられている。優しく暖かく大事にされている。自分の気持ちが安定して相手を心から想うと、あっ今、私を愛してるなと子宮が感じます】 11月20日のブログは【別に好意を抱いている訳でもないのに、その人が近づいてくるといつもヴァギナが濡れてしまい、ただ彼とヤリタイと思うようになります。私は妄想好きの淫乱女なのでしょうか】という質問があり、著者は「特別な嗅覚を有する人は特定の異性のフェロモンやオーラに反応することがあり、必ずしも異常なことではありません。 もう一つの可能性は、あるレベルに到達した例外者はその強い官能的思念を離れた場所にいる女性に向けて放射することができ、そうすることでその女性を一気に発情させることができます。 これはハッタリでも超能力でもなく、鍛錬すれば会得することが可能な技法であり、特に女性側に敏感な感受性があれば例外者から官能的思念を吹き付けられた瞬間、女性は突然子宮をワシづかみにされたような衝撃を受け濡れてしまいます」と回答しました。 しかし楓さんは、いわば官能的思念だけで濡れることは無理であり、優しく大事にされたり愛がなければ子宮が感じることはないとご自分の体験を述べています。 実は性愛懐疑派は「愛ほどあてにならぬものはない・愛ほどはかないものはない」「愛はエゴであり、独占欲と依存関係である」との観点から愛にもとづく性愛に信を置きません。 恋愛やパートナーに依存した性愛は多くの利害やエゴという不純物が混ざっており、パートナーが浮気しただけで簡単に破綻してしまいます。 一方例外者が至高性に到達するために求める純度の高いオリジナルな性欲にもとづく官能的快楽は、利害やエゴ、あるいはパートナーに依存していません。 至高性に到達するための官能的快楽は際限がないのです。 詳しくはこのブログの初期の記述をご覧下さい。 特に5月29日や6月8日のブログが参考になると思います。 孤独をおそれるな。 2006-11-27 00:02:17 (Unknown) さんからの質問です。 【結局人は一人で生きてゆく力を身につけなければいけないと言う事ですか?著者は何の為に友人を作り恋人を作るのでしょうか?著者の言う通り自立ができれば、恋愛のドキドキも、セックスの快楽も全てが脳内で自分一人でできるのですよね?私は人に依存したくない、自立したいと強く思います。しかしやはり一人では生きてゆけません。そもそも人間は何の為に人付き合いをするのでしょうか。大衆社会だからですか?】 上記の文面から推測すると、質問者はこのブログをずーッと熱心に閲読してくれている方のようです。長文にもかかわらず閲読くださり本当にありがとうございます。 また日曜日の早朝の書き込みですので、たぶん一人の時間を大切にする方なのでしょう。 またこのブログは、質問を行うこと自体にかなり勇気がいるのではないか・・・と思います。 なにしろ大衆からの書き込みがあると、断固として戦う方針ですので。 【何の為に友人を作り恋人を作るのでしょうか?・・・しかしやはり一人では生きてゆけません。そもそも人間は何の為に人付き合いをするのでしょうか。大衆社会だからですか?」 孤独を恐れること・群れを作りたがること(その結果、ヨソ者を排斥すること)・死を恐れること・不幸を忌避すること・将来に希望を抱くこと・何かに依存したり従属したがること、宗教や環境活動、趣味、スポーツ、音楽等に熱中すること・ファッションや外見にこだわること・ブランド品や高級グルメに傾倒し、浪費すること・・・実はそのすべてが大衆の行動パターンなのであり、友人も恋人もすべてこの行動パターンのどこかに当てはまります。 でも「やはり一人では生きてゆけません」よね、一人では寂しすぎます。 そこでこの大衆的行動パターンに気付き、「この世界には、なにひとつよりどころがない」と自覚した者同士が、愛も友人も恋人も所詮はかない関係であることをお互いに充分承知した上で、「いまここに偶然めぐりあったことは僥倖(ぎょうこう:思いがけない幸運のこと)であり、『いまここにあること』をお互いに大切にしながら、いまここにあなたと居ることに専念する」という生き方をするのであれば「はかない愛」「はかない恋」「はかない人生」「はかない生命」であることが、むしろふたりを燃え立たせ、「はかない」ことが逆に強い絆となるのです。 しかしなかなかすぐれたパートナーに巡り会う機会がありません。 著者およびこのブログの協力会社は、大衆であることをやめて大衆社会から逃避ではなく「亡命」してくるごく少数の選ばれた例外者のためにアジール(避難所)を作り、その入口として「飾り窓の天使」というお店をあたかも暗闇に光る誘蛾灯のようにあえて目立つ形で開設し、さらにハイレベルな至高性をめざすお手伝いをしながら、各自の自立のための応援も行っております。 ところで上記の「自立ができれば恋愛のドキドキも、セックスの快楽も全てが脳内で自分一人でできるのですよね?」との一文は少々誤解があります。 このブログのタイトルである「脳内写生」は「脳内射精」のことではありません。 「脳内写生」とは、脳のなかに豊かでオリジナルなファンタジーを描き、その中を自在に飛び回る才能のことです。 従って「自立さえすれば、恋愛のときめきも官能的快楽も一人で満たせる」のではなく、「例外者として至高性に到達すればパートナーがいてもいなくてもオリジナルな官能的快楽が獲得できる」ということなのです。 他者が金儲けのために企画し商品化した性欲に振り回されたり、凡庸なパートナーによる性器や性交や射精にとらわれた単純な性行為で満足できるのが大衆であり、このあわれな現実に気付かない限り「至高性」の意味も判らないと思います。 愛と自由 2006-11-28 01:49:15 「興味津々さん」から【貴方にはご自分で選んだパートナーがいますか?愛より強い絆を持つ人なんて凄く興味があります】との質問が届きました。 以前、著者に対して「独身ですか?結婚しているのですか?」と言った質問があり、その際「この世のものではない、かなり歳下の女性と暮らしている」とお答えしました。 しかし【愛より強い絆を持つ人なんて凄く興味があります】との書き込みは、「性愛懐疑派や例外者に興味がある」と解釈することもできるので少し詳しく説明しましょう。 まず「愛より強い絆を持つ人」=「配偶者」と必ずしも限定しないでください。 また「至高性」が「愛より強い絆である」と解釈することも安易すぎます。 至高性は「いかなるものにもとれわれない」「いかなるものにも所属しない」「いかなるものにも従属しない」「いかなる有用性も持たない」「人格・性別の自在なる着脱」を求める、きわめて厳格かつ大衆にとって永遠に近づけない危険な世界です。 この世界では厳密には特定のパートナーすら不要であり、何かに「興味」を抱くこともありません。 そこには、いかなる意思も意図も善悪もなく、大衆にとってひたすら不条理な「ものごと」が沸騰しつつ、氷結しています。 なぜなら、現実の世界では「6000度に熱せられた氷」を作ることは困難ですが、脳のなかで「6000度に熱せられた氷を造る」ことは、さほど困難なことではありません。 こうしたことが体験できれば不幸であることが幸福になり、地獄の苦しみが極上の快楽になり、さらに極上の快楽を地獄の苦しみとして楽しむこともできるようになります。 上記のコメントを書き込んだ方が、道徳や常識にとらわれずリアルで豊かなファンタジーを描ける才能があるか、そのためのトレーニングを行うのであれば、いずれ本物の例外者と出会うことができるようになると思います。 【著者は孤独な方なのでしょうか?家族がいらっしゃいますよね。家族、会社、組織、その中にいても孤独ですか?私は孤独を楽しみ・・・孤独こそが自由です】 はい、著者には伴侶もいます、社員もおります、大勢の仕事上の仲間もおります。 でも大衆にはけっして理解されない生き方を、あえて至高性の世界で貫いていますので、例外者はいつも真に孤独です。 ニーチェはこの孤独を「砂漠のライオン」にたとえています。 百獣の王・ライオンは誇り高くても砂漠では餌もなく、やがて飢え死にする運命にあります。 それでもライオンは躊躇せず堂々と砂漠を歩くべきなのだと・・・ しかし孤独であることに寂しさや哀愁を覚えることはありません。 大衆ではないことに誇りがあり、大衆としてではない生き方を貫くことが著者の人生であり本望だからです。 大衆と同じように生きるなんて、まっぴらなのです。 私の人生は私が自在に消尽する。私の人生は私らしく切り開く。 たしかに「孤独こそが自由」なのですが、実はその「自由」が法律や常識・世間のしがらみ・道徳・規範等の目にみえない檻の中の自由にすぎないことも気付いてください。 大衆には真の自由はありません。 例外者には、大衆をこらしめる自由も、大衆を排斥する自由も、大衆を不幸にする自由も、大衆に対して不条理を行使する自由もあるのです。 まとめて回答します。 2006-11-30 01:53:01 2日間、出張でした。 このためコメントをたくさん頂きながら時間がなくてお返事ができませんでした。 【コメント:「一人の時間を大切にする」今までそんな風に考えた事ありませんでした。職場が変わってからはだいぶなくなりましたが、昔は一人でいる事にどこかうしろめたさを感じ無理して友達と遊んだりしていました。だけど私一人でいるのが好きなんです。というか、一人でいる自分が好きなんです。「一人の時間を大切にする人」と言われとても気持ちが軽くなりました。ありがとうございます】 お返事が遅れてごめんなさい。 「一人でいるのが好きなんです・・・一人でいる自分が好きなんです」と言えるあなたは、自分を大切にできる人であり自分を愛せる人・自分を許せる人です。 無理に大衆社会に紛れ込む必要はありません。大衆と共にいることに居心地の悪さを感じる人は例外者をめざすべきなのです。 このブログでお互いに巡り会えてよかったですね。 【コメント:愛してるなんていくら言葉にされてもそれは誰にでも言える事。愛は体で感じる物!いつも、何処でも、私を欲しい抱きたいと彼の体が1番正直だしわかりやすい愛】 「彼の体が1番正直だしわかりやすい愛」・・・そうですね、たしかに。 でもその彼の「欲しい、抱きたい」と言う欲望が、実はどこかの誰かが金儲けのために企画し商品化した性欲(アダルトビデオ・ポルノ・エロ小説等)にもとづいており、その性欲をあなたのカラダを借りて満たしている可能性はありませんか? それは愛ではなく「商品化された性欲に振り回されている哀れな大衆」か、「ひとりよがり」の性交なのです・・ 【知りたいです:著者が選んだ生涯の伴侶さんは例外者と言うこの世のものじゃない人なんですよね?例外だから惹かれるんですか?まさか運命なんて嘘っぽい話じゃないよな!】 【パートナーについて:配偶者がパートナーじゃないなら?パートナーは一人と決めているわけじゃないんだな。この世の物とは思えないほどの素晴らしい配偶者ならパートナーなのか?想像できないな】 実は出張中、何人もの方から「奥さんについて詳しく知りたいとの質問がブログに届いていますよ」と連絡をいただきました。 それよりも驚いたのは当の「この世のものではない配偶者」から「私に関する質問が届いてるけど、どうするつもり?」と言うメールも来ておりました。 「この世のものではない」と言う意味は、「この世のものではないほどすばらしい」というニュアンスと、「この世のものではないと言いたくなるほどのソクラテスの妻状態」というニュアンスがあり、著者の配偶者の場合この比率が3:7位であると想像しておいてください。 なにしろ以前、彼女に「珍獣」という定冠詞を付けたところ妙に気に入ってしまい、さらに最近「野生のチンパンジー」であると再定義したところ「うれしい!」と飛び回る有り様で、さらに自ら「珍・パンジーちゃん」と称してご満悦の様子なのです。 こんな配偶者なので「必ずしも配偶者=例外者のパートナーとは言えない」のであります。 (彼女は今、このブログの下書きを覗き込んで、うれしそうに笑っております) 「例外者だから惹かれるんですか?」著者の場合、この質問を受けることがもっとも多いのですが、もし誰かと出会ったとき、その人物や小説あるいは作品や造形物そして「この世のものでないもの」等が性愛懐疑派の立場に近く、しかも真の例外者たる素養があれば、両者は互いに「惹かれる」までもなく瞬時に心身ともに融合・同化・統合してしまいます。 なぜなら広大な宇宙では例外者と例外者が巡り会う確立などゼロ以下の状況なのに、しかもそれこそ100年に一人しか出現しない例外者が偶然例外者と出会うのですから、隕石と隕石が衝突するような閃光を発して不純物をはじき飛ばし、一瞬で高純度の至高性に到達します ☆特別企画のお知らせ☆ 2006-12-01 01:32:42 Lui☆CO,.LTDと「飾り窓の天使」の初コラボレーション 日 時:2006年12月10日(日)午前11時から午後8時まで 場 所:飾り窓の天使(福岡市中央区:公式サイト http://www.kazarimado-tenshi.com/) テーマ:九州ではじめての「メイドさんのおつかい」イベント開催 P R:「ご主人さま、お嬢さまはどんなメイドさんをお好みですか?? かわいい萌えメイドさん・ツンデレ・天然系・・・様々なメイドさんが皆様をお迎えいたします」 当日は、あなたの好みのメイドさんに『はじめてのおつかい』をお願いしたり、ふたり仲良くお買 い物に行けちゃいますよw」 ?料金? 15分 200円 Lady,sパック 2時間 980円 3時間パック 1,980円 特典いっぱい終日パック 5,000円 ? オプション? コスプレOK! 女性専用衣装の貸し出しあります! メイドさんと一緒にゲームもできちゃう! もちろん、思い出を残すためのチェキもありますよ♪ メイドさんに癒されて脳内リフレッシュしてみませんか? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? ? 「飾り窓の天使」は一見「コスプレ・メイドサロン」に見えるのですが、案外オタク系・アニメ系のお客様が少ないお店なのです。 そこで今回、はじめて「LuiLui」さんにお願いして、オタク系メイド系のイベントを企画しました。 残念ですが著者はあいにく当日参加できません。 でも「飾り窓の天使」を実際に見学するよい機会ですので、ぜひお近くのかたはご参加ください。 「飾り窓の天使」の名物店長「JunJun」嬢が皆さんをお待ちしております。 バチカンはHIV撲滅の敵・女性の敵 2006-12-02 00:51:41 著者が伴侶のことをこのブログに書いた途端にブログのアクセス数が一気に通常の3倍に跳ね上がってしまいました・・・ よほど「この世のものではないチンパンジー」のことが読者の皆さんの注目を浴びたようです。 それとも単なる好奇心ですか? 当人は突然の人気沸騰?に喜んでおりますが・・・ ------------------------------------------------------------------- ローマ法王庁(バチカン)はカトリックの教義に基づき、歴代の法王が「避妊は快楽主義的でキリスト教道徳に反する」との観点からコンドームの使用を一切認めていません。 しかし、途上国を中心にHIV(エイズ)の感染が拡大しており、途上国の教会側からコンド−ムの使用の容認を求める声が高まっていました。 このような状況に直面してバチカンは、ようやく夫か妻のどちらかがHIV感染者である場合に限ってコンドームの使用を認めるとの方針を近く発表するそうです。 ある枢機卿は推計約4000万人と言われるHIV感染者の問題を「法王も深く懸念している」と語ったそうでが、著者はむしろキリスト教は2000年以上の間「女性の産む権利・産まない権利」を侵害してきた事実を思い起こすべきであると思います。 さらにキリスト教は、今日なお女性には「避妊」の選択肢すら与えない頑迷な教義を堅持しており、この期におよんでもまだその教義を放棄しようとしない「おぞましい」宗教であることも認識する必要があります。 このような教義があるがために、どれほどの女性が多産の犠牲になり、育児に疲れはて、貧困におとしめられ、どれほどの女性が出産時に命を落としたことか・・・ もしキリスト教の教義に従うのであれば、婚姻は始めから「女性は男性の射精を拒んではならない、その結果妊娠したら無条件で産め」という生活になるのであり、これでは家庭内レイプと変わりない性生活になってしまいます。 さらに今日までコンドームの使用を一切禁じてきたということは、バチカンとキリスト教は、むしろHIVの蔓延に堂々と加担してきたことになるのであり、途上国ほど盲目的に教義を信じやすいことを考えれば、バチカンとキリスト教はHIVという「悪魔」の手先であったことになります。 もし、コンドームの使用を禁じても神の加護によりHIVの感染が拡大しないと信じたのであれば、いまなぜ信仰や神の力でHIVの問題が解決できないのか、宗教家として真摯に内省すべきでしょう。 キリスト教のみならず、あらゆる宗教と信仰は愚かな大衆が作り出した迷妄であり、宗教と信仰は愚かな大衆のためにあることをバチカンはコンドームの問題でみごとに証明してみせました。 例外者から見ると、あきらかに信仰の力には限界があり、宗教に囚われることは人生の浪費でしかありません。 ネットいじめ 2006-12-03 00:07:51 バチカンを批判したら罰が当たるぞ・・・とか、キリスト教徒から抗議があると思っていたら、著者の伴侶問題が尾を引いておりました。 【勘違い:伴侶の方に人気があるわけじゃないね。ブログに人気があるんだろ? 誰もチンパンジーには興味なし!飼い主の飼育に興味あり!】 つまり著者の飼育方法や飼育方針に関心があるというわけですね。 しかし、著者はチンパンジーの「飼育係」ではありません。 「餌付け」と「あばれん暴対策」はしておりますが・・・ ------------------------------------- 最近陰湿な「ネットいじめ」が教育の現場でも横行しており、インターネットの匿名性が陰湿さをさらに助長していて学校もまったく対応できないのが実情です。 実は、インターネットの掲示板を利用して特定な個人を集中的に攻撃したり、差出人不明の悪口メールや告げ口メールを特定の人物に送りつけるとか、事実無根の噂を繰り返し流布して信用を失わせるなど、直接的なイジメよりも「ネットいじめ」のほうが深刻化しています。 最近山梨県の女子高生が自宅で精神安定剤を大量に飲み自殺を図りました。 自殺の原因はこの女子高生のブログに「学校をやめろ」等の脅迫や中傷が大量に書き込まれたのが原因でした。 悪名?高き「2ちゃんねる」は、一応削除ルールが設けられているものの、「削除規定」を読んで見ると実際にはほとんどの書き込みは削除されない仕組みになっています。 このため虚偽の書き込みや中傷文が何年も放置され、しかもその書き込みが世界中から覗かれていることになります。 インターネットにおけるエチケットを「ネチケット」と称して、秩序あるネットライフを楽しむこことを提唱する人々がおりますが、はじめからインターネットの世界は嘘もダマシも無秩序な世界・無法地帯であると「心して」利用したほうがトラブルに巻き込まれずに済みます。 もし何かの情報をインターネットで得たとしても、その情報を丸ごと信じるのではなく、少なくとも情報は「ダブルチェック」してから慎重に利用してください。 インターネットの世界には善人はおりません。 善人のフリをした「なりすまし」がいるだけです。 また悪質な中傷を受けたときは、郵便局で販売している手書き用の内容証明郵便を使用してプロバイダーや管理者に抗議文を送付し、期限付きで削除や掲示板の閉鎖を要求し、それでも対処してくれないときは警察や人権擁護委員会にこの内容証明郵便の控えを持参して救済を求めてください。 また、ここまで努力しても事態が改善されないときは、簡易裁判所に「被告人不詳」のままで名誉毀損にもとづく損害賠償請求訴訟を起こします。 簡易裁判所に行くと、職員が丁寧に訴状の書き方を説明してくれます。 あとは裁判所が職権でプロバイダーを呼び出しますから、泣き寝入りだけはしないでください。 ちなみに、GHQはわが国の国民を「密告と誹謗中傷を好む民族である」と分析していました。 悲しいことですが、イジメや誹謗中傷は品格なき国民性の産物なのかもしれませんね。 美少女フィギュア 2006-12-04 00:29:40 大田区産業プラザで開催された「美少女フィギュアコンベンション東京2006」を見てきました。 目的は「飾り窓の天使」で進行中の「ファンタジー気功」のためのポーズの収集のためです。 フィギュアのポーズは、いずれも視覚を通じてインパクトを与える姿勢をしているので新しい気功法の参考になると思ったのです。 ところで同展の圧巻は、なんと言っても?ペーパームーンが出品した等身大フィギュア(¥23万円〜45万円)でした。 そして精巧な等身大フィギュアを眺めていたら、等身大フィギュアには大別して「可愛いらしいフィギュア」と「エロティックなフィギュア」があり、さらに等身大フィギュアの素材をFRPから人肌シリコンに置き換え、関節が動くようにするとラブドール(ダッチワイフ)になることに気付きました。 等身大フィギュアとラブドールの境界は実に接近しており、両者の違いは使用している素材が固いか・柔らかの違いしかないのではないかと思います。 一方メカニックな二足歩行ロボットも、ますます人間とそっくりの外観を持つロボットになりつつあり、ロボットが人間に近づきすぎて不気味に感じる時が到来するかもしれませんが、今度はその不気味さがまたある種の「怪しい魅力」となって人間を魅了する可能性すらあるのです。 「人間型二足歩行美少女ラブドール・フェチ」なる性愛嗜好が登場するのも、もはや時間の問題でしょう。 たとえばビジネスホテルのクローゼットを開けたら、中にコイン式の「人間型二足歩行美少女ラブドール」が待機しており、入浴の世話からマッサージまでしてくれ、さらに一夜妻の役目まで果たしてくれたら、出張も楽しくなるはずです。 またいつか美少女フィギュアと人間型介助ロボットが融合して人間の目を楽しませてくれると共に、人間の性欲も満たしてくれるかもしれません。 たぶんその頃には「ロボットとの性交禁止の法律」とか「ロボット売春禁止法」なども施行されることでしょう。 わがチンパンジー型伴侶も、いっそのこと「人間型二足歩行美人ラブドール用サイボーグ」に改造してみようかな・・・でも素材が問題だな・・ 遠隔性愛ツール 2006-12-05 00:11:00 「コメント:イベントですか?気になるお店でしたが、女の子でも入れるのかな?覗いてみたいな」との書き込みがありました。 はい、飾り窓の天使は「すごく気になるお店ですね」とよく言われます。 東京から見学ツアーを企画しようとのオファーもあります。 店長が女性ですし、キャストも全員女性ですから安心してお立ち寄りください。 ボッタクリもダマシも一切ありません。 こころよりご来店をお待ちしております。 (イベント当日、著者は不在ですが「ブログ見てます」と言ってください。男性・女性を問わず特製「足ゆびまくら」をプレゼントいたします) ------------------------------------------------------------------ 昨日「等身大美少女フィギュア」や「人間型二足歩行美人ラブドール」の話をしましたが、バーチャル・リアリティ(仮想現実)の分野で面白い技術がありましたので紹介します。 たとえば遠距離恋愛のカップルにとって携帯電話やメール・FAXが主なコミュニケーションの手段であり、最近は携帯テレビ電話も遠距離恋愛のツールとして利用されています。 そこで 米国のCuteCircuitという会社が遠距離恋愛のカップルのために「抱擁シャツ」を開発しました。 このシャツは、遠く離れた場所にいる人に「ぬくもり」や抱擁感を伝えるシャツであり、送信者はセンサーが取り付けてあるシャツを着ることで体温や心臓の鼓動を検知し、この信号を携帯電話回線を使って離れたところにいる受信者に送信し、受信者が身に付けている「抱擁シャツ」に取り付けられたアクチュエーターを動かすことで、触覚(抱擁感・手触り・ふれあい感)や体温が感じられるように造られています。 つまりこのシャツを着て「美少女フィギュア」や「美人ラブドール」を抱きしめると、その感覚が離れたところにいる受信者にリアルタイムで伝わり、受信者はあたかも全身を抱きしめられたように感じるのです。 実は「遠隔コミュニケーション」の発達はめざましく、インターネットや電話では伝えられない「触覚」や「嗅覚」を遠隔地に伝える試みがこれまでにも行われてきました。 これらの技術はいずれもインターネットを経由して、一方に与えた刺激を遠隔地にいる他方に伝えることで、たとえ顔は見えなくてもネット越しにより高度なコミュニケーションを可能にするものなのです。 確かに「ふれあい」は人を癒すチカラがあります。上記CuteCircuit社によると、成人の場合握手や抱擁、恋人や配偶者とのキスなどで少なくとも1日に70回の「ふれあい」が必要なのだそうです。 ただしこれはあくまでも大衆レベルの話であり、大衆はこの「ふれあい」を求めてペットを溺愛したり、恋人に依存したりします。 そもそも孤独であることに耐えられないのが大衆であり、大衆はいつも群れたがり、まるで羊の群のようにいつも同質な仲間に囲まれていないと不安で落ち着かない存在なのです。 イジメや自殺、出会い系サイト、不倫の問題もその根底に「孤独であることに耐えられない大衆」がうごめいています。 性交に愛情が必要か? 2006-12-06 00:04:21 人間の性的行動における遺伝的要因の解明が初めて英国で行われました。 この調査は19歳から83歳の女性の双子1600組を対象に過去の性的行動について聞き取り調査したものであり、その調査結果によると「過去および現在で浮気経験がある人」のうち「遺伝的要因による浮気」と判断された人は41%にのぼり、この発生率は遺伝の影響でガン等の病気を発症する割合よりはるかに高かったのだそうです。 つまり浮気は「愛」ではなく遺伝子のせいであり、不倫はガンよりも発生率が高いことになります。 一方、インターネット等のメディアとの接触や、携帯メールの利用頻度が高い若者ほど性体験が早いというデータもあります。(日本性教育協会「青少年の性行動調査」より) この調査では、青少年の性体験率は男子がほぼ横ばいなのに比べ女子は増加しており、中・高校生はいずれも女子のほうが男子よりも性体験率が高かったそうです。 この調査は昨年11月〜今年3月に行われもので、12都道府県の中学・高校・大学・専門学校の5510人を対象に行われました。 それによると、性体験率は 大学生男子63.0% 同 女子62.2% 高校生男子26.6% 同 女子30.3% 中学生男子 3.6% 同 女子 4.2%でした。 また、携帯電話の所有率は前回99年の調査時から急増しており、高1男子の保有率は半数から9割以上となり、かつてほとんど保有していなかった中1男子は3割、女子は5割の保有率になりました。 さらに同協会は、携帯メールを1日20通以上する「メール派」と、休日にパソコンでネットを2時間以上見る「パソコン派」の2群に分けて性体験率を調査しました。 その結果、性体験率は 高校生の「メール派」58%に対し、「パソコン派」は15% 大学生は「メール派」86%に対し、「パソコン派」61%。 さらにこのうち「3人以上とセックスした」と回答した人は、 高校生の「メール派」21%に対し、「パソコン派」5% 大学生は「メール派」47%に対し、「パソコン派」25%でした。 また高校生の携帯所有者について、携帯メールの利用状況とキス経験率の相関関係を分析したところ、 「ほとんどメールをしない人」のキス経験率が2割なのに対し、 「1日に1〜9通メールをする人」のキス経験率は4割 「同10〜19通メールをする人」のキス経験率は6割 「同20通以上メールをする人」のキス経験率は8割でした。 上記の調査の分析を担当した山口大人文学部の高橋征仁助教授によれば、「メールはコミュニケーションの強化、拡大につながりやすいため、性行動も活発になっているのだろう。逆にパソコンのネット閲覧は、行動に結びつかないことが多いようだ」結論付けています。 ちなみに「性交に愛情が必要」と答える割合は、 高校生男子が26%→39% 同 女子は55%→64%と増え、 逆に「愛情がないセックス」を許す割合は 高校男子で13% 同 女子は4%でした。 この結果から同協会は「若者の純愛志向も進んでいる」とみている。 10代が「愛情があればエッチしてもかまわない」と思うことは、結婚まで純潔(バージン)でいるべきだという姿勢に逆行しています。 このため性体験の低年齢化に歯止めがありません。 こうした状況で、はたしてオトナ達はいかなる根拠をもって子ども達に「10代のエッチは早すぎる」と諭すことができるでしょうか? 性愛懐疑派としては、愛という名のもとに結婚してもすぐ離婚することがあり、 何十年連れ添った伴侶であっても突然離婚することもある・・・、 「愛」には「献身愛」もあれば「かりそめの愛」もあるし「いつわりの愛」や「愛憎」もある。 こうした多様な「愛」を生き抜くには10代はあまりにも未熟すぎるとの見解を示したいと思います。 気功について 2006-12-07 00:01:49 ファンタジー気功:続報 最近見つけた「全日本気功体術協会」のホームページには、【(気功)体術という言葉が最も多く使われるのは、意外にもゲームやファンタジー小説の世界です。本家本元の武術の世界では(気功体術は)ほぼ消滅状態に等しく、「体術って何?」という質問さえ出るほどです。 言葉の意味も分からず、闇雲に従来の武道や気功法に「体術」の名を冠する人も多いようです。今では名前だけが一人歩きし、剣や魔法が支配する異世界ファンタジーのネタとなってしまってるのが現状です。 中にはそのものズバリ「気功体術」という名称さえ使われるケースもあるほどです。しかし、こうした言葉が使われるには、やはりその言葉の裏に何らかのイメージがあるからに他なりません。 では、ファンタジーの世界で使われる体術という言葉から、皆さんどんなイメージを連想するでしょうか?・・・戦士の身につける技術、武器や道具をより良く使うための技術、もしくは武器を必要とせず、敵の武器で敵を倒す技術など、主に素手で行なう武術を連想するでしょう。そのイメージでほぼ当たりです。「架空の世界の武術ではないの?」と思われるかも知れませんが、現実に存在します。 それどころかまるで空気のように、人類が存在する以上、永遠の過去から永遠の未来へいつもどこかに存在し続けるのです。 体術とは、アレンジされて流派名が付けられる前の武術であり、ありとあらゆる運動を効率的に行なう動きの総称、スポーツで言われるコツの集約です。そして気功とは、体術の身体意識を形成する気の流れを、意図的に作る呼吸法です。従って気功とは、体術が高められると必然的に発生するメソッドなのです。 「気功体術」とは、あらゆる武道やボディ・ワークが生まれる前の原点であり、それらがより洗練され細分化される前の原初の形と言えるでしょう。 大昔、人は誰もが狩りをする戦士であり、それゆえ人それぞれの気功体術を身につけ、その身体文化は名前もつけられることなく親から子へ受け継がれて行ったのです】 ごく一部ですが、ファンタジー気功を「インチキ」とか「ダマシ」と言う人がいるようですが、上記の記述にあるとおり気功法は古代のある種の体術・武術であり、「気功とは、体術が高められると必然的に発生するメソッドなのです」 さらに「飾り窓の天使」ではドレスアップとドレスダウンを同じに行う「コスチューム」を身にまとうことで、気功のパワーを発揮しやすくしています。 なお、ファンタジー気功は例外者や至高性がそうであるように「判らない人には判らない・判らない人には判らなくていい」とのスタンスを貫いています。 しかし実は、こころよく振り付けを引き受けてくださったモダンダンスのYUMI先生をはじめ、すでに熱心な理解者とファンが存在します。 現在、ファンタジー気功は新しい振り付けにてバージョンアップが進行中です。 ドーゾ、お楽しみに! アニメイト:続報 2006-12-08 00:11:28 陳さんから以下のような親切なコメントを頂きました。 【あらら、象が来ましたよ。既に9月7日から公開されて宣戦布告されてるのに9月9日、11日、10月22日で勝利宣言しているのはなかなか(^^ゞ、太平洋戦争中の大本営発表を思い出しましたょ、頑張ってください】 陳さんのコメントにお応えする前に、今回もこのブログでは伏せ字にせず「アニメイト」と当事者を実名で表記することにします。 なぜなら、?アニメイト(本社:池袋)が出願した「商標登録願」は陳さんが簡単に入手できたように、すでに特許庁のホームページで検索すると全文が公開されます。 公開文書は、もはや伏せ字にする理由がありませんので、今後はすべて「アニメイト」と実名で記述します。 まず、これまでの「飾り窓の天使」側とアニメイト側の動きを時系列にしてみましょう。 (下記の一覧表は「飾り窓の天使」の運営会社より入手したものです) ?「飾り窓の天使」側 平成18年3月13日 「指定役務 第44類 相互リフレクソロジー ファンタジー気功 飾り窓の天使 ドールマニア&三次元美少女&アニメイト」なる商標登録を出願 ?「飾り窓の天使」側 同年3月30日「飾り窓の天使」福岡大名店オープン ??アニメイト側 同年7月6日付け内容証明郵便にて「アニメイト」なる商標の使用停止と出願の取り下げを強要 ?「飾り窓の天使」側 同年7月12日付け内容証明郵便にて「不正競争」に当たらない旨強く反論し、あえて「アニメイト」なる商標を単独で指定役務「第44類」として出願する旨通告(実際には未提出) ??アニメイト側 同年7月28日付け内容証明郵便にて再度「アニメイトなる商標の使用は不正競争に当たる」と強弁 ??アニメイト側 同年8月1日に指定役務「第44類」で「アニメイト」という商標登録願提出 ?「飾り窓の天使」側 同年8月10日付け内容証明郵便にて「表現の自由を保障した憲法に違反する行為である」旨反論 ??アニメイト側 同年8月23日に「刊行物等提出書」を特許庁に提出し、「飾り窓の天使」側が出願している商標は「卑猥で売春を連想させる」旨主張して商標登録の審査を妨害 ?特許庁が?アニメイト側が8月1日に出願した指定役務「第44類 アニメイト」という商標登録願を「公開」 ?特許庁より同年10月20日「飾り窓の天使」側に「(上記?)の商標登録出願についは、拒絶の理由を発見しないから、この出願に係わる商標は、登録すべきものと認めます」との登録査定が届く 今回「陳さん」がわざわざ知らせしてくれたのは、?アニメイトが今年8月1日に出願した?の「第44類 アニメイト」なる商標登録願(【出願番号】商願2006−76064) のことだと思います。 すでにお判りかと思いますが、この「【出願番号】商願2006−76064 第44類 アニメイト」は、明らかに「飾り窓の天使」側が?で通告した「アニメイトなる商標を単独で指定役務『第44類』として出願する」旨の通告に触発されて急遽出願されたものであり、しかもその後で?アニメイト側は?の「刊行物等提出書」を特許庁に提出し上記?の「飾り窓の天使」側の商標登録の審査妨害もしました。 なぜ?アニメイト側が?の出願と?の妨害を行ったのでしょうか? それは「飾り窓の天使」側が?の通告のとおりに「アニメイト」なる商標を単独で指定役務「第44類」として出願したら、メイドブームの火付け役である?アニメイトが「メイドリフレクソロジー」等の役務では「アニメイト」なる名称を使えなくなるからです。 だからこそ?の7月28日付け内容証明郵便で時間稼ぎをしなが8月1日に?の商標登録願を提出し、さらに8月23日に?には「刊行物等提出書」を特許庁に提出し、「飾り窓の天使」側が出願している商標は「卑猥で売春を連想させる」旨主張して商標登録の審査を妨害したのです。 もしこの妨害が功を奏し、上記?の「飾り窓の天使」側の商標登録が拒絶されていれば、当然?の?アニメイト側が出願した「指定役務 第44類 アニメイト」という商標登録の出願が有効になります。 しかし、ご存知のとおり特許庁は「先願主義」であり、特許・実用新案・登録商標はすべて先に出願したものに知的所有権を与えます。 従って?で「飾り窓の天使」側が同年18年3月13日に「指定役務 第44類 相互リフレクソロジー ファンタジー気功 飾り窓の天使 ドールマニア&三次元美少女&アニメイト」なる商標登録を出願し、さらに?の「商標登録出願についは、拒絶の理由を発見しないから、この出願に係わる商標は、登録すべきものとみとめます」との登録査定が届き、すでに登録料を納付した以上は?アニメイト側が行ったすべての努力や行為は水泡に帰したと言わざるを得ません。 「陳さん」がわざわざ知らせしてくれた?アニメイトが今年8月1日に出願した「第44類 アニメイト」なる商標登録願(【出願番号】商願2006−76064)は事情が判る者からみれば、?アニメイトと4名の弁理士は特許庁によって出願情報を「公開」され、そのために「ド素人に破れて恥をさらしている」状態に見えると思います。 ?アニメイトが受け取るのは「第44類の指定役務ではアニメイトなる商標は使用できない」とする当たり前の「拒絶査定」と、内容証明郵便制作費や弁理士等からの請求書・印紙代の請求しかありません。 著者がこのブログで堂々と勝利宣言したのは以上の正当な理由があったからなのです。 決して「大本営発表」ではありません。 それにしても「大本営発表」とは、ちと古めかしい表現ではありませんか? アニメイト問題 2006-12-09 00:26:32 すかさず陳さんから、 【(飾り窓の天使側)の出願内容に不備がありませんか?標準文字商標を指定されていませんよね。図形商標では確かに出願されているようですが、アニメイトは逆に標準文字商標のみで図形を指定していません。恐らく先方の主張は、貴殿の出願された長ったらしい商標と商標デザインと、「アニメイト」は誤認されないから出願内容は有効である、という主張をするのではないでしょうか?ともかく(飾り窓の天使側)が「刊行物等提出書」を出して打ち消さないとまずいんじゃないですかね。商標検索だと「アニメイト」に(飾り窓の天使側)の商標は出てこないのでこのまま認可される可能性もあります】との鋭い指摘がありました。 著者は、指定役務「第44類」で飾り窓の天使側の図形商標に含まれる「アニメイト」が商標登録された場合、同「第44類」では標準文字商標であろうが、ローマ字であろうが、「ひらがな」であろうが「アニメイト」なる音感を含む類似商標は登録出来ないと判断するのが特許庁の方針ではないかと思います。 なお、陳さんより飾り窓の天使側は「刊行物等提出書」を提出して牽制すべきである旨の貴重なアドバイスを頂きましたが、もし「刊行物等提出書」を提出するのであれば図形商標と標準文字商標で争うのではなく、?アニメイト側が出願している 【指定役務 第44類】には美容・理容のほかに「医業,医療情報の提供,健康診断,歯科医業,調剤」等が含まれているのであり、?アニメイト側は全国75店舗でアダルトビデオや性描写を含む同人誌を公然と販売している事実と証拠を提出することで、もし「アニメイト」なる商標が【指定役務 第44類】で登録された場合、アダルトビデオや「ロリコンアニメ」等のイメージが美容・理容・医業・歯科医業の公序良俗を害する恐れがあることを指摘したほうが効果があるのではないか・・・と著者は考えています。 ところで飾り窓の天使の運営会社に意向を尋ねたところ「アニメイトなる商標は当方の店名ではないし、当方が獲得したかった他の商標が一括して獲得できる段階なので、もはやアニメイトなる商標は『どうでもいいもの』であり、当面動向を静観したい。あくまでもこの件であれこれ画策しているのは?アニメイト側なのだ」との冷静なコメントでした。 なお、一連の「アニメイト」の商標をめぐる騒動に関心がない読者の方も多いと思いますので、次回からこのブログ本来の「大衆社会に向かって暴言を吐く」スタンスに戻りたいと思います。 黒門町のY・mさん、忘年会やりましょう! イラク戦争:拝啓 ブッシュ大統領 閣下 2006-12-10 00:55:57 このブログは、あえて異論を唱えることで「ものごと」を懐疑(深く考えること)し、思考の視野を広げることをめざしています。 著者の周辺では「金正日とイラクおよびイスラム批判だけは、ブログに取り上げるな。いのちに関わる」と忠告をしてくれる人物が複数おりますが、わが国では「言論の自由」が保障されておりますので、特定のテーマを避けて通ることは卑屈な国民と見なされてしまいます。 たとえ「暴言」と言われようと、言うべき事は言うべきなのです。 今回は、アメリカによる対イラク戦争を取り上げます。 最近、ブッシュ大統領は中間選挙における共和党の敗北を受けて、対イラク政策を見直す方針を固めたとの報道がありました。 イラクに大量破壊兵器が隠匿されていなかったことから、戦争を続ける「大義」がないと思われていますが、それは開戦の時点での「口実」であって、本当の開戦理由は、ニューヨークの貿易センタービルにハイジャックした旅客機2機で突入した「アルカイダ」グループの掃討が目的であったはずであり、あの時点では多くの国家やその国民がブッシュ大統領の決断は「やむを得ない」と思っていたはずです。 事実、フセイン元大統領が逮捕された後のイラクでは、イスラム宗派間のテロ抗争が激化しており、それは米軍とイラク国民の戦闘でもなく、またイラク国内の「内戦」が激化しているのでもなく、アルカイダがイラク国内で他の宗派をテロや武力で挑発しているのが実情です。 したがって米軍が対峙しているのはイラク国民ではなく、あくまでもテロ集団「アルカイダ」であり、その脅威は今日なお低減しておりません。 それなのに米国民は貿易センタービル事件(9.11事件)の怒りを忘れて、早くもイラクから撤退すべきであるとの世論を盛り上げてしまいました。 しかし、ちょっと考えてみてください。 3年8ヶ月(44ヶ月)の米軍の死者は2900人以上と発表されていますが、月平均の戦死者は66人であり、1日当たりの戦死者はわずか2,2人に過ぎません。 今回のイラク戦争では、わが国を含め多くの同盟国の支援があり、太平洋戦争やベトナム戦争・湾岸戦争に比べたら、戦死者の数を見ただけでも実に「安上がりな戦争」をしていることになります。 早ければ来年3月までにイラクより米戦闘部隊を撤退させる方針との推測がありますが、ブッシュ大統領は今こそ自信を持って「安上がりなテログループの掃討作戦」を継続する旨決断すべきではないかと思慮しております。 「恋のから騒ぎ」と明石家さんま 2006-12-11 00:12:17 明石家さんまの「恋のから騒ぎ」という番組の終わりに「愛の説教部屋」と呼ばれるコーナーがあります。 そして明石家さんまは、このコーナーで「説教」を行うのですが、そのコーナーで「説教」される女性は、番組出席者の中の若い女性であり、そのほとんどが交際中の男性や、かつて交際していた男性を「軽くあしらった」女性達であり、その「説教」スタイルも明石家さんまが「説教」を受ける女性に対して「ピコピコハンマー」と呼ばれる大きなオモチャのハンマーを用いて、「説教」されている女性の頭部を「男性を愚弄にするな」という意味の「説教」をしながら報復的に強く連打し続けます。 問題なのはオモチャのハンマーといえどもあんなに大きなもので、しかも頭部の真上から男性の腕ヂカラで思い切り連打されたら頸椎を痛める(ムチウチ症状態)可能性があり、さもなくば連打による軽い脳震盪の恐れすらあるのです。 ところが明石家さんまは毎回同様の行為を繰り返しているのであり、どうやら視聴者からの危険性を指摘する発言もないようです。 この番組を毎回見ている女性の話では「愚かな女が『さんま』に頭を叩かれることを承知のうえで喋っているのだから自業自得よ」と冷たい反応なのですが、実はこの人気番組に出演したいと切望している女性たちの頭部を「説教」と称して思い切り連打する行為は危険であるだけでなく、古めかしい男尊女卑の押し付けとパワーハラスメントが背景にあると著者は考えます。 パワーハラスメントとは「仕事上の権力を不当に利用することによる嫌がらせ・いじめ」などを指す言葉であり、支配的に優位な立場にある明石家さんまや番組製作側が、苦情を言えない立場にある特定の出演者を「説教」と称して報復的に懲らしめることも、パワーハラスメントにあたります。 なぜなら頭をピコピコハンマーで叩かれている女性たちが「何で私が叩かれなければならないの」と明石家さんまに不満を漏らすシーンが多々あるからです。 この番組は「恋のから騒ぎ」とか「愛の説教部屋」とタイトルが付けられているとおり、「愛」や「恋」という文字を番組の中で多用していますが、その内容はあくまでも男性側が期待する「愛」や「恋」であり、男女平等の見地からはほど遠い内容となっています。 バラエティー番組だから、すべては演技であるのかもしれません。 お笑い芸人がやっていることだから、苦言を呈するほうが愚かかもしれません。 それにしても「愚かな女」を男性が一方的いじめているシーンを、同性である女性の視聴者が冷ややかに見下して笑っていることで成り立っている番組が「高視聴率番組」とは、本当に女性達は救いがたい存在だと、番組を見ながらいつも不快な気分になります。 ベッドの中は無法地帯 2006-12-12 00:49:22 TV「恋のから騒ぎ」について著者の意見を述べたところ、次のような2つのコメントがありました。 【真実は・・ (!)女性は救いがたいとの発言に物申す。女は、ある意味弱く、男性にいつも負け、言いなりで生きているように思えるだろう。だが、そう見える事を利用し、賢く生きている女も多くいる。弱さが強みになる事が多くある】 あ・あ・あ・あッ、久しぶりに「伝説的コメント」が届きました。 「弱さが強みになる」なんて言われると、つい反論したくなります。 弱者が多数派を形成してそれが強みになるのは、大衆社会の特徴です。 一方、例外者は孤独で孤高ですが、すべてに強力なのです。 【 (視聴者より) あの番組は、芸能人の卵などが出ている番組。顔が映って目立ってナンボ。実際は、(明石家さんまに)叩かれる事を皆、有り難がっている】 やはり・・・、でもやっぱり卑屈な番組ですね。 ---------------------------------------------------------------- 話は変わりますが、「女性は何歳まで性交が可能なのか」との趣旨の質問もありました。 著者は医学的に女性の性交可能年齢を回答できる立場ではありませんので、文献を渉猟してみました。 たとえば徳川時代の「大奥」では、27歳くらいになると側室たちは「おしとね下がり」と称して現役を引退したそうであり、同様にハーレムのオダリスクたちにもほぼ同様の制度があったのだそうです。 しかしそれは出産適齢期や美貌が落ちることによる「引退」もしくはある種の「定年制」もしくは「引退」というべき制度であり、性交不可能年齢を意味するものではありませんでした。 女性の性交可能年齢の特定は非常に難しく、閉経後でも性交そのものは可能であり、潤滑剤等を使用すれば物理的には死ぬまで性交は可能と思われます。 しかし、女性は生涯 性交が可能であっても、世間体や羞恥心による性交の回避や加齢に伴う肉体的容貌は一切考慮されておらず、さらに高齢女性にどれだけの快感があるのかも、まったく考慮されていません。 むしろ性交可能年齢に固執するのではなく、「女性は何歳まで性愛を伴う恋愛に応じられるのか」を考察したほうが意義深いと思います。 なぜなら多くの場合、女性は加齢が進むと自己の肉体に劣等感を抱き、せっかく恋愛のチャンスがありながら「ものおじ」して後ずさりしてしまいがちですが、実は「ベッドの上に年齢はない」のであり、ベッドの上は常識も国境も道徳もないのです。 -------------------------------------------------------------------- 追 伸:「飾り窓の天使」(福岡市大名)のイベントが無事終了いたしました。 今回のイベントではじめて来店された皆さん、これからも「飾り窓の天使」をよろしくお願いいたします。 奇癖について 2006-12-13 00:50:45 このところコメントが増えており、うれしい限りです。 【相手次第:恋愛は幾つまでもできるはず!恥じらいを持ちながらも相手の求めに応じ、自分も相手に抱かれたいと思うなら何歳でも性交可能ですよ・・・ただ相手が歳だと無理かも?」 著者も同じ意見です。ところがある女性は、「50歳をすぎたら絶対にエッチはしない」と日頃から断言しており、もう一人の女性は「55歳を過ぎたらセックスも恋愛も断念する」と明言しています。 たぶんそれはプライドのせいだと思うのですが・・・ ちなみに「ただ相手が歳だと無理かも?」というこの女性の何気ない一言には、「女性の官能的快楽はパートナーである男性に依存している」ことを期せずして自認しているのであり、やはりある程度の年齢になると恋愛の対象がかなり度限られてしまうのではないかと思います。 「通りすがり」さんからのコメントは【ハラスメント(いやがらせ):男女平等と言う言葉を一番うまく利用してるのは、女性の方じゃないかなぁ。(「恋のから騒ぎ」という)番組は、女性のそういうところを楽しむ番組でしょ?男も最近は差別して無いと思うし、差別の内容も人それぞれだと思うし。さんまさんだって相手は女性(素人)だって事は分かってある程度の加減はしてるだろうし、気にしすぎじゃないかなぁ」 はあ・・・、たぶんこのコメントがあの番組の視聴者の平均的見解なのでしょう。では、著者も「気にしない」ことにいたします。(というよりは、番組を見なければいいのですから) ただ、「男も最近は(女性を)差別して無いと思うし・・・」という部分は女性側から見たら「トンデモナイ」と否定されると思いますよ。 また、【著者のブログにはどうも説得力がない。調べた事しか書かない。体験談はないのか?】とのコメントもありました。 「説得力がない」と感じる方は「性愛懐疑派」および「例外者」とか、「至高性」と呼ばれる著者固有の思考フィールドを未だ共有していないことが原因と思われます。 このブログの初期の記述(5月〜6月)をお読みいただくか、疑問を抱きながら閲読を続けたり、無理に閲読を続けるのではなく、閲読を中止してください。 このブログは選ばれたごく少数の知的な「例外者」を対象にして記述しており、不特定の大衆を読者として想定しておりません。 ------------------------------------------------------------------ ところで「調査」といえば、ある人物との雑談のなかで「これまでに絶対に行われていない調査はなにか?」との話になり、著者はあれこれ思い付くテーマを述べているうちに、「これだけは絶対になかった調査」があることに気付きました。 と、いっても大げさな問題ではなく、なんとそれは各自に固有の「あの奇癖」であったのです。 そしてその会話はいつしか「排便・脱糞の瞬間の姿勢」にこそ、人知れぬ「奇癖」があるのではないかとのシモネタになってしまったのです。 はなはだ尾籠(びろう:わいせつであったり不潔であったりして、人前で口にするのがはばかられること。きたないこと、そのありさま)なテーマで恐縮なのですが、「人は無くて七癖」と言われ、狭い「密室・個室」の中だけに案外それぞれ特有の仕草があるのではないかと推測できます。 思い切って尋ねますが、皆さんは排便・脱糞の瞬間、いったいどんな姿勢をしていますか?何をしていますか? 腕組みをしている・ロダンの彫刻「考える人」のポーズをしている・両足のカカトを浮かしてつま先に力を入れている・左右どちらかに上体ををひねるか、上体を傾ける・バンザイスタイルをする・空中の1点を凝視している・歌を唄っている・本や雑誌を読んでいる・携帯メールをしている・股間から便器の中を覗いている・音楽を聴いている・全裸で坐っている・瞑想している・なにか食べている・水を流すタイミングに集中している・単語や年号を暗記している・買い物リストや献立を考えている・タバコを吸っている・ひたすら「りきんで」いる・カレンダーを見ている・鼻毛を抜いている・シェーバーでヒゲを剃っている・占いや競馬等の予想をしている・大便と小便を同時に排泄している・その瞬間「オタケビを上げる」・深いため息をつく・・・など。 かつてある作家は、入浴中に密かに浴槽のなかで脱糞する快楽があることを著書のなかで詳細に記していましたが、そこまで強烈でなくてもなにか固有の癖等が「そのとき」各自にあるに違いありません。 なお、今回「著者の体験談を述べよ」との要望がありましたので、その要望にお応えして著者の「排便・脱糞の瞬間の姿勢」を告白いたします。 著者の場合、「両手を組んで頭上にのばすことでウンチを排出しやすくする」仕草をしています。 実は著者自身、この奇癖があることを最近までほとんど意識しておりませんでした。 ちなみにサドは大変な奇癖の持ち主であり、「奇癖がない者はただの凡人である」と書いています。 ぜひ、読者の皆さんの「排便・脱糞の瞬間のこだわり・奇癖」を教えてください。 コメントをお待ちしております。 マインドコントロール 2006-12-15 16:47:14 多忙と講演のためブログが2日近く、中断してしまいました。 前回の「奇癖」について、著者の周囲の方々様々なご意見・ご感想をいただきありがとうございました。 その中には著者の「バンザイスタイルを見たい」という申し出もあったのですが、あいにく露出趣味はありませんのでお断りいたしました。 その他の皆さんからも電話や携帯メール・PCメール等であれこれ「奇癖」に関するコメントがあったのですが、予想したとおり詳細は「オフレコ」との申し出が多くて、このブログで全てを公表できないのが残念です。 ちなみにある方から「たしか外国の出版物でトイレ内の奇癖に関する写真集があったはず」との貴重な情報をいただきました。 もっか、この書籍について鋭意調査中です・・・と、いっても著者は汚物崇拝(スカトロジーやウェット&メッシー、糞尿フェチ)ではありませんので、この写真集が見つかったとしても「奇癖」という視点から逸脱した内容であれば、詳細は割愛させていただきます。 -------------------------------------------------------------------- 実は今回出会ったある人物から「飾り窓の天使は、マインドコントロールや洗脳を行う集団ではないのか」との筋違いの質問を受けました。 よく話を聞いてみると、どうやら彼はこの言葉の意味を知らずに「マインドコントロール」や洗脳という用語を使っているらしく、「マインドコントロール」には定義があることも知らずに「マインドコントロール」なる用語を独断的に用いていることが判りました。 マインドコントロール(Mindcontrol)とは、「心理的な操作をして意図した通りに他人の人格を誘導することを目的とした行為やその技法」のことなのです。 しかし、昨今は「なんでもかんでも」マインドコントロールと見なされてしまう世相ですので、スティーヴン・ハッサン著(浅見定雄訳)「マインドコントロールの恐怖」恒友出版刊を引用しながら、「マインドコントロール」に特有の4つの特徴を書き出してみました。 1. 行動のコントロール マインドコントロールを用いて組織では、内部のメンバーの行動は徹底的に賞賛されるか、逆に重く罰せられるかのどちらかです。 仮に組織の命令や目的(布教活動等)に従えば、仲間達からすばらしい賞賛を受け、もし組織の命令や目的に背けば厳しく処罰されます。 実はこれは、心理学における「報酬と処罰の効果」の悪用なのです。 そして次第に命令や指示が細分化され「あれをしなさい」「これはしてはいけない」とプライバシーに関わるような微細な指示や指導が行われ特定の生活習慣の強要に始まり、付き合う相手の制約や、居住地、布教等の時間、睡眠時間、夫婦間の性交方法まで指示されます。 ところが命令に従っている当の本人は、善良そのものであり崇高な理念に従って自発的に行動していると信じ込んでいます。 2. 思想のコントロール 「マインドコントロール」を行う場合、まず徹底した教育を行います。教育係は「この組織のリーダーたちだけが崇高な真理を知っているのだ」と主張し、従来のどの宗教・学問で解明できなかった真理が、全て解明できたのだと教え込みます。 またこの時点では、その教えや審理には一切の疑問を抱くことを許さず、ひたすら丸暗記式に脳に教義を叩き込むのです。 さらに多くの場合、洗脳しやすい状況を作り出すために極端に睡眠時間を削り、様々な作業や修行や課題を与え他の本や新聞を読むことや、親族や友人等に相談する機会すら剥奪します。 3. 感情のコントロール 「マインドコントロール」は必ず恐怖と不安の感情を煽り、これを心のコントロール利用します。 たとえばいずれハルマゲドンが起きて、組織に従わない者は皆滅んでしまうと恐怖煽ったり、教義を信じない者は地獄に堕ちるなどと吹聴します。 また組織の命令や目的に背いた場合、他のメンバーに叱責されるだけではなく、天罰や「たたり」があると教え込まれます。 特に脱会した場合には、最も恐ろしい処罰を受けると共に、脱会者は悪魔と呼ばれたり、強烈な誹謗中傷を受けるます。 破壊的カルトに限らず、どのような組織でも、そこをやめようとする人物にどのような処遇をするかを冷静に観察すればその組織の体質が判るのです。 ちなみに多くの宗教は、単に人々に不安や恐怖心を植え付けますが、破壊的なカルトは信者を不安にするだけでなくして、組織のために無報酬で働かせたり、大金を拠出させます。 4. 情報のコントロール 「マインドコントロール」を行う組織は、必ず内部批判や教義の批判を厳禁し、特に脱会者の文書に触れることを強く禁止すると共に伝統的で保守的な教義に触れることや、マスコミ等の第三者的な文書の閲読すら禁じます。 これらの「1〜4」の意図的なコントロールを受けると、やがて自分の考えや行動が正しいかどうかを判断する「水準器」を失い、人間はマインドコントロールされ、遂にはその組織の奴隷になって行きます。 (つづく) コメント 面白い (Unknown) 2006-12-15 18:19:53 いや〜面白い!長いけど良く理解できましたよ。人間は弱い生き物、中にはマインドコントロールされて生きるのが楽な人もいるだろうし、マインドコントロールしなくちゃはた迷惑な人もいるはず!いい意味に理解して使えばいいんですね ものごとは懐疑せよ 2006-12-16 00:18:16 先日の「奇癖」に関するコメントです。 【皆もそーだろーか?:(排便・脱糞の)瞬間のこだわりじゃないんですが、私は凄い便秘です。ところがHすると翌日はすっきり快調になります。ある意味、癖です】 このテの話は良く聞く話なのです。安心してください、癖ではありません。性交によって女性は腸が掻き回されるからなのです。 マインドコントロールについても、さっそくコメントが届きました。 【いや〜面白い!長いけど良く理解できましたよ。人間は弱い生き物、中にはマインドコントロールされて生きるのが楽な人もいるだろうし、マインドコントロールしなくちゃはた迷惑な人もいるはず!いい意味に理解して使えばいいんですね】 このブログがつも長文なので、携帯電話のiモードで閲読している方から時々、「読むのが大変です」と言われます。 −さて前回のつづきです− 昨日のブログで「飾り窓の天使」およびこのブログ、あるいは例外者や至高性をめざすといった「在り方」について、「マインドコントロール」ではないかとの指摘があり、「マインドコントロール」について詳細に定義づけを行いました。 今回はこの「定義」と「飾り窓の天使」およびこのブログ、あるいは例外者や至高性の概念(以下、これらの店舗および概念を便宜上「当方」と表記します)を対比してみます。 ?「マインドコントロール」に共通する、命令や指示が細分化され「あれをしなさい」「これをしてはいけない」とプライバシーに関わるような微細な指示や指導など「行動のコントロール」が当方にはありません。 ?「マインドコントロール」が行われている場合、その教えや教義には一切の疑問を抱くことが許されず、ひたすら丸暗記式に脳に教義を叩き込む等の「思想のコントロール」が行われますが、当方にはそのような強制や思想統制がまったくありません。 ?「マインドコントロール」が行われている組織では、命令や目的に背いたとき他のメンバーの叱責を受けたり、天罰や「たたり」があると吹き込まれ「感情のコントロール」を受けますが、当方にはそのような叱責も罰等もありません。 またお店をやめようとしても不当な処遇を受けることがありませんし、お店や会社のために無報酬で働かされたり、お金を拠出させられることもありません。 ?内部批判や特定の教義の批判を厳禁したり、退職者と会うことを禁止することもなく、外部の文献や新聞雑誌の閲読を禁ずる等の「情報のコントロール」も当方にはありません。 また、各自の考えや行動が正しいかどうかを判断する機会を奪ったり、スタッフをお店や会社の奴隷にすることもまったくありません。 飾り窓の天使や「性愛懐疑派」および「例外者」「至高性」、さらにこのブログには一切の洗脳も強制も教義の押し付けも「マインドコントロール」もなく、むしろいかなる宗教や思想や特定のパートナーにも依存せず、さらに道徳や社会規範・常識等にとらわれず、なにものにも従属しない真に自立・独立した生き方を常に応援する姿勢を内部・外部に表明しております。 大衆社会は噂や予断・先入観等で容易に世論や多数派意見・トレンド等が形成され、その誤った認識が堂々と「まかりとおる」ことが多々あります。 著者が「ものごとは懐疑する(深く考える)必要がある」と繰り返し主張するのは、予断や多数意見に惑わされないためでもあるのです。 切り裂きジャックの再来 2006-12-17 00:34:46 イギリス東部サフォーク州で最近、19〜29歳の売春婦5人の他殺死体があいついで発見されました。 同国では、19世紀末に有名な「切り裂きジャック事件」(「ジャック・ザ・リッパー事件」未解決)があり、このときも売春婦が下腹部を切り裂かれ5人が殺害されています。 それだけではありません。 イギリスでは1974年に「ヨークシャーの切り裂き魔」と呼ばれる連続殺人事件(犯人は逮捕され終身刑が確定)が発生しており、この事件で殺害された女性6名・襲われて重傷を負った女性7名の合計13名の被害者が出て、このときも被害者のうち8名が売春婦でした。 またこの事件の犯人の手口も、ナイフやドライバー等で女性の腹部や陰部を繰り返し刺す猟奇的なものでした。 実はイギリスでは売春婦を狙った殺人事件が何度も起きており、その手口はいずれも女性器や子宮にナイフを突き立てたり、子宮を切り取る等の共通点があります。 このため著者は、イギリスには古来より売春婦を極端に嫌悪する階層や、売春婦を殺すことを命じるある種の宗教的「教義」や「風習」があるのではないかとの疑念を抱いています。 人は子宮から産まれて来ますが、男性にとってその事実が耐え難い嫌悪感になることがあり、こうした嫌悪感が古くは「聖母マリアの処女懐胎説」となって現れり、さらに切り裂きジャックのような過激な「子宮憎悪」となって現れる可能性があります。 売春婦はまさに「子宮」にまつわる器官を用いて金銭を稼ぐのですから、自分が父母の性欲の結果として母親の胎内から汚物にまみれて生まれてきたことを強く嫌悪する「子宮憎悪型潔癖症」の男性にとって、売春婦は恰好の攻撃対象となるはずです。 死刑制度について 2006-12-18 00:14:16 「飾り窓の天使」のイベントが無事終わりました。 店長のジュンジュンに聞いたところ、丸一日イベントに参加する「1日コース」のお客様が予想外に多かったそうです。 また、最近このブログの読者も来店するようになったとか・・・本当に、ありがとうございます。 ---------------------------------------------------------------- ところで先日、薬物による死刑執行が「残酷」であるとする違憲判決が、米カリフォルニア州の連邦地裁で下されました。 この判決によれば、同州が行っている薬物注射による死刑執行は、残酷な刑罰を禁ずる合衆国憲法に違反していると認定したのだそうです。 カリフォルニア州の場合、まず鎮静剤で死刑囚の意識を失わせ、筋弛緩剤を注射することで体をまひさせ、これにより筋肉のかたまりである心臓の動きを停止させる処刑方法が採用されていました。 しかし同地裁のフォーゴル判事は判決の中で「最近死刑が執行された死刑囚6人は薬物を注入された際、意識があった可能性が高い」と判断したのだそうです。 またフロリダ州では同様の死刑執行の際、注射針が血管を突き抜けてしまい、薬物が血管に入らなかったことから死刑囚は34分間も苦しんだケースもあり、同州の知事は州内での薬物による死刑執行を凍結したそうです。 薬物注射による死刑執行は、絞首や銃殺・電気椅子よりも「人道的だ」との理由でアメリカで広まり、現在37州で採用されています。 薬物注射による死刑を執行していたミズーリ州でも先月、連邦裁判所が違憲判決を出した。 かつてわが国でも「絞首刑が憲法によって禁じられている残酷な刑罰に該当するのではないか」との議論が行われたことがありましたが、結局「絞首刑は残酷な刑罰にはあたらない」との見解を当時の政府が発表して議論は決着してしまいました。 わが国の憲法はアメリカの憲法を「お手本」にしているので、両国の刑罰に関する規定も当然のごとく「残酷な刑」を禁止しているのですが、刑罰とはもともと過酷で残酷なものであるからこそ犯罪を抑止できるのであり、被害者の親族は加害者が苦しみながら処罰されることをむしろ求めてさえいるのです。 たとえば死刑が確定すると、教誨師が付いて懺悔と改心に導き、自ら死を受け入れることができ、魂が救済されるように導く努力がなされるのですが、こうした配慮も被害者の親族から見れば「大きなお世話」であり、むしろ死刑囚は地獄に堕ちろと願っているはずです。 ちなみに死刑の執行にあたり、筋弛緩剤を注射し心臓の動きを停止させる方法が電気椅子より「人道的である」とか「残酷ではない」と考えたり、反対に「処刑されるという意識がある者に薬物を注射することは電気椅子より残酷である」と考えることは、むしろ「残酷」に関する定義が常に揺らいでいることを意味します。 しかも死刑囚はそうした揺らぎのなかで翻弄され、処刑の恐怖に怯えるに違いありません。 実に矛盾した話なのですが、この「処刑の恐怖に怯える」ことこそ死刑囚に処刑されるとの苦悩を与え、その苦悩や苦痛を引き延ばすことになるのであり、結局「残酷な刑罰」になりかねないという堂々巡りの議論に戻ってしまいます。 大衆社会はいつの時代も孤独や不安・恐怖・威圧・闘争等を回避したがりこれを嫌悪しますが、これらを回避しようとするとまた別の矛盾に撞着(どうちゃく)し、「もとのもくあみ」状態に帰着することになります。 例外者および至高性をめざすことは、こうした撞着回帰の循環から脱出することでもあるのです。 なお、恐怖と快楽は遊園地のジェットコースターがそうであるように、いつも表裏一体の関係にあるのであり、死刑囚に死の恐怖を与えることが、死刑囚に密かな陶酔と愉悦感を与えかねないという可能性があります。 この事実を誰も指摘しないのは誠に不思議です。 禁煙・嫌煙について 2006-12-19 02:00:28 「絶煙宣言」 禁煙・嫌煙・分煙の議論に、なぜかタバコが安すぎるという議論がありません。 毎年タバコ税の引き上げでタバコの価格が値上がりしますが、値上げの幅が10円とか20円とごく小幅な値上げに終始しています。 百害あって一利なしのタバコが、数百円で買えるとは、あまりにも矛盾していて、あまりにも安するのです。 タバコの価格の中に喫煙者と間接喫煙者が将来肺ガンにかかったときに生じる医療費をあらかじめ盛り込んでおくべきだと思います。 たとえば歩道等に投げ捨てられたタバコの吸い殻を清掃するコスト、火が付いたまま投げ捨てられたタバコによる道路脇の草むらの火災や山火事の消火や山火事防止のための草刈りの費用等は、あくまでも喫煙者が直接負担すべき費用なのです。 また喫煙者がやがて罹患する「生活習慣病もしくは肺ガン」のための検査・入院・手術・リハビリ・介護等の費用も、本来は国民が負担するのではなく喫煙者自身が負担すべきものです。 当然、健康保険も喫煙者と非喫煙者では当然格差をもうけるべきであり、間接喫煙に伴う健康被害の費用も本来は喫煙者がタバコの購入を通じて負担すべきものなのです。 そもそも「健康のため吸いすぎに注意しましょう」と警告が書かれたタバコを吸いすぎて健康を害した人を、赤字の健康保険で治療すること自体が筋違いなのであり、喫煙者の「生活習慣病もしくは肺ガン」は全額自己負担とすべきものなのです。 どうして非喫煙者は、こうした矛盾に疑問を抱かないのでしょうか? (嫌煙禁煙問題を口にするとタバコ産業から相当な妨害が受けるそうです。それを承知の上であえて発言を続けます) 著者は呼吸器系が弱く、最近喘息が始まり、鼻アレルギーです。 ところが依然として飲食店での分煙・禁煙が不充分であり、お金を払って食事しているのに他人のタバコの煙を気にしなが食事しなければなりません。 また企業の会議や公的な会議の場でも、依然として喫煙する者がおり、会議室のテーブルにあらかじめ灰皿が置かれているところもあります。 さらに公園や街の中を健康のためにウォーキングやジョギングをしていると、前を歩いている喫煙者がはき出したタバコの煙が流れてきて、その煙を吸い込んでしまい、激しく咳き込むこともあります。 なぜ他人が吐きだした不健康なタバコの煙を、健康のために散歩している者が吸い込まなければならないのでしょうか? 公園・遊園地・テーマパーク・スポーツ施設等はことごとく禁煙にすべきであると思います。 ときおり火のついたタバコを手指に挟んだまま歩いている人がおります。 こうした不完全燃焼のタバコの煙は、かなり離れていても呼吸器が弱い人が吸い込むと必ず咳き込みます。 特に街を歩いていてヒヤッとするのは、喫煙者の歩きタバコです。 実は火を付けたまま持ち歩くタバコの火の位置が、小さな子どもの顔や眼の位置にあり、しかも子どもたちが不完全燃焼のタバコの煙を吸い込みやすい高さにタバコがあるのです。 ある雨の日、迂闊にも傘を差して前を歩いている男が突然タバコを吸い始めたことに気付かず、彼が最初に吐きだしたタバコの煙が彼の傘のなかでかたまりとなり、後ろを歩いていた著者の傘の中にそのかたまりが一気に流れ込んできたことがありました。 著者はその強烈な煙のかたまりを避けきれずに吸い込んでしまい、結局その場で激しい喘息の発作に襲われ、傘を捨ててずぶ濡れになりながらがゼイゼイと発作に耐えておりました。 しかもその後何日も咳が止まらず、結局何回か半日仕事を休んで咳が止まるまで通院までしたのです。 著者のこの苦しさ、この怒りをあの喫煙者は気付きもせず立ち去りました。 著者はこのとき思いました。 著者が受けた苦痛や時間や労働の損失は、著者が負担するべきではなくあの喫煙者が負うべきなのであり、喫煙は他者の健康を損なう一種の「傷害行為」なんだ、喫煙は公害であり、ある種の犯罪行為なのだと。 最近、高校生や若い女性の喫煙率が高くなっています。母胎保護や妊娠出産への影響を懸念するのは著者だけではないでしょう。 未成年者の飲酒の予防として酒類の自販機がほとんどなくなったように、未成年者の喫煙を予防するためにタバコの自販機ももっと台数を減らしてください。 それと同時に、「タバコは安すぎます。1箱5000円〜1万円に値上げせよ!」とあえて主張します。 「タバコは庶民の数少ない嗜好品であり、ささやかな癒しなのだ」と喫煙者は言います。 しかし、他人に害を及ぼさない嗜好品だってあるのであり、喫煙の害悪はもはや「ささやかな癒し」とは到底呼べない状況にあることをどうか認識してください。 コメント 喘息 (Unknown) 2006-12-19 02:35:27 賛成です。煙草は好きな人が吸うのだから一箱一万円でいいんじゃないかしら。私の子供は喘息です。学校の帰り道に煙草の煙で発作を起こし苦しみながら帰宅。すぐに病院、そのまま入院!何度も繰り返しています。注射に点滴ベッドに縛りつけられどれだけ苦しむか!いくらかかると思います?入院費用!一本一万でもいいくらいです! ベランダから (Unknown) 2006-12-19 04:18:06 下の階から煙がモクモク。自宅で吸えないからってベランダならいいの?外ならいいの?他人に迷惑かけるなら!家族に煙かけなさい。ホタル族なんて、惨めな光 ○トールで… (Unknown) 2006-12-19 10:35:41 禁煙席の前のカウンターで煙草吸いながら注文している客に何も言わない店員。禁煙ですよ!と注意したのは他の客、それを無視して煙を吐く客しかも灰は床に!まだ何も言わない店員!ど○ーる店員教育0だし、マナーのない喫煙者だらけ美味しい珈琲も不味くなる。 禁煙・嫌煙・絶煙 2006-12-20 01:26:56 禁煙に関して、前回あえて暴言を吐いたので、さぞやもの凄い非難が殺到するだろうなと覚悟していたら、なんと届いたコメントはすべて非喫煙派からの賛同のご意見でした。 まさに勇気百倍の思いです。 なお直接賛同の電話をいただいたり、別のアドレスにも賛同のコメントが届いているのですが、個人的な関係でもありますので、今回はこのブログにコメントを頂いた方のメッセージのみを紹介させていただきます。 【喘息:賛成です。煙草は好きな人が吸うのだから一箱一万円でいいんじゃないかしら。私の子供は喘息です。学校の帰り道に煙草の煙で発作を起こし苦しみながら帰宅。すぐに病院、そのまま入院!何度も繰り返しています。注射に点滴ベッドに縛りつけられどれだけ苦しむか!いくらかかると思います?入院費用!一本一万でもいいくらいです!】 【ベランダから:下の階から煙がモクモク。自宅で吸えないからってベランダならいいの?外ならいいの?他人に迷惑かけるなら!家族に煙かけなさい。ホタル族なんて、惨めな光】 【○トールで…:禁煙席の前のカウンターで煙草吸いながら注文している客に何も言わない店員。禁煙ですよ!と注意したのは他の客、それを無視して煙を吐く客しかも灰は床に!まだ何も言わない店員!ど○ーる店員教育ゼロだし、マナーのない喫煙者だらけ、美味しい珈琲も不味くなる】 著者もそうなのですが、皆さんタバコには敵意があるのですね。 著者は日頃「タバコは安すぎる、非喫煙者が負担を強いられる様々な費用は本来喫煙者が負担すべき費用であり、1箱5000〜1万円にすべきだ」と周囲に公言しているのですが、このブログにそのことを書いてみたら、「一本一万でもいいくらいです!」と著者の予想を上回るご意見がありました。 喫煙者と非喫煙者の比率を見ると、非喫煙者のほうが多いので、民主主義のルールに従えば、法律で喫煙を制限できるはずなのに、国は税収が減ることを恐れて小手先の値上げでごまかしているのです。 思い切って「タバコ1万円運動」を立ち上げ、絶煙新党を結成してみましょうか? コメント どんなに (Unknown) 2006-12-20 05:01:16 禁煙だと騒いだところで何になる。無駄だよ、無駄 禁煙は無駄? 2006-12-21 00:26:35 やっぱり、来ました。喫煙者からのコメントです。 【どんなに:禁煙だと騒いだところで何になる。無駄だよ、無駄】 非喫煙者からみて、どうしても許せないなのは喫煙者のマナーの悪さです。 「分煙」という、喫煙者と非喫煙者が棲み分けをするという共存の道が曲がりなりにも用意されていても、それを無視したり、周囲から指摘されても喫煙をやめない人がかなりいます。 またあいかわらず歩行中や運転中に火が付いたままのタバコを歩道や道路等に投げ捨てる人もおり、都内の一部で実施されている「歩行禁煙地区」でも時折タバコを咥えたまま歩いている人を見かけます。 さらに都内の多くの駅では「終日禁煙」とか朝のラッシュ時には駅構内全域を禁煙タイムにしていますが、それでもホームの喫煙所でタバコを吸っている人が必ずおります。 たぶん喫煙者は、「タバコを吸うことがなぜ悪いのだ、自分のカネで普通に売られているタバコを買っているのだから、どこでタバコを吸おうと自分の勝手だ」と言うでしょう。 しかし、喫煙者がいつまでもこうした自己中心的な姿勢でいると、非喫煙者はより喫煙者を憎悪するようになります。 冒頭のコメントも、おそらく「非喫煙者のことなど、どうでもいいのだ」との考えにもとづく発言と思われます。 非喫煙者はこうした心ない発言に心底怒りを覚えるのです。 このあたりの非喫煙者の心理を、喫煙者はもう少し理解する必要があるのではありませんか? また健康保険制度は「助け合いの精神」が基本ですので、「喫煙は健康を害する」ことを承知のうえで喫煙を続ける人は、すでに「助け合いの精神」から離脱していることになります。 従って喫煙を続ける人は健康保険制度からも排除すべき人物であることになります。 これは「喫煙者は健康保険に加入しなくてもよい、ただし病気になったときはすべて自己負担か自己責任で対処すし、その覚悟をせよ」という意味なのです。 実は「絶煙宣言」と「タバコ1万円新党」のブログへのアクセス数が急増しており、この問題がいかに関心が高いテーマであるかが改めて裏付けられました。 ただし確かに著者は絶煙派ですが、あえて例外者たる著者の立場で申し上げれば、「もはや大衆のことなど、どうでもいいこと」なのであり、喫煙者も非喫煙者もタバコ・酒等の「どうでもいい」嗜好品に溺れて早く死に絶えてしまえばいいと切望しているのであります。 その意味で【どんなに禁煙だと騒いだところで何になる】というコメントは、「大衆は皆、早く死に絶えろ」という意味で深く共感できるのです。 コメント 無駄だろ (Unknown) 2006-12-21 03:33:18 体に悪いとわかっていて喫煙している奴らに何を言っても無駄。イライラするとか、口寂しいだの言って吸う奴らは逃げ道がない暇人なわけだからね。 リクエスト (Unknown) 2006-12-21 06:55:30 著者はいつも世間に文句ばかり言ってるが、たまにゃなんかホメル事ないのかい?まぁないか!じゃあんたさんがホメラレタ事カイトクレヨ。 登録商標☆獲得☆ 2006-12-22 00:03:40 【無駄だろ:体に悪いとわかっていて喫煙している奴らに何を言っても無駄。 イライラするとか、口寂しいだの言って吸う奴らは逃げ道がない暇人なわけだからね】 かなり言い古された冗句ですが、「タバコをやめられない人は、乳児期に充分にオッパイを吸えなかった人で、幼児性が残っている」のだそうです。 【リクエスト:著者はいつも世間に文句ばかり言ってるが、たまにゃなんかホメル事ないのかい?まぁないか!じゃあんたさんがホメラレタ事カイトクレヨ】 スミマセン m(。。)m ほめることも、ほめられたこともないのです。また仮にあってもこのブログの趣旨にそぐわないので私的な出来事には触れません。 このブログは「あえて異質であること」「大衆社会から離脱すること」で成り立っているからです。 ただし、仕事の上での「ほめたり」「ほめられたり」は日常的にあります。 たとえば本日、「飾り窓の天使」の商標登録証が会社に届いたそうです。 これは賞罰とは関係ありませんが、?アニメイトと論争を交わした商標ですので、とても誇らしい出来事でした。 次回、獲得した商標をこのブログで公表いたします。 マーガリンについて 2006-12-23 01:57:01 最近「トランス脂肪酸」という聞き慣れない用語がマスメディアに登場するようになりました。 脂肪酸とは、食品の三大栄養素のひとつの脂肪を構成するものですが、トランス型脂肪酸は人工的な脂肪分です。 各種植物油(不飽和脂肪酸)に水素を添加しながら化学処理を行うことで 、天然の油脂であるバターやラードのような飽和脂肪酸を人工的に作り出したものがマーガリンやショートニング(お菓子等に使用される加工油脂や、その加工油脂を含む食品に含まれているもの)です。 マーガリンやショートニングなどは安価なため、クッキー・ポテトチップ・クラッカー・パン類・ケーキ・マヨネーズ・アイスクリーム・チョコレート・各種レトルト食品などの無数の加工食品によく使われており、むしろマーガリンやショートニング、高温加熱していない食物油を使用してない食品のほうが少ない状況にあります。 このトランス型脂肪酸は、20世紀初頭には人間の体内には存在していない物質でしたが、我が国の国民の皮下脂肪の中の約4%はこのトランス型脂肪酸であると言われており、体重50kgで体脂肪率25%の女性の場合、体内脂肪のなかの約100gがトランス型脂肪酸であることになります。 ちなみにある研究では、フライドポテト一人分に約8gのトランス型脂肪酸が含まれているそうです。 そればかりか缶入りの各種食用油やサラダオイルなどの植物油も、もし製造過程で高温処理されているとその中にもトランス型脂肪酸が混入していることになります。 特に加熱調理にマーガリンを使用することは、一見「ヘルシー」であると思われがちですが、むしろ調理によりトランス型脂肪酸を増加させることになります。 内閣府食品安全委員会によると、トランス脂肪酸は下記の3つの過程で生成されるそうです。 (1) 油を高温で加熱すること(天ぷら・唐揚げ・フライ・トンカツ・ドーナッツなど) (2) 植物油等の加工に際し水素添加の過程(マーガリン・ショートニングなど) (3) 牛など(反芻動物)の第一胃内でバクテリアによる生成 ではトランス脂肪酸のなにが問題なのかというと、実は体内に入ったトランス脂肪酸は血液中の悪玉コレステロールを増やし、逆に善玉コレステロールを減少させます。 つまり、トランス脂肪酸は動脈硬化の原因となり、心臓病や脳卒中の発病率を高めることにもなりかねません。 またトランス脂肪酸は皮ふ細胞を弱めてしまい、有害物質が侵入しやすくなり、皮ふのトラブルやアトピーの原因にもなります。 このためアメリカを始めとした先進国でもようやく対策に乗り出したのであり、ドイツではトランス型脂肪酸を含むマーガリンの製造が禁止されています。 ひとことで言えばマーガリンや加工植物油であるショートニングは、これを体外に排泄するための代謝に大量のビタミンやミネラルを消費させる有害物質であったのであり、けっしてヘルシーな食品ではなかったのです。 そこで、もしトランス脂肪酸を極力摂取したくないのであれば、加熱しない植物油をサラダに少量掛けるとか、ミネラルも含んでいる少量のバターを加熱せずに摂取することをお薦めします。 実は著者は20年ほど前にマーガリンと菓子類の間食をやめ、バターと非加熱のゴマ油に替えてからひどいアトピーが出なくなりました。 コメント とても! (Unknown) 2006-12-23 02:18:39 わかりやすく説明されていて、感心します。随分、健康に気をツカワレテいるんですね。普通の食生活に決まりとかあるんですか?いつか書いて下さい。又参考にさせてほしいです。 自己陶冶 2006-12-24 00:09:09 【とても!:わかりやすく説明されていて、感心します。随分、健康に気をツカワレテいるんですね。普通の食生活に決まりとかあるんですか?いつか書いて下さい。又参考にさせてほしいです】 「いつか書いて下さい」と言われると忘れてしまうかも知れませんので、さっそく回答しておきます。 実は著者は、いわゆる健康オタクではありません。健康食品やサプリメント・健康器具等にもほとんど興味がありません。 それなのに著者が自己の健康に配慮し続けるのは、「やりたいことをやりとげたい、やりたくないことは頼まれてもやらない」との強烈な私流エゴイズムを貫くためです。 人生はたった1回の自分を主人公としたリアル・ドラマであり挑戦と実験のリングです。 そしてその人生を思い切り贅沢に消尽・蕩尽するために、できるだけ長く自立・独立し、他者に依存しない生き方をしたい・・・。 そのためには日頃から絶え間ない知的活動を行い、食事や運動・睡眠等に関しても自己陶冶(じことうや:ミシェル・フーコーの著書「自己への配慮」のテーマであり、生まれついた性質や才能を鍛えて練り上げること)に努める必要があるのです。 もうひとつ、大切なことは性愛や官能的快楽に関しても常に「至高性」(官能的快楽のエネルギーを活用して、道徳や常識・宗教や社会規範等にとらわれないある種の解脱状態)を求め続けており、そのためにも体調のコントロールにはいつも配慮しています。 アニメイト問題の原点 2006-12-24 00:40:43 このブログで何度も取り上げ、?アニメイトがいまだに問題にしている「飾り窓の天使」の商標が、このたび登録商標として正式に「飾り窓の天使」側に商標登録証として交付されましたので、読者の皆さんにお披露目いたします。 コメント Unknown (Unknown) 2006-12-24 21:42:13 生き方の為に健康に気をつかい性愛の為にも健康に!って事?健康的な性生活に気を使うんですね。私も主人の健康にさらに気をつけます。 自分らしくあること 2006-12-25 01:18:30 【コメント:生き方の為に健康に気をつかい性愛の為にも健康に!って事?健康的な性生活に気を使うんですね。私も主人の健康にさらに気をつけます】 あっ、違います。 たぶん理解しがたいことと思いますが、性愛懐疑派もしくは例外者として「至高性」をめざすのであれば、自分以外のものに配慮する必要はありません。 健康に配慮するのであれば、あくまでも自己の健康に配慮すべきであり、自己に専念することが「あらゆること」に優先されます。 自分以外の他者、特に大衆は著者から見れば「どうでもいい存在」なのであり、喫煙もマーガリンの件も大衆が「嗜好品」もしくは「ヘルシー」だと信じて口に するのであれば止め立てしません。 著者が喫煙やマーガリンに関して警告を発したのは、このブログの読者の中にごく少数の例外者がおり、その選ばれた読者に向かって「大衆から反逆しつつ、健康維持に配慮せよ」とのメッセージを発信したのです。 またもや暴言と言われかもしれませんが、コメントを下さった読者の「ご主人」は、あなた自身ではないし、「ご主人」の人生はあなたの人生でもありません。 女性は結婚すると「○○さんの奥さん」「○○家のお嫁さん」「△△ちゃんのお母さん」と呼ばれますが、この呼び方自体が実は「あなたをあなたと認めない」という意味の呼び方なのです。 クリスマス・イブにあまり強烈なことを言うとショックかもしれませんが、「自分が自分であること」に気付くことは大変難しく、また「自分らしく生きる」ことはさらに困難なことなのです。 なにしろ「性欲」すら他者に従属していたり、他者が企画し商品化された「性欲」をお金を出して購入している(グラビア雑誌・アダルトビデオ・官能小説等)ことすらほとんどの人は気付いておりません。 アナタは! (Unknown) 2006-12-25 04:37:48 結婚されてるようですが、アナタの奥様はアナタの健康を気遣わないのですか?愛し合って結婚したならお互いを気遣うはずです。本当は独身ですか?夫婦愛がわからないんですね 「愛について」 ふたたび 2006-12-26 11:23:18 【アナタは!:結婚されてるようですが、アナタの奥様はアナタの健康を気遣わないのですか?愛し合って結婚したならお互いを気遣うはずです。本当は独身ですか?夫婦愛がわからないんですね】との、「伝説的なコメント」がありました。 著者は性愛懐疑派の最後の生き残りであると、このブログのスタートの際に表明し、まず大衆社会における「愛」を懐疑(深く考えること、三つ以上の視点から考察すること)する必要があると宣言しました。 あれから7ヶ月も経ちましたので、「おさらい」の意味を込めて再度「愛」について著者の見解を述べておきます。 「愛は地球を救う」「神の愛」「交通遺児に愛の手を」「愛がなければ生きてゆけない」「愛のないセックスはすべきではない」等、大衆は常に「愛」を重視します。 しかし人類は有史以来、仲間同士の殺し合い(戦争・内戦・殺人)をやめたことはなく、神の愛が地上にあまねく降りそそいだこともありません。 むしろ「愛」は常にエゴであり、独占欲・所有欲であり、必ずどちらかの従属関係を生み出します。 また「愛」と「幸福」はほとんど「金銭」に依存しており、誕生日やクリスマスのプレゼントを忘れたり、失業して収入が途絶えた途端に恋人関係や夫婦関係はギクシャクしかねません。 このため著者は度し難い大衆社会・衆愚社会からの「亡命」を企てたのであり、著者に続く亡命者希望者のことをあえて「例外者」と呼んでいます。 ちなみに「亡命」は逃避ではなく、挑戦であり生存のために活路を開くことです。 確かに著者には「珍パンジー」なるニックネームの「この世のものとは思えない最悪の配偶者」(この定義は本人承認済み)がおりますが、実はふたりは「愛し合って結婚した仲」でもありませんし、大衆的な「愛」で結ばれた夫婦もありません。 戴いたコメントは、「愛し合って結婚したならお互いを気遣うはずです・・・夫婦愛がわからないんですね」とのスタンスなのですが、自分が自分であることを鮮明にして、そのうえで強烈に自己を確立したいと切望する著者から見れば、自分が自分であることに専念できない者が、たとえ妻であろうと自己以外の存在である者のために「あれこれと気遣うこと」それ自体が「夾雑物」(きょうざつぶつ:余計なものがまざっていること)なのであり、仮に妻にそのような気遣いが必要なのであれば同居する意義もないことになります。 たとえば著者は「自己の性欲までもが、他者によって企画され商品化され、金銭を介在させて誘導されているのではないか」との深い疑念を抱いています。 なぜなら、そこまで懐疑しないと「オリジナルな自己」であることが鮮明になりません。 むしろ「この世のものとは思えない最悪の配偶者」であることが、実は著者にとって「気遣い無用」の関係でいられるのです。 ただし、著者はこうした概念を不特定多数の読者に理解してもらおうと願っているのではありません。 これは選ばれた、ごく一部の、限られた異質な例外者しか理解できないことなのですから 最悪の妻 2006-12-27 00:10:03 【最高の女房だと思うのも結構だ。しかし、他人を不快な目にあわせる事は夫として厳重に注意するべきだ】 どうもご理解いただけなかったようですね。 著者は「この世のものとは思えない最悪の配偶者」と記述したとおり、最高の女房とは言っておりません。 また著者の配偶者であろうと一人の独立した人格を持つわけですから、「夫として厳重に注意する」必要もありません。 世の中には周囲にひどい迷惑を与えながら、一向にそのことに気付かない人がいくらでもおります。 そうした人は、はたして身近な人から常に「厳重に注意」を受けているのでしょうか? 不徳の著者の役目は、ただ「この世のものとは思えない最悪の配偶者を見守ること」だけなのです。 追伸:何人かの知人から「最悪の配偶者とは、あまりにもひどすぎる」との苦言をいただきました。 しかし、本人もこの表現を了承しており、自らそれを自覚しております。 なお、近い内に彼女の「もの凄い日々の言動」を、このブログで紹介するためのコーナーを設けようと思っております・・・と、飾り窓の天使の店長さんに話したら、「そっちのほうが面白すぎて、ブログを乗っ取られますよ」と笑われました。 天皇家のルーツ 2006-12-29 12:47:09 元日には皇居の一般参賀に行こうかな、という会話をしているとき、「天皇家はホントに大和民族なのか?」という話題になりました。 なぜなら天皇家のルーツについては、韓半島(朝鮮半島)からの渡来人説が濃厚でほぼ歴史学でもそう認識されているからです。 特応神天皇・継体天皇・桓武天皇は、中国・朝鮮系の出身であり、天皇家は純粋な大和民族(日本人)ではないという説もあります。 また、今上陛下(現在の天皇陛下)が数年前、桓武天皇の生母・高野新笠が百済出身であることに触れられ、皇室のルーツが韓国にあることに自ら触れられたことがありました。 しかし、古代天皇が近隣国との間で政略的に婚姻関係を結ぶことは、珍しいことではなく、太古より日本列島には海流に乗って東西南北から様々な民族が渡航して来たはずであり、このことは我が国の歴史上に記録された渡来人の数の多さでも裏付けられます。 したがって純粋な縄文人の末裔=大和民族と考えるならばもはや純粋な日本人は一人もいないことになります。 むしろ我が国の古代支配層は天皇家を中心とする百済(くだら)系豪族であり、一部に父系社会を重んじるツングース系渡来民族が存在した可能性が高く、縄文系豪族および一般民衆は母系社会を重んじる海洋系・南方系民族であった可能性が高いようです。 先頃、奈良市周辺の高松塚古墳・キトラ古墳・藤ノ木古墳の保存方法が問題になりましたが、これらの古墳は発見当初、壁画等の撮影を行ったあと、その写真の一部が新聞等に発表されただけで、「現状保存」のために一般公開されませんでした。 実はこれらの古墳が発見当時、「埋め戻し」に近い方法で事実上「封印」されたのは、壁画や副葬品を見たとき天皇家のルーツが百済系であることがあまりにも鮮明であることから、しばらく「ほとぼりを冷ます」との意図があったのです。 (当時、ある学者は「天皇家が渡来民族であることを立証してしまうと、勲章がもらえなくなる・・・」と漏らしたそうです) 著者は、天皇家のルーツがどこにあろうと我が国にのシンボルである天皇および天皇家に変わりはありませんし、我が国の大衆社会が天皇および天皇家が存在することで安定しているのであれば、その意義は大変大きいと思っています。 戦後、国内が内戦状態にならなかっただけでも、幸いであったのです。 元日の皇居の一般参賀に行く方もTVでご覧になる方も、天皇陛下のお顔を見ながらご自分が「百済系」なのか、「海洋系・南方系」なのか思いをめぐらしてみてください。 女性自立支援プログラム 2006-12-30 12:18:33 本日、23時をもって「飾り窓の天使」は本年の営業を終了いたしました。 早いもので、今年3月末にオープンしてから、9ヶ月も経ちました。 今日までに「飾り窓の天使」にご来店くださいましたお客様、本当にありがとうございました。 また、同店を取材してくださったマスコミの皆さんにも篤く御礼申し上げます。 お陰様で「飾り窓の天使」では、同店独自の民間企業による「女性の自立支援プログラム」に参加した2名のキャストさんが、パート社員を経て正社員へと順調にステップアップし、契約社員と正社員合わせて現在女性9名の雇用の創出が実現いたしました。 フリーターや派遣社員を経験した女性の正社員登用が難しい時代に、本当に素晴らしい事業が育っていると思います。 ちなみにオープン当初は、福岡市立大名小学校前に「風俗まがいの店舗が出来た」とか、向かいの美容院さんから「下品すぎる」等の批判があり、さらに第一公建ビルの入居者からも「コスプレ」について様々な意見が噴出しましたが、結局こうした噂や出来事は沈静化し、このところ周囲の方たちが真面目に働く若い女性達を温かく見守ってくれるようになりました。 また?アニメイトによる登録商標をめぐる争いも、特許庁が「飾り窓の天使」側に「アニメイト」なる文字列を含む商標の登録を認め 、年末には商標登録証が交付されました。 これで一応?アニメイトとの「蟻と象の戦い」も、「飾り窓の天使」側が勝利して初戦を飾りました。 新年は、世界初の「ファンタジー気功」のバージョンアップ計画がスタートし、5日より営業を開始いたしますのでご期待ください。 大晦日の決意 2006-12-31 12:56:37 このブログの目的は、平成18年5月27日のブログにある通り「性愛に関する知的でまじめな思索を目的とする『性愛懐疑派』の主張を紹介するとともに、脳の中に豊かな官能的ファンタジ−を蓄積することで創造力や活力を導き出すための『脳内写生」やその先にある『至高性」について解説することでした。 さらにこのブログは、選ばれたごく少数の「例外者」のために、あえて異質な意見を「暴言を吐く」という形で述べることで、読者を選別してきました。 途中このテーマから少し逸脱することもありましたが、全体として難解なテーマが多く、はたして何人の読者が付いてくるだろうと期待半分・興味半分の7ヶ月でした。 ところがなんとこの7ヶ月間に31500件余の閲覧数があったのです。 もともとこのブログは、「判る人に判ればいい、判らない人には判らなくていい、大衆にではなく選ばれたごく少数の例外者へのメッセージに徹する」というスタンスを守って来ました。 このため著者はいま、「7ヶ月間で31500件の閲覧数」という現実に直面して、はたして喜ぶべきなのか、反省すべきなのか少々困惑しています。 そして新年からは、もっとハードルを高くして、よりレベルの高い例外者のための「脳内写生」や「至高性」に関する著者の見解を述べたいと決意した次第です。 多くの読者の皆さん、本当に閲読くださいましてありがとうございました。 よりレベルアップした「脳内写生」にどうぞ、ご期待ください。
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